第19話 四粒目の妖——抱擁と世界線

「……いや、食べてくれると嬉しいんだけど」

 エトワール・フォンダントの店長サトウさんが、少し困ったように微笑む。眉尻が下がった顔も爽やかだ。

「こんな綺麗やのに、食べるなんてもったいないです! 壊したくないっていうか、ずっと眺めてたいゆうか……」

 僕が力説すると、横から眉をひそめたタカヤナギさんが溜息をついた。

「せっかく貰たんやから」

「う……、それはそうですけど……」

 上から眺めて、諦めてそっとチョコを指先でつまみ、口元へ運ぶ。金粉が光を反射して、最後まで宝石のような輝きを放っていた。

 口に入れた瞬間、カカオの深い香りが広がり、舌の上でゆっくりと溶けていく。外側のコーティングのパリッとした食感と、中の滑らかなガナッシュのコントラストが絶妙だった。

「んー。めちゃめちゃ美味し……!」

 一瞬、背筋にぞわりとした感覚が走った。が、気のせいだと受け流した。

 別の皿に乗った一品をタカヤナギさんは、もう口の中に放り込んで、頷いている。

「でしょ?」

 サトウさんが優雅に微笑む。僕は、うっとりしながら頷いた。

「これはもう、幸せになる味ですねぇ」

「それがうちのチョコレートのコンセプトだからね。食べた人が幸せな気持ちになれるようにってね」

「まさにハッピーなショコラだ」

 僕が高揚してそう言うと、サトウさんが意味ありげに、ふっと笑った。

 美味しさに夢中になって、飲み込んだあと、喉の奥にかすかに何かが引っかかるような気がした。

 ふと視線を感じて顔を上げると、キリハラさんが睫毛バサバサの眼でじっとこちらを見ている。

「気に入ってくれたなら良かった。でも、実はまだ試作段階なんだ。このバレンタインに向けて、新たな改良を加えたいと思ってるんだよね」

「えっ、これでもまだ試作なんですか!?」

 僕が驚いていると、タカヤナギさんが時計をちらりと見た。

「それでは、打ち合わせに行かせていただきますね。デザイン案をアートディレクターの方から説明致しますので」

「少々お待ちください!」

 急いでカバンから資料を取り出し、机の上に広げる。

「今回は、上品で洗練されたイメージを重視して、シンプルかつ高級感のあるデザインを考えました。Webだとこのように。チラシの紙質はざらっとした手触りで、若干厚手の紙を選んであります」

 僕の言葉に、サトウさんとキリハラさんがじっくりと、資料、それにデザインをプリントアウトしたA3の紙を見つめる。

「うん……いいですね。シンプルだけど、ちゃんと洗練されてるし、コンセプトが伝わってくる」

「ふうん。なるほど……紙質も悪くないですね。この厚さもちょうど高級感出てますねぇ」

 キリハラさんが厳しい顔つきで、隅々までチェックしていく。

「ねえ、てんちょお、コレ、ここもうちょっと色味をおさえたほうがいいかもぉ」 

 キリハラさんが資料の一部を指差しながら提案してきた。僕はすぐにメモを取りながら頷いた。

 ものすごく細かいところなんだけど、実はちょっと明るくするか、暗くするか迷ったところだった。

「そうですね、確かに、ここを少しトーンダウンするのもありですね。そちらがお好みでしたら、修正しておきますね。ニーズに合わせて、商品のラインアップは適宜変更させていただきます」

 打ち合わせは順調に進みデザインは、ほぼ確定した。

「この案で細かい修正を加えて、来週には最終案を提出させていただきます」

 僕が宣言すると、サトウさんが微笑んで、

「期待していますよ。次回も美味しいチョコを用意しておきますね」と言った。

「うわー、それはめっちゃ楽しみです!」

 僕は思わず笑顔になり、一方でタカヤナギさんは「食い意地はってんなぁ……」と苦虫を噛みつぶした顔。


 ••✼••


 俺たちの提案は、うまく進んだ。途中までは。

 ところが、エトワール・フォンダントのレトロで重厚な店舗の扉を開けて出たところで、ソウジはどっと汗をかき始めた。顔から汗が吹き出している。

「なんや……これ、打ち合わせのとき、なんともなかったのに」

 見る間に身体が揺らぎ、俺の腕をつかんだ。ソウジの背中のリュックをつかんで引っ張り上げる。

「辛いとこ、悪い。その先の一角まで頑張れ。後ろから奴らに見られてる」

 俺の言葉で、ソウジはぐっと堪えて身体を起こし、普通の歩幅で歩き出した。

「なんやこれ、めっちゃ熱い……」

「ソウジが『キレイで食べられへん』言うてたけど、あのチョコは特別に美味そうやった。……なんか仕込まれたかもしれん」

「……なんで僕だけ」

「いっつも着物着てたからか、匂いが誘因か。俺は毒にも慣れてるからな」

「匂い……?」

「まだなんとも言い切れず様子見やったんや。早すぎて回避できなかった、すまん」

 急速に身体が熱を持ち、触れている手はしっとり汗をかいている。

 ソウジが眉をしかめた。

「これからお前の運命は、俺が歩む『世界線タイムライン』に繋がっていく。……それを、俺の傍で生きることを選べるか? いや、選べ。もし選ばずとも、お前がどこへ行こうと、俺の守りはついていく」

「……わかった。僕のこれから見る世界はそうなんや。踏み込んでもうてたってこと……」

 憮然とした顔でソウジは歩き続ける。

 だが、額からは汗が伝い、シャツが濡れ、ぐにゃりと力が抜けそうになる。

「ちょ、まじで、ヤバいかも……」

 すぐそこの交差点を曲がれば、公園まであと少しだった。

 あと、五歩。


 ソウジの身体が限界を超え、地面に崩れ落ちる直前、下から抱え込み、俺はその背に手を強く押し当てた。

生線離脱クロノスケープ

 瞬間、周囲の喧騒が一瞬にして消え失せた。

 すれ違う人々も、後ろから注がれる不穏な視線も、すべてが遠く、別世界のモノのようになる。

 俺たちの歩む「世界線タイムライン」が、わずかに、しかし決定的に「ズレた」のを感じた。

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