第九話 神父の罪
「足りない? 異教の力?」
ストラシュは怪訝そうな声を上げた。ルヴィナチワの顔が浮かぶ。目の前の老人の隠し事は、存外に彼女の隠し事にも通じているのかもしれない。
「村を救うには……」
神父の声がさらに小さくなる。
「そうしなければならなかったのです」
ストラシュは息を呑んだ。神父は痛みすら感じているような重苦しい調子で言葉を一つ一つ丁寧に紡ぎ続ける。
「この地域では、森の民を無視しては暮らせません。帝都の医術なんてここらではお目にかかったこともない。薬は……彼らだのみです」
「だろうな……」
怖がったり、差別している相手でも、頼らざるを得ない。その複雑な心境をストラシュは想像した。おそらく、精神は不協和音を奏でるだろう。
「グレゴール神父。敬虔な信徒だろうと、あんただろうと、森の民の力を裏では信じているのか?」
「そうなのかもしれません。いえ、少なくとも村人はそうですし、私自身も今……気づいたというか……認めるしかないでしょう。そう、ですね」
神父はよろよろと立ち上がる。ストラシュは手を貸した。杖をしっかり握って体を固定すれば、老体を引き上げるくらいはできた。グレゴール神父はすっかり恐縮してしまったようだった。
「村人たちは……夜な夜な森へ行くことがあります。東の民に導かれ、儀式を」 「あんたは黙認しているのか」 「止められません。彼らは魔界から身を守るためだと信じている。そして私も……半ば信じているのです。そう、そういうことになるでしょうね。神に祈るだけでは足りないと思ってしまっているのです」
その告白は、神父という職にある者としては決定的なものだった。
「領主は知っているのか?」
「まさか」
神父は大きく首を横に振った。
「あの方は秩序を重んじる人。知れば力ずくで浄化しようとするでしょう。死人が出ます」
ストラシュは深く息を吐いた。この村の複雑さに圧倒されている。そして……昨夜見たものを思い出した。
「昨晩受け取っていたものは何だ」
神父の体が完全に固まった。顔から血の気が引いていく。
「見たんだ。窓から。あんたが東の民の老婆と会っているところを。よくは見えなかったが」
神父は答えない。ただ震えている。
「お見せしたいものがあります」
神父はストラシュから離れると、祭壇の後ろにある小さな扉のところへ行き、懐から鍵を取り出して開けた。ストラシュが段を上がって近寄ると中が見えた。古い聖具、山積みの蝋燭、そして奥の棚。 そこに、小さな包みがいくつも並んでいた。 グレゴール神父は顔を背ける。ストラシュが奥へ手を伸ばし、一つを手に取る。締め紐を解くと、乾燥した薬草が現れる。独特の匂いが広がった。
ストラシュは包みの中をまじまじと見る。神父は顔を背けたままだ。ストラシュは思い当たる可能性を記憶からたぐる。例の報告書に書かれていたはずのこと……。
「堕胎薬か」
長い沈黙。そして、震える声。
「……ご明察です」
世界が静止した。神父は涙で濡れた顔を向けた。
「村はもう……子を養えないのです。冬が来れば餓死者が出る。生まれてくる子も、母親も……」
ストラシュは何も言えなかった。
「最初は止めようとしました。『罪です』と説きました。しかし……ある冬……」
神父の声が詰まる。
「五歳の女の子が……餓死したのです」
ストラシュの胸が締め付けられた。
「名前はエリザベート。金色の髪をした、可愛らしい子でした。その母親は前の年に子を産んだばかりで……冬の間、乳は二人の子に分けられました。そして……エリザベートは……」
神父の肩が激しく震えた。
「死にました。私の腕の中で。『お腹が空いた』と言って……」
嗚咽。
「もう何十年前になるでしょう。当時の私は村の教会を父から任され……大いに自分を過信していたのです。神に祈りさえすればなんでもどうにかなると。それは神のせいではなく、自分の力への過信でした。前の年まではまだまだ旅人はこの街を訪れ、宿は機能し、路銀を手に入れ、肉もたくさん買うことができていました。でもその年になってぱったりと交易が途絶え、村はまだ自給自足の準備ができていなかったのです。もしあの時、母親が前の年の子を……そうすればエリザベートは生きていたかもしれない」
長い沈黙。
「私は思案しました。とても長いこと……そして、翌年から森の民にその薬をもらえないか話をするようになりました」
ストラシュは何を言うこともできなかった。
「グレゴール神父……」
老いた聖職者の涙が、しわのある頬の上を流れた。
「わかっています。罪です。重い罪です。しかし……どちらを選んでも罪なのです」
神父はストラシュの目を見た。
「堕胎を許せば、生まれてくるはずだった命を奪う。許さなければ、生きている子が餓死する。母親も死ぬかもしれない。どちらを選んでも、誰かが死ぬ。誰かの命を、私が選ぶことになる」
神父は両手で顔を覆った。
「神よ……なぜ、こんな選択を私に……」
ストラシュは神父の方に手を置き、ため息をついた。
「俺も……仲間を見殺しにした」
神父が顔を上げる。
「魔界で。何度も。助けられたかもしれない。でも、助けなかった。いや……助けられなかったのか。もうわからない」
ストラシュの声が震えた。
「ローランは肉の壁に呑み込まれた。ミーナは自分の矢で自分を射抜いた。セバスチャンは……内臓を引きずりながら、俺に向かって手を伸ばしていた」
グレゴール神父は話をじっと聞いてくれる。告解は重要な仕事。慣れているのだった。
「片足を失った時、『これで帰れる』と安堵したんだ」
ストラシュは自嘲的に笑った。
「英雄だと。勇者だと。でも俺は……ただの臆病者だ」
神父は黙って聞いていた。
「あんたと同じだ。正しい選択なんてできなかった。どっちを選んでも、誰かが死ぬ。誰かを裏切る。そして俺たちは……生き延びた」
二人は顔を見合わせた。罪を背負った者同士。 神父の目から、また涙が溢れた。
「神はあなたをお許しになるでしょう」
ストラシュは笑みを浮かべて頷いた。
「あんたのことも、きっと」
神父も笑った。涙が乾いていないのに。
「……ありがとうございます。初めてです。こんなことを……誰かに話せたのは」
「俺もだ」
長い沈黙。しかし今度は、少しだけ温かみのある沈黙。 やがて、ストラシュは言った。
「俺は村に馴染もうと思っていた。勇者としてではなく、ただの村人として」
ストラシュは教会の扉を見た。
「でも……それは間違いだったのかもしれない。あんたの最後の希望を砕いてしまったんじゃないか」
「いいえ」
神父は首を振った。
「むしろ……救われました。勇者様も同じ人間だと。完璧ではなく、迷い、間違える存在だと」
神父は説教台の上に飾られた聖象の像を見上げた。円環を表す形は神の完全を表し、信徒が十字を切る作法は人間の不完全を表す。神父は十字を切った。
「神は完璧を求めておられるのではない。ただ……誠実であることを求めておられるのかもしれません。完璧に正しくあることではなく、正しくあろうと苦しみ続けることを。それはまさしく、勇者様のお姿だ」
神父はストラシュの手を取った。
「ありがとうございます。勇者様、いえ……ストラシュ殿」
初めて、名前で呼ばれた。ストラシュの疲れた顔に自然な安らぎの笑みが浮かぶ。 やっと村の一員として認められた気分だった。
「どうか……魔女様を、大切になさってください」
「え? ルヴィを?」
意外な言葉だった。魔女への偏見すら、今の神父は捨て去ることができたというのか。いや、きっとこの賢く誠実で善良な老聖職者の中では、森の民への敬意はずっと隠されていたのかもしれない。グレゴール神父は続ける。
「あの方は……あなたを、本当に大切に思っておられます」
ストラシュは何も言えなかった。ただ頷いて、教会を出た。
*****
外に出ると、日は傾き始めていた。 村の広場は静かだった。家々の煙突から煙が立ち上っている。ストラシュは杖をつき、家へと向かった。
歩きながら、考えた。神父の告白。村の秘密。全てが複雑に絡み合い、誰も解きほぐせない。そして……。
(ルヴィ。君はどう考える? 君を差別するこの村のことを)
家が見えてきた。窓から灯りが漏れている。扉を開けると、ルヴィナチワが振り返った。竈の前で夕食の準備をしている。カラスは梁に留まり、黒い瞳でストラシュを見つめている。
「お帰りなさい、勇者様」
「ああ」
ストラシュは杖を壁に立てかけ、椅子に座った。
「なあ、ルヴィ。いつもありがとう」
かまどの火の様子をルヴィナチワは驚いたように振り返り、また作業に戻った。
「急にどうされたんですか?」
「ああ、ちょっと思うところがあって……」
ストラシュは顔を拭いながら答える。
「この村が好きになれるか? ルヴィ。俺だけ勝手に村に馴染んでしまったら、お前が可哀想だと思ったんだ」
ルヴィナチワは答えない。鍋の中を覗き、器にスープをよそって盆に乗せ、ストラシュのいるテーブルに運んでくる。それに合わせてカラスがテーブルに降りて二人を見比べた。
沈黙。そして、ルヴィナチワが口を開いた。
「……勇者様は、ただの村人になりたいのですか?」
ストラシュは向かいに座る魔女を見た。もう七年……それ以上、一緒にいる。しかし心を通じ合わせることができたのは、魔界で必死にお互い命を繋ぐ間だけだった。お互いにお互いの行動のクセは知り尽くしている。敵に囲まれた時にどこをカバーすればいいか。呪文を詠唱する隙をどう守ればいいか。ストラシュが危機に陥った時にどうサポートすればいいか……。
しかし、こうして穏やかな日々を一緒に過ごしてみると、お互い何ひとつ知らなかったことを思い知らされるのである。魔界でも、こちらに帰って来た時も、辛い時はお互いの体温で互いを慰め合った。しかし打ち明け話などはしなかった。そんな余裕もなかった。魔界の非人間的な環境は、言葉を奪い去るようだったから。
「わからない。俺にはもうわからないんだ」
彼は彼女の目を見つめて、それだけ言った。ルヴィナチワの瞳はそれを吸い込むようにじっと彼を見ていた。 やがて彼女の唇が動く。
「勇者様は、魔王を倒すお方です。たとえ市井に紛れても、体の一部を失っても」
「何を言うんだい」
ストラシュは愕然とした。
「魔王を倒すって……本当にそんなことができると思ってないよな?」
会話が噛み合わない、いや、できそうな気がしない。その気づきはあまりにもショッキングなもので……。この旅の仲間にして今後の人生のパートナーである魔女に対して、異質なものを感じてしまうのだった。
「ルヴィ」
ストラシュは呼びかける。しかし彼女は、
「できます」
とだけ答えた。その確信に満ちた声に、ストラシュは息を呑んだ。そしてできる限り理性的に言い返す。
「……俺たちは七年も魔界にいて、何もできなかった。仲間は全員死に、俺は片足を失った。それなのに……」
「できます」
ルヴィナチワは繰り返した。
「私が……なんとかします」
ストラシュはあまりに意外な言葉に目を白黒させた。
「お前が……?」
ストラシュは彼女の顔を見つめた。その紫の瞳には、決意のようなものが宿っている。ストラシュの心は困惑でいっぱいになる。魔界で進退きわまった時とは全く別の思考も停止だった。
「お前がわからないよ、ルヴィ。お前は何を考えているんだ? 何をしようとしているんだ?」
ルヴィナチワは少しの間答えず、そして言った。
「もうしばらく私の自由にさせてくれませんか」
そしてそう静かに言った。ストラシュは彼女を見つめた。長い間、ただ見つめた。この魔女は長い間何度も命を救ってくれた。決して多くを語らないが、常に自分を守ってくれた。その彼女が今、何かを企んでいる。止めるべきか。問い詰めるべきか。しかし……。
「……わかった」
ストラシュは笑顔を見せた。
「お前を信じる」
ルヴィナチワの目が微かに揺れた。
「本当に……よろしいのですか」
「ああ。お前は一度も俺を裏切ったことがない。今だってとても甲斐甲斐しく世話をしてくれる。だから……信じる」
ルヴィナチワは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。 そばでじっと静かに話を聞いていたカラスが一声鳴いた。
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