第2話 遊びだ、と突き放されて

ナースコールに追われるうちに、泣く暇すらなく時間が過ぎていく。

笑顔を作って「大丈夫ですよ」と声をかけると、患者は安心したように頷いた。

――俺が壊れそうなのに。

書類の欄外に小さくインクが滲む。手がまだ震えを覚えている。

「先輩、採血替わります!」

後輩の声に「助かる」と返す。自分の声がやけに遠い。さっきまで息をしていたはずの心が、どこか別の部屋に置き去りにされたみたいだ。

ナースステーションの端で、祝いの話題がまた弾む。

「式場、もう押さえたらしいよ」

「ドレスもさ、似合いすぎるから決められないって、先生が自惚れてたよ!」

笑い声が白い廊下を跳ねて、胸内側で痛く反響する。

俺はプリンターから出てくる検査結果を束ね、クリップで留めながら、ぼんやりと聞いていた。クリップを閉じる「カチ」という音が、やけに鋭い。

廊下の曲がり角。

以前、彼に引き寄せられ、短いキスを交わした場所。あのときは夜勤明けで、誰もいなかった。今は昼で、光が均等に床に広がっている。俺は足を止めずに通り過ぎた。

――何もなかった。何も、最初から。

配薬カートの引き出しが固い。力を入れ直して開けると、中の薬包紙が整然と並んでいた。秩序。ルール。手順。ここには裏切りが混ざり込む余地がない。俺は患者の名前を指でなぞり、いつもの順でいつものように配る。指先の皮膚感覚だけが、かろうじて現実に繋いでくれる。

昼休みは、普段はみんなとテーブルを囲んで賑やかに過ごすが、今日はそんな気にならない。

更衣室の扉を閉め、ベンチに腰を下ろす。ポケットの中で握りつぶしたミントの包み紙を広げる。深呼吸。吸って、吐いて。鏡の中の自分は「平気」を演じるのが上手くなっていた。

頬が少しこけて、顎のラインが鋭くなっている。白衣の肩も落ちて見えた。

「……痩せたな」

小さく呟いた声が虚しく響く。



廊下に戻ると、俺のことを話す女性同僚たちの囁きが耳に届いた。

「小川さんって最近シリアスな感じしない?」

「うん、なんか色気あるよね。痩せて大人っぽくなったっていうか」

笑い声が背中を追いかける。

「みんなで行ってたんだー、小川さんがかっこよくなったって!」

「ねー!」

俺は曖昧に笑い返した。

――違う。ただ、何も考えられずに壊れてるだけだ。

食堂では、コーヒーを一杯だけ持って窓際に座る。

口にしても、苦みが喉を通らない。

外の空は青いのに、胸の奥は鉛のように重い。

それでも時間になれば立ち上がり、笑顔を張りつけて仕事へ戻る。

その繰り返しで、一日を繋ぎ止めるしかなかった。

午後の巡回。高齢の患者が俺の手を握った。

「いつもありがとうね」

その一言で、胸の堤防がぐらりと揺れる。危ない。ここでは崩れられない。

「こちらこそ。夕方また来ますね」

手袋越しの体温が、人の優しさの形をしていて、痛い。

夕方、医局の前を通ると、花屋の紙袋を提げた彼女らしい後ろ姿が見えた。

ハッとして目を逸らす。

それでも視界の端に、スラリとした白いワンピースの女性がちらつく。

「じゃぁ、また夕方に」

ヒラリとワンピースの裾を揺らしながら彼女がパタンとドアを閉めた。

奥から、かすかに「あぁ」という彼の声が聞こえた気がした。

――俺は、どこで間違えた?

脳裏に、あの夜の汗と呼吸が甦る。熱は嘘をつかないと信じていた。

でも人は、平然と熱を持ったまま別の方向へ歩いていける。

気がつくと、彼女の後ろ姿をぼんやりと見送っていた。

終業前、カルテを見返す。とにかく早く職場から立ち去りたかった。


「お先に失礼します」

声はちゃんと出た。ロッカーに白衣を掛けると、布が静かに揺れて止まる。

外気は冷たく、肺のざわめきを少しだけ落ち着かせてくれる。

バス停のベンチに腰を下ろす。スマホの画面は黒いまま。既読にもしない。自分をこれ以上みじめにしないための、小さな自衛。

バスの窓に映る顔は、思ったより普通だった。

泣いてもいないし、笑ってもいない。

ただ痩せて、強がるのが上手になった顔。

――明日も仕事だ。

それが救いであり、罰でもある。

車内アナウンスが次の停留所を告げる。

病院の建物が遠ざかっていく。

忘れろ、なんて簡単に言うな。

忘れないまま働く方法を、今日も身体に覚えこませた。

明日も、それを続ける。

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