第17話 気まぐれハンカチ―フ
***
糸を止め、ハサミを入れるとパチンと小気味いい音が鳴った。縫い上げたあとの、布や針を切り離すときの、最後のハサミの音がロクサーヌは好きである。
縫い上がった大公家の家紋は、我ながらなかなか良い出来であった。子どものおくるみにでも仕立てさせようかと思ったが、このまま小さめに切ってハンカチにしてもいいかもしれない。
ようやくひと段落つきカップに手を伸ばすと、視界の端に映ったその人の姿を見てロクサーヌは二度見した。目が合った途端、ニコニコとして軽く手を上げられた。
「……閣下?」
「なにを縫っていたんだ?」
「特になにを目指して始めたわけでもないのですが。ハンカチにでもしようかと」
そうか、と述べながら、アレクサンドロは大して興味もなさそうであった。その姿が普段着だからか、ポケットチーフもなにも見当たらなかった。
「よろしければ、こちらは閣下の分にしましょうか」
「――私に?」
目を丸くしていた。そんなにおかしな申し出だったろうか。
「? こちらの世界では、婚約者に贈り物をする文化はないのですか?」
「ある」
だが自分がその対象になるとは露ほども思わなかった、という顔である。そのわりにはっきり言ってこない。
手縫いを渡すのが礼に失する行いだとか、そういったことは誰からも耳にしていないのだが問題でもあるのか。
なにか? とロクサーヌが答えを促すと、彼は心底不思議そうに述べた。
「君は、私を婚約者としてあまり認識していないのだと思っていた」
「? なぜそのようが誤解が……? わたくしたちはすでに正式に婚約しましたでしょう? 閣下の目の前で、婚約誓約書にも同意しサインをしたではございませんか。
……こちらの世界では、唐突な贈り物はなにか疑わしい行為だったりするんですの……?」
「いやそんなことはない、微塵も」
……ありがたく受け取ってもいいだろうか、と問うので、では出来上がり次第差し上げますわね、とロクサーヌは頷いた。
「そういえば、愛称呼びはしてくれなくなったな」
寂しいことだ……と、なにやら大公はしおらしい顔をした。
視察でしばらく会わなかったので、すっかり忘れていただけである。
しかし、突然帰ってきたと思ったらこの方は急になにを仰るのか。
おそらく、アレクサンドロは呼び方なんて実際はなんとも思っていないだろう。これは、ロクサーヌの存在に慣れてきた彼の、少しずつ出てきた茶目っ気なのだろう。
「それよりここにはいついらしたのですか?」
「ほんの少し前だ」
今日は天気が良く、風もさほどなかったので、ロクサーヌは外庭のガゼボにてのどかに刺繍をしていた。貴族名鑑もとうに覚え終わったし、魔法の授業も座学が中心のため、進み具合がのんびりとしており暇だったのだ。
暇を持て余すのが苦手なロクサーヌは、専属メイドの3人からこの世界の淑女のオーソドックスな暇の潰し方を問うた。そして読書と刺繍を勧められたのである。
どの世界も淑女の手遊びは同じなのね、と、ちまちまやっていたら、いつの間にやら大公が対面の席で黙って足を組んでいたのである。
「……わたくしの思う少しと、閣下の少しが同じであればよいのですが」
声を掛けてくれればいいのにとつくづく思うが、アレクサンドロは満足げに「婚約者殿、私を気遣いたいなら閣下呼びを卒業してくれたほうが嬉しい」と手に持ったカップに口をつけた。
やはり、ロクサーヌがいつ気づくのか、内心面白がって待っていたに違いなかった。
視察に出ていた彼は、ひと月しか経っていない頃にいったん帰ってきた。用が済んだのではなく、ちょっと様子を見に戻ってきただけだと述べ、そしてその日のうちにまた出て行った。
おそらくニコルが来てすぐに、誰かが連絡をやっていたのだろう。
それにしても視察先から戻ってくるなんて、あの令嬢はこれまでいったいどれだけやらかしてきたのかしら、と泣き濡れたニコルの顔を思い出した。
「レックス」
アレクサンドロは楽しそうに嘯いた。
「なんだロキシー、私に何用だろうか」
いえいえなにを仰るの、と言いかけて口を噤んだ。婚約したとはいえ、愛を土台にした婚約ではなく契約であり、そして相手は大公である。
そんな軽口を言ってよい相手ではなかった。からかわれているのかもしれない。
「わたくしに用があるのはレックスではないですか」
「? なぜそう思う」
「本当はいつからお待ちになっていたのです。いつもお伝えしてますでしょう、お声をかけてくださればよろしいのに」
「待ってなどいない、楽しく眺めていただけだ」
と肩を竦め首を振った。
この大公は何故か最近、黙ってじっとこちらを見つめているのである。
監視をされているだとか、観察されているだとかという気配ではない。そういったものであれば、これまでの社交経験からロクサーヌもすぐに気づける。だが彼のそれは、本当にただ眺めているだけという感じで、気配も何もないのだ。
目が合ってもアレクサンドロは(本人に気づかれた!)というバツの悪い表情すら一切浮かべず、泰然としたままニコリと微笑むきりで、ロクサーヌは心底困惑していた。
それも特になにをするでもなく本を読んでいる時だとか、刺繍をしている時だとか、カウチで転寝をしているようなところを見つめられているのである。
なので目が合って恥ずかしい思いをするのは、決まってロクサーヌの方であった。
「質問をしてもよろしくて?」
「もちろんだ。なんでも訊くといい」
なんでも、ねぇ。言うのは簡単である。
「なぜ最近、わたくしのことをそう眺めていらっしゃいますの?」
「眺めると言われるとムードの欠片もないな。見つめると言う表現が適切だ」
「それでなぜ? わたくしを見つめていらっしゃいますの?」
肩を竦めた。
「男が女を見つめる理由なぞひとつだと思うが、違うのか?」
「……。わたくしの容姿はこの世界でも通用するようですわね、安心しました」
「んん……、伝わらないものだな」
今度はロクサーヌが肩を竦める番だった。アレクサンドロの茶目っ気をまともに受け取っていたらキリがない。
「ところで、彼の働きぶりはいかがですか」
ここで他の男の話を出すか、と、アレクサンドロはさらに苦笑した。
「おかげでかなりはかどっている」
君の慧眼には助けられた、と言いながらニヤリと笑った。
それはそうだろう。ロクサーヌはもともと、彼を自分付きの秘書か執事として雇うつもりでいたのだから。
家政の一部を任されるようになったロクサーヌは、まずあの役場からテランスを引き抜いてきた。異世界人による経過報告と相談を建前に突然呼び出され、目を白黒させながら大公屋敷にやってきたテランスは、
『貴方、大公家で働くつもりはない? 試用期間中でも、いまの給与の倍はだすわ』
とのロクサーヌの言葉にひっくり返った。
しかし仕事がありますし、なにより役場は慢性的に人手不足で、と及び腰になる彼に、
『人手が足りないのをどうにかするのは雇う側の仕事で、雇われている貴方じゃなくてよ。ここでは働きぶりに応じて別途手当もつくわ』
と述べた。
意外なことにテランスはそれでも悩んだので、ロクサーヌはいよいよ彼の真の望みを察した。
『――大公家使用人の休暇消化率は、毎年8割を越えるそうよ』
『慎んでお受けいたします』
テランスが心から求めていのは、休暇だったのだ。
給与は上がり労働条件もよくなり、テランスの目の下のクマは見る間に薄くなっていった。
――これで仕送りの額が増やせます、実家にも久方ぶりに顔を見せられそうです、と述べたテランスは嬉しそうであった。
これまで、いったいどれだけ休暇が取れていなかったのか。相変わらずの彼の考え方にロクサーヌは溜息をついたが、本人が幸せそうなので口を挟まないことにした。
「我々の今後の予定だが」
「ええ」
アレクサンドロは、不定期だがこうやって先の見通しを教えてくれるのでやりやすい。だがこれは婚約者に対するものというよりは、管理者から行われる情報共有に近いものがあった。
彼は先妻とも紙一枚の関係だったし、面倒を割けるために恋人も作らずに来たという。異性との付き合い方がよくわかっていないのかもしれない、とロクサーヌは推察していた。
おそらくアレクサンドロに自覚はないのだろう。婚約者らしく云々、課題があるのはわたくしだけではなくってよ、とロクサーヌは思う。
「君が無事出産を終えたら、一度挨拶に伺うよう陛下より申しつかっている。君の体調がよくなり次第、宮廷へ赴くことになる」
「わかりました」
そういえば、婚約誓約書の際に許可もいただいたという話だったのに、お礼を申し上げるどころか、まだ挨拶もできていない。お礼はアレクサンドロが済ませたのだろうか、と内心首を捻った。
「あとこれも産後の話だが、社交もしてもらうことになる。パートナーの必要なパーティには私と参加してもらう。
貴族名鑑はすでに読み終わっているそうだな。なら特に気にする部分はないが……、君のいた世界とマナーが違わないか、教師を雇っておくから確認しておいてほしい」
陛下とお会いするまでにだ、できるか、と問われ、もちろんですと頷きつつふと思った。
「ところでレックス、これまではパートナーの必要なパーティーでは、いったいどうしてらしたの? どなたかに頼んだりとか?」
これからその相手が困ることになるのではないか、連絡はいれてあるのか、などといらないことに気遣いが回った。
「問題ない。これまではひとりで行っていた」
「おひとり?? パートナーの必要なときの話ですわよ」
「気にせずひとりで出ていた。堂々としていれば意外となにも言われないものだ」
あっけらかんとして彼は述べたが、それは大公だから誰も言えなかっただけで、気にされていなかったわけではないだろう。
ふとその顔が微笑んだ。
「これからは君がいるから踊れるな」
「……これまで踊ってこなかったんですの」
あれほどダンスが好きで、嬉しそうに話までしていたのに。
「一度踊ると、次その相手に誘われたとき断るのに難儀するだろう? それも純粋に踊りたいのではなく、どうせ私に口説かせたいだけだ。皇后陛下や他国の貴賓としかまともに踊ったことがないな」
それもなにか内密のある話のときだけだったから、踊ってもまったく楽しくなくてな……、とアレクサンドロは遠い目をした。
「でしたら。これからはただ踊れますわね、なにも考えず、楽しく」
「……そうだな。楽しみだ」
婚約してよかった、としみじみ言われたが、ダンスのためではないでしょう?? とロクサーヌはやや呆れた。
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