【小説】宿り木を越えて|第9話:過去の影(2025年10月4日・土)
🍴|土曜の朝、静かな合図
土曜の朝は、家の中の時間が少し丸い。
学校の支度の音がなく、カーテン越しの光が長く床を撫でる。
ベランダの鉢に水をあげる心春、牛乳を一口だけ飲んでソファに沈む蒼真。
私はテーブルの端で、角の擦れたカードと父の料理ノートを並べた。
昨日、〈ハチドリ〉は休業だった。
閉じた扉の前で、スマホの画面は灰色の一行だけを返した。
(今日は、開くといい)
ノートの余白には、昨夜書いた「待ってる」の鉛筆跡。
心春がこちらを見て、言う。
「今日、三人で行こ。……土曜だし、ゆっくり」
蒼真が頷く。
「おれも。なんか、今なら届く気がする」
湯気の立つマグを両手で包み、私は小さく返事をした。
「行こう」
📇|帳簿の呼吸
昼のざわめきが引き、カウンターの木目が油を吸って落ち着く時間。
釣銭機の音が途切れ、鍋の湯気だけが薄く立っている。
帳場の端に残った封筒を見やりながら、悠馬は深く息を吐いた。
常連の影が出入りするたび、数字がねじれる感覚が残る。
スマホを取り出す。
昨日の投稿が画面に残っていた。
白い壁に掛かる看板と、その横に伸びる枝。幹には、自分がかつて刻んだ宿り木の印。
「……これは」
胸がざわつく。見覚えのある木と、知らない建物が同じ画面に並んでいる。
自分の時代には存在しない景色だ。けれど、その木の幹に刻んだ感触は確かに残っている。
光の加減か、角度のせいか。似ているようで、どこか違う。
確信には届かない。だが心の奥でざわめきが強まる。
試しにコメント欄を開き、文字を打ち込む。
「家族」「娘」——その単語を入れた瞬間、画面が乱れ、奇妙な記号に変わった。
「……文字化けする……?」
沈黙のあと、悠馬は言葉を選んだ。
直接“家族”とは書けない。ならば——。
指先で打ち込み、短い一文を残す。
「隠し味は、待ってる人の笑顔だ。」
送信を押すと、画面に静かな文字列が浮かんだ。
一文で止めた。足りないことは分かっている。だが、欠けたままにしておくことにも意味があるはずだった。
🔑|再び開く窓と、薄墨のしるし
昼すぎ、三人で〈ハチドリ〉へ向かう。
バスに揺られ、坂を上がると、扉は開いていた。
「いらっしゃい」
カウンターから山根さんの声が聞こえる。
私たちが座ると、彼は手を止めて言った。
「昨日はごめんね。ひなた祭の前に急きょ点検が入っちゃって、どうしても閉めざるをえなくて」
「そうだったんですか」
「今日は仕切り直し」
その言葉に、昨日の空白の一日が少しだけ輪郭を持った。
スマホをかざすと、灰色だった画面に色が戻る。
@yuma_shinohara_2012
表示名:酔処 わかば
新しい投稿が一つ。
白い皿に盛られた焼き魚、背後に閉じられた帳簿がぼんやり映り込んでいる。
キャプションにはこうあった。
「焦げ目は香りを立てる。けれど隠しすぎれば、苦みになる」
普段なら料理の工夫として流せる言葉。
けれど今は、別の意味を含んでいるようにしか見えなかった。
心春が箸を止める。
蒼真が囁く。
「……普通の投稿、なのかな」
私は胸の奥に引っかかるものを覚え、ノートの端に小さくメモした。
——「焦げ/苦み」
🌆|曇りガラス越しの違和感
食後、コーヒーをすすっていると、カウンターから穏やかな声が届いた。
「焦げはね、捨てる前に一度味見するといい。旨味がある。けど、鍋の底をこすった苦みは、皿には乗せないほうがいい」
誰にともなく語られた料理の話。
それは単なる所作の話にも、どこか別の比喩にもきこえる。
私たちは顔を見合わせ、曇りガラス越しに人影を見るみたいに、その言葉の輪郭だけを受け取った。
スマホの画面では、先ほどの投稿に“いいね”が少しずつ増えていく。
コメント欄をスクロールすると、一つ前の投稿の下に小さな文字が並んでいた。
「隠し味は、待ってる人の笑顔だ。」
「……どういう意味だろう」
心春が呟く。
蒼真も首を傾げる。
私には答えられなかった。料理の言葉に見せかけたその一文は、胸の奥に小さな棘を残した。
「そういえば、お姉ちゃん稽古大丈夫?」
心春が思い出したように聞く。
私は少し考えてから答えた。
「“父と暮せば”っていう舞台なの。……セリフで“お父さん”って言うたびに、胸が詰まるんだよね」
蒼真が不思議そうにこちらを見る。
「芝居なのに?」
「うん、芝居なのに」
自分でも苦笑するしかなかった。けれど、その胸の重さはどうしても消えなかった。
🌌|家に戻る灯り、夜の縁
夕暮れの住宅街を抜けて帰宅する。
心春は買ったばかりの小さなハーブをベランダに置き、蒼真は鞄から時刻表の冊子を出してテーブルに放る。
私はノートを明るい机の上に置き、ページをめくった。
昼間にメモした短い言葉が並んでいる。
焦げ、苦み、縁。
それはレシピの断片にも、なにかの注意書きにも見えた。
心春がのぞき込む。
「それ、パパ……?」
私は首を横に振る。
「分からない。ただ、普通の投稿に見せかけて、伝えたいことが混ざってる気がする」
窓の外を、遠い光が滑っていく。
ロマンスカーの音は聞こえない。
でも、静けさの底で、箸置きがこつんと鳴ったような気がした。
余白に、一行だけ自分の言葉を書き加える。
——「影を見る」
ペン先の跡が乾くまで待って、深く息を吐いた。
今日のやり取りは、料理の話に見えて、どこか警告めいていた。
それでも、確かに一歩だけ影のかたちに近づいた。
🔑|帳場に残る余白
夜、店を閉めてからの厨房。
鍋を洗い終えた手を拭き、悠馬はノートを開いた。
昼間に打ち込んだ言葉が、頭の中で何度も反芻される。
「隠し味は、待ってる人の笑顔だ。」
自分でも、なぜその言葉を選んだのか分からない。
ただ、あの画面の向こうにいる誰かが受け取ってくれることを願っていた。
ページの隅に、走り書きのように記す。
——「影は見えなくても、湯気は漂う」
——「暮らす味は、ひとりでは作れない」
湯気の向こうに、誰かの顔が見えた気がして、目を閉じた。
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