【小説】宿り木を越えて|第11話:迫る危機(2025年10月7日・火)
🍴|朝の別れ
火曜の朝、曇り空が町田の街を覆っていた。
パンの焼ける匂いとスープの湯気。
けれど、そのどちらも心を温めきれない。
真帆が静かに呟いた。
「……明日は、パパの命日ね」
心春が箸を止め、蒼真はミルクを飲み干した。
「十一年か。早いような、遠いような」
「お姉ちゃん、今日ハチドリ行くの?」
「うん。昨日のコメントに、パパから返事があったの。どうしても確かめたくて」
心春は残念そうに首を傾けた。
「行きたいけど、文化祭の準備で帰れないの」
蒼真も肩を落とす。
「おれも委員会の仕事があるんだ」
「じゃあ、私が行ってくる。少しだけね」
笑って見せた彩花の横顔に、真帆は小さく微笑んだ。
「いってらっしゃい」
📇|ハチドリの静寂
昼下がり、〈ハチドリ〉の中は不思議な静けさに包まれていた。
窓際に射し込む光は薄く、コーヒーの香りだけが漂っている。
山根がカウンターの内側から笑顔を向けた。
「いらっしゃい。今日はね、夜少し早く閉める予定なんだ。所用があってね」
「そうなんですね」
「でも、まだ時間はある。ゆっくりしていって」
彩花は頷き、いつもの席に腰を下ろした。
スマホを取り出し、父のアカウント〈酔処わかば〉を開く。
昨日のコメントの下に、新しい返信があった。
『あの言葉に見覚えがある。きっと、僕がずっと探していた誰かだ。』
『もしこのやり取りが続くなら、その“印”を見せてほしい。』
(やっぱり、パパ……気づいてくれた)
胸が熱くなり、指が震えた。
彩花は慎重に言葉を選びながら、返信を書き始める。
『この印には、家族の想いがこもっています。』
『同じものを、あなたも持っているはずです。』
「“家族”」の文字は、投稿画面で文字化けして読めなくなっていく。
けれど、彩花はそれでも送信ボタンを押した。
送信完了のマークがつくと同時に、扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、スーツ姿の男。
山根に軽く会釈してカウンターの端に座り、静かにコーヒーを頼む。
彩花は何気なく視線を向けた。どこかで見たことのある横顔。
父のノートに貼られていた古い写真に写っていた男に似ている。
(……気のせい?)
胸の奥で、不安が小さく鳴った。
🌆|帳場の影
悠馬は厨房でスマホを見つめていた。
画面に新しい通知が現れる。
『この印には、家族の想いがこもっています。』
『同じものを、あなたも持っているはずです。』
一部の文字が文字化けし、読めない。だが、不思議な温かさが指先に伝わる。
(……“家族”って、言ったのか?)
悠馬は胸の奥がざわめくのを感じた。
誰かが、自分を“父”と呼んでくれているような、そんな確信。
画面を見つめながら、彼はそっと返事を打ち込んだ。
『分かった。信じてみる。きっと、それは間違いじゃない。』
送信した瞬間、厨房の窓を風が揺らした。
遠くで雷の音が響く。まるで未来と過去が呼応しているようだった。
🔑|帰り道の影
午後の授業を終えた彩花は、駅前の通りを歩いていた。
カバンの中には、父のノートとスマホ。
心の奥でまだ、昼のやり取りの余韻が残っている。
横断歩道の手前でふと足を止めた。
反対側の歩道に、スーツ姿の男が立っている。
(さっきハチドリにいた人……?)
夕暮れの光に溶けるようなその背中を見つめていると、胸の奥にざらつくような緊張が走った。
男は一度こちらを見たように思えたが、そのまま歩き去った。
「彩花ー!」
背後から声が飛んだ。
振り返ると、美咲が駆け寄ってくる。
「やっぱりここにいた! 稽古、急に中止になったんだよ!」
緊張が一気にほどけ、彩花は小さく笑った。
「……びっくりした。人違いかと思って」
「なにそれ? 変な人でもいた?」
「ううん、もういないみたい」
二人は並んで歩き出した。夕風が頬を撫で、どこか遠くで雷鳴が響いた。
🌆|酒場の誘い
夜。店の片づけを終えた悠馬は、照明を落とした厨房で食器を洗っていた。
静けさを破るように、ガラガラッと扉が開く音がした。
「店長、少しよろしいですか」
顔を上げると、シャツ姿の男――山根が立っていた。
年は三十前後、穏やかな笑みを浮かべながらも、どこか落ち着かない気配を漂わせている。
「どうしましたか?」
「いえ、帳簿の件で少し確認がありまして……」
悠馬は頷き、軽く笑った。
「今日は倉沢さんと一緒じゃないんですね」
「ちょっと用事があるみたいで」
その時、まだ開いたままの扉の向こうから声が響いた。
「おー! こんなところにいたのか!」
通りすがりに顔を覗かせたのは、地元で顔の利く男性だった。
「どうせなら一緒に飲もうよ! 後で倉沢さんも合流するからさ!」
山根は少し慌てて立ち上がる。
「え、あ、ちょっと今日は……」
「ははっ、そう言わずに行こう行こう!」
強引に肩を叩かれ、そのまま外へ連れ出されていく。
「また日を改めます……!」
その声は次第に遠ざかっていった。
悠馬はその背を見送り、ため息をついた。
「……忙しい人たちだな」
何も知らず、静かな厨房に戻っていった。
🌌|ふたつの夜
夜、家に戻ると、リビングは穏やかな灯りに包まれていた。
心春と蒼真がソファに座り、テレビの音を小さくして何かを話している。
「お姉ちゃん、ハチドリどうだった?」
心春が聞く。
「うん……なんか不思議。パパが本当に見てる気がした」
蒼真は少し照れたように笑った。
「きっと見てるよ。だって、オレたちのこと、ちゃんと覚えてるはずだし」
彩花は二人の髪を撫でて立ち上がった。
「明日は早いんだから、もう寝なさい」
「はーい」
部屋に戻ると、急に眠気が押し寄せた。
ノートを机に置いたまま、彩花はベッドに身を沈め、意識がふっと遠のいていった。
🌙|刻まれる言葉
その夜遅く、悠馬は帰宅し、玄関で靴を脱ぎながら「ただいま」と声をかけた。
真帆がキッチンから顔を出す。
「おかえり。遅かったね」
「ちょっと寄り道しててね」
真帆は微笑み、湯気の立つ湯呑みを差し出した。
「ありがとう。やっぱり家の味が一番だ」
ふと、悠馬の表情がやわらぐ。
「“隠し味は、待ってる人の笑顔だ。”」
そう言って少し笑い、続けるように口を開きかけた。
「“彩りは花に、芽吹きは春に、蒼さは空に。全部そろって、やっと家族の味になる……”」
その言葉を言い終える前に、真帆が小さく声を重ねた。
二人の声が重なり、そして静かに笑い合う。
「あなたの口癖ね。覚えちゃった」
悠馬の視線が廊下の奥に向く。
子どもたちの寝室から、小さな寝息が漏れていた。
「……全部、ちゃんと残しておかないとな」
月明かりが窓の隙間から差し込み、悠馬の横顔を淡く照らした。
🌑|届かぬ報せ
深夜、街はすっかり眠りに落ちていた。
その静けさを破るように、机の上の携帯が小さく震えた。
画面には、一通の新着メッセージ。
差出人の名は表示されない。
『今日は見送り、明日改める。』
短い文面が、闇の中で淡く光っていた。
誰も気づかないまま、夜はさらに深く沈んでいく。
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