悪役ロクサーヌ夫人の安穏な人生

綾瀬 柊

第1話 異世界へ落ちる

***


 現実は物語とは違う。

 婚約者に色目を使うポッと出の男爵令嬢、それも庶民上がりの養子風情なぞ、所詮わたくしの敵ではなかったのだ。


 お国に5つしかない侯爵家の末娘として生まれ落ちたロクサーヌは、あの女が現れるまで人生になんの不満もなかった。

 両親譲りの鮮やかなブロンドヘアは、シャンデリアの光を浴び常に人目を引き、父譲りの目を瞠る美貌に、母譲りの澄み渡ったスカイブルーの瞳は老若男女を虜にした。存在しているだけで『まるで天使のようだ』と褒めそやされて生きてきたのだから。


 だがロクサーヌは、容姿に胡坐を掻くような愚か者ではなかった。むしろ泥臭い努力を愛する根性の人であった。

 彼女は伝記にまでなった英雄騎士の家門の末裔であり、娘であることから騎士試験こそ受けなかったが、『敵は煩悩と同じだ。斬り捨て、そして捻じ伏せるにはまず、たゆまぬ努力を重ね己を研ぎ澄ませておくことだ』との家訓に則り、心身共に厳しく躾けられたのだ。

 かくしてロクサーヌは、何事にも人一倍の努力を重ねる志の高い娘に育っていった。アカデミー時代の成績はすべて優良でどの科目でも常に5番以内に名を連ね、国のため家門のため家族のため、そしてなにより自分のために、あらゆる研鑽を欠かさぬようになったのである。

 家柄がよければ家族兄姉仲もよく、自分と同じく評判のよい友を持ち、容姿がよければ頭も良い。努力に裏打ちされたプライドは高く、ちょっとやそっとでは折れぬほど研ぎ澄まされていった。


 そんな美しく努力家のロクサーヌに、いったい何の不満があったというのか。


 あるとき王立アカデミーで出会ったその望まざる不愉快な存在は、初対面の時点で何故かロクサーヌの婚約者に馴れ馴れしく話しかけ、勝手に腕までとろうとしていた。

 婚約者ローランドは女の言動に戸惑いながらも『やめなさい、親しくもない異性にしてよい振舞いではないよ』と、やんわり断っており、居合わせたロクサーヌの顔を見て必死に首を振った。

 癖のない茶髪にエメラルドグリーンの瞳をした、物語の王子様然とした容姿のローランドは、良く言えば見た目同様に誰にでも物腰が柔らかく親切で、悪く言えば押しに弱く優柔不断な男であった。

 思わぬ姿を目の当たりにしたロクサーヌは、不愉快ながらも毅然とした態度で、

『――貴女の言動は淑女にあるまじきものよ。アカデミーのことは、教員かお友だちにでも訊くことね』

あとその方はわたくしの婚約者なの、馴れ馴れしくしないで頂戴、と、なおも彼の腕を掴もうとする女の手を扇子で叩き、キッパリと一掃した。


 だが伝わらなかったのか何なのか、女の態度は改まるどころか、

『貴族のお作法にまだ疎くって』

『庶民生活が長いせいだと思うんですけど』

との建前を振りかざし悪化の一途を辿り、そして優柔不断な婚約者は見る間に懐柔されはじめた。


 ロクサーヌにはまるで理解できなかった。

 女は成績も平凡で、お世辞にも物覚えも性格もいいとは言いがたく、顔だって取り立てて美しくはなかった。一言でいえば、凡庸。

 なぜ、自分とは比べるまでもないあの娘に、いつまでも彼は目をかけてやるのだろう。

 このままでは、わたくしはアカデミーでも社交界でも笑い者にされてしまう。そしてローランドは、その程度のこともわからないような柔な育ちの男ではなかった。

 だが婚約者の様子を見るに、彼自らの手による解決を望むのは難しそうであった。


 ――しかたがない。自分でなんとかするほかないようね。


 本人たちによる自粛を諦めたロクサーヌは、ありとあらゆる手を使い目障りな女の排除に動き出した。貴族お得意の策謀や根回しを、これでもかと駆使しまくったのである。

 まず手近なギルドに命じ、下請けの下請け、さらにその下請けのような末端に女の養父との接触を命じた。そして時間をかけて、頻繁に酒を酌み交わすような親密な仲にまで育てあげた。

 数年ののちその末端に、養父へ一見素晴らしいが巧みな話術で着々と資産を食い漁る、実に悪どい詐欺案件を掴ませることに成功した。

 あとは簡単だ。適切かつ絶妙なタイミングで、破滅へのカウントダウンを始めるだけだ。

 詐欺案件によってできた微々たる借金を、違法ギリギリの利率をかけ雪だるま式に膨らませ、アカデミー卒業直前に爵位売却へと追いやり貴族社会から叩き出したのである。

 女の一家を、全員まとめてただの庶民へと落としたのだ。


 ロクサーヌは勝負に勝った。無事、婚約者を守りきったのだ。

 だが先程も述べた通り、現実は物語とは違う。結婚とは、幸せが結実した終着地点ではなく、人生の通過点のひとつでしかないのだから。


 おそらく約束をしていたであろう卒業パーティにも現れず、なんの音沙汰もなく女が姿を消した後、ローランドはアカデミー入学前の、少し頼りないが穏やかな笑顔の優男に戻った。

 あの女にかまけてロクサーヌを蔑ろにしていたことなど、まるで最初からなかったかのように、ふたりは家族友人はもちろん、政略的要人たちを呼んだ見本のような豪華な結婚式を挙げた。

 そののちも円満な日々が過ぎた。結婚記念日にはサプライズでパーティーを、ロクサーヌが落ち込んでいるときには、花束と小洒落た贈り物をくれた。

 ――貴女のことを尊敬している、これまでもこれからもずっとそうだ、と夫は言った。


 とはいえ、表面上はともかく完全に元通りにはなりようもなかった。

 元のようにあろうと互いが努力すればするほど、まるで下手な役者が演劇をしているかのように、ふたりには違和感がずっとついて回った。

 ローランドにはロクサーヌを裏切った罪悪感が、そしてロクサーヌにはローランドに裏切られた怒りが、常に心の奥底にこびりつき、いつまでも燻り続けていたのである。


 結婚してからもロクサーヌは、彼との関係を完璧に修復すべく必死に努力を重ねた。それは涙ぐましい努力だった。

 次期公爵夫人として立つべく、彼の隣を守るに相応しく思ってもらえるように、義母である公爵夫人から家政を習い、そして品格に相応しい人あしらいなどを賢明に学んだのである。

 努力の成果か、公爵家の彼の家族や使用人らは、ロクサーヌを未来の女主人として正しく迎え入れてくれた。


 だが残念ながら、いくら継いだとしても割れた皿は割れる前には戻らない。

 努力というものは、あるべき方向に正しく向かわなければ意味をなさないのだ。


 結婚して2年が経った頃、ようやく彼との子をなせたとき、ロクサーヌは歓喜に震えた。嬉しかった。

 子どもさえいれば、後継をつくるという責務を果たせば、今度こそ夫は心からの笑顔を見せ喜んでくれるに違いない。これで自分の価値を証明できる、この関係も元に戻りうまくいくに違いない、と思ったのだ。

 私たちは、あんな女に揺るがされるような関係ではなかったのだと、ついに証明できた。私は侯爵家の娘であり正当な血統の人間であり、彼とその家門に相応しい跡継ぎを身籠ったのだから!


 医師から懐妊を知らされた直後は、つかの間の心の安寧が訪れた。

 専属侍女はもちろん、執事や医者にも口止めをし、家族より誰より先に、父となる彼にこの吉報を伝えたいと願った。仕事で不在がちな彼の帰宅を待ちながら、(いつ屋敷に戻るのかしら、待ちきれないわね)と胸を踊らせたことを覚えている。

 ロクサーヌは今のぎこちない関係が、おなかの子によってすべて変わると思っていたのだ。


 彼がまだ、隠れてあの女との逢瀬を楽しんでいるのを知るまでは。


 とある冷たい冬の雨日、多忙につき屋敷に何日も帰ってこず顔を合わせられなかった彼を、しびれを切らしたロクサーヌは迎えに行くことにした。

 普段ならしないことであった。

 妻として職場の方に挨拶をする彼女を、夫が好ましく思っていないことを知っていたからだ。『美人な妻がいると、皆にからかわれて恥ずかしいから』と苦笑しながらも、嫌でも人目を引くロクサーヌが職場で話題に上ることを、彼が疎ましく思っていることくらいわかっていた。

 だが今回ばかりはいいだろう。ロクサーヌはそう勝手に思い込んだ。身籠ったことを、それくらい彼女は早く彼に伝えたかったのだ。

 職場付近につくと、無事、夫の馬車を見つけた。だが見つけた馬車は入れ違うように仕事場から出てゆき、思いもよらぬ方向へと走っていく。

 事態が飲み込めず、されどなんだか嫌な予感がして、ロクサーヌは気づかれないように後を追うよう御者に告げた。


 よく見慣れたその馬車が庶民の家が立ち並ぶ区画に入って行き、ロクサーヌの体はそのうち怒りとも悲しみともつかぬ感情で、地震のように戦慄きはじめた。

 止まった馬車の死角になる場所に止めるよう指示を出し、馬車を降りる彼の背を、どうか違って頂戴と、祈るような気持ちで見つめた。

 震える足で馬車を降り、小汚い軒先に隠れて見つめたあの光景を、ロクサーヌは生涯忘れることはないだろう。

 屋敷では見たことのない、夫の安心しきった笑顔。優しい気遣いの伺える立ち姿、幸せそうに出迎える、忘れることのできない誰より憎いあの女の姿。


 どれもこれも、本来ならわたくしが得るはずだったすべてのもの。


 夫は仕事と嘘をつき、あの女のもとへと通っていたのだ。

 見た瞬間、ロクサーヌは、子どもを身籠ったと告げても夫との仲は変えられないのだと悟った。

 思えばロクサーヌはずっと片想いだった。何年も何年も、婚約してからずっと彼だけを愛し努力し続けてきた。だが、ただの一度も同じ感情を返してはもらえなかったことに気付いた。

 それでも彼は敬意をもって接してくれていたから、あの不愉快な女が現れるまで不満など感じたことがなかった。恋という同じ気持ちには発展しなくても、そのうち穏やかな家族愛に発展するだろう、それも貴族の結婚なのだから、きっとそういうものだと考えていたのだ。


 そう、あの女さえ現れなければ。なにも気づかずそれなりに幸せに暮らしてゆけたはずだったのに。

 アカデミーにあの女が現れて婚約者をたぶらかす姿を見たとき、ロクサーヌは初めて嫉妬と言う感情を知った。

 身を切られるような切なさと悲しみと、何もかもを燃やし尽くせるほどの激しい憎悪に駆られた。平静を装えたのは最初の頃だけで、そのあとは自分でも抱えきれないほどの悪意を胸に、正面から力いっぱい、女を追い落とすことに全力を尽くした。

 彼にはとても相応しくない、恥ずかしくて二度と会えぬような身分に落としてやろう、と。


 そうしてロクサーヌはあの女を文字通りボコボコにして、予定通り婚約者と結婚し、『やりすぎだ、なにもあそこまでしなくても』などと影で囁かれながらも、(わたくしは何も間違ったことはしてないもの)と胸を張って生きてきた。

 実際、ロクサーヌは不貞どころか不埒な噂になるような行いもしたことすらなく、汚点と言える要素はなかったのだから。


 だが目の前のこの残酷な現実は、自分の正しさを信じて努力してきたロクサーヌの心を打ち砕いた。

 そのうち社交界でも囁かれるだろう。

 ロクサーヌとお腹の子どもが、笑い者にされるのも時間の問題なのだと、嫌というほど突き付けられてしまったのだ。


 ……こんな惨めなことがあるだろうか。

 わたくしはあの女に勝ったはず。なにひとつ負けたところなどないはず。そもそも比ぶべくもなく、負ける要素などひとつもないのだから。

 奪われかけた婚約者を取り戻し、結婚し、子どもまで身籠ったのにこの始末。


 今度こそ評判は地に落ちるだろう。

 いま現在だって、不倫に悩まされる貴婦人たちからの評価は『婚約者を守り切った、天使の顔をした女傑』として名高いが、男性たちからは『結婚前のほんの火遊びすら許さない狭量な女性』と評価は二分していた。

 そして貴族社会というものはほぼ男性社会であり、白い眼はいまも継続しており、女性の社交界でも侯爵から公爵家へ、それも顔も家柄もいい男性のもとへ嫁いだいけ好かない女として、同年代の女性たちからは最初から一定数嫌われていたのであった。


 涙なんて出なかった。政略結婚だとわかっていた。

 愛して欲しくて愛したのではなかった。見返りが欲しいわけでもなかった。

 でもこの仕打ちはあんまりだろう。


 ――なぜわたくしだけ、こんな目に遭わなければならないのかしら。なぜ幸せになれないのかしら。なぜ努力がここまで報われないのかしら。

 この雨の冷たさにはとても似つかわしくない、憎たらしいほど晴れやかな笑顔を浮かべたあの女が、優しく穏やかに微笑んだ彼を、屋敷とはとても呼べない貧相な自宅へと招き入れた。

 慣れた様子で入っていくのを、絶望的な気持ちで見送った。


 ……もう消えてしまいたい。

 足元にできていた水溜まりが、不意に底無し沼のようにロクサーヌを引きずり込んだ。

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