宿り木を越えて
Aix8810
【小説】宿り木を越えて|第1話:懐かしき味(2025年9月26日・金)
🍴 舌に宿る記憶って、あると思う?
「なんかこの味、好きなんだよねー」
無意識にこぼした一言に、自分で驚いてしまった。
桜美林大学の学内カフェ〈ハチドリ〉。
昼の光がガラス越しに注ぎ、木目のテーブルを柔らかく照らしている。
皿のオムライスから立ちのぼる湯気が、陽に透けてかすかに揺れていた。
十九歳、演劇専攻の彩花。
台本とにらめっこしては涙をこらえる練習を繰り返す毎日なのに、今はたった一口で胸がいっぱいになっていた。
舌の脇をすっと抜ける白胡椒の刺激と、バターの丸い甘み。
口に広がる風味が、言葉になる前の記憶を叩くように押し寄せる。
「普通じゃない?」
向かいの美咲が、スプーンをひらひらさせて笑った。
「でもまあ、飽きない味って感じするかもね」
普通。だけど、懐かしい。
彩花は笑い返しながらも、胸の奥にじわじわと広がる温かさとざわめきに戸惑っていた。
📇 カードを思い出す瞬間
(……あのカード)
脳裏に、数日前の午後の光景が甦る。
遺品整理の最中、母と一緒に段ボールを漁っていたときに出てきた一枚のカード。
濃紺の地に銀の文字で『酔処 わかば』。
父・悠馬が営んでいた居酒屋の名前だった。
父は2014年10月7日(火)、不慮の交通事故に巻き込まれて命を落とした。
当時、私は八歳だった。妹の心春は六歳で、弟の蒼真は四歳だった。
カードの裏には小さなQRコードが印刷されている。
その夜、半信半疑で読み込んでみた。
「このアカウントは存在しません」
白い画面に浮かぶ冷たい文字。
思わず胸がすとんと落ちて、言葉を失った。
それきり、財布の奥に押し込んだまま、忘れようとした。
だが今、〈ハチドリ〉の皿に描かれた四葉のようなソースと、懐かしい旨みが、そのカードを再び思い出させていた。
彩花はバッグを探り、カードを取り出した。
呼吸を整え、スマホをかざす。
🔑 扉が開くのは自分だけ
読み取りの音とともに、画面が切り替わった。
そこには「酔処 わかば」のInstagramアカウント。
ありえない。
家では確かに「存在しません」と表示されたのに。
投稿には、土鍋の湯気、照りの走る焼き魚、カウンターに並んだグラス。
誰かの笑顔がぼやけた背景に映り込んでいる。
プロフィールにはこう記されていた。
「町田で小さな台所を守る父です。家族のための隠し味、毎日少しずつ。」
喉の奥が熱くなる。
鼓動が速まる。
気付けば、指先が勝手に「フォロー」を押していた。
直後、スマホが小さく震える。
『酔処 わかば』があなたをフォローしました
「……!」
心臓が跳ね、息が止まった。
「彩花? なに見てるの?」
美咲が覗き込む。
慌てて画面を見せると、そこには灰色の一行。
「このアカウントは存在しません」
「え、ほんとになんにもないじゃん?」
「……気のせいだったかも」
笑って取り繕ったが、胸の奥では確信があった。
〈ハチドリ〉の空気に包まれたときだけ、見えない扉が開いたのだ。
(パパ……見てる?)
🌳 店主と学生の会話
そのとき、カウンターの奥から声が聞こえた。
店長の山根が、学生風の客と話している。
「山根さん、あの近くの木にある変な傷、なんなんですかね?」と学生が言った。
山根はカップを拭きながら苦笑した。
「学生のイタズラでしょう。昔からあるけど、一応御神木みたいな木だから、罰当たりだよ本当」
学生は「へえ、そうなんですか」と頷き、会話はそれで途切れた。
何気ないやり取り。だが彩花の耳には妙に残った。
(木の傷……?)
一瞬だけ、胸に小さなひっかかりが走る。
美咲は気にする様子もなくデザートを選んでいた。
彩花だけが、その会話に心を奪われていた。
🌆 小さな提案
午後の講義を終えた彩花は、どうしても気になって再び〈ハチドリ〉に足を運んだ。
今度はホットコーヒーを一杯だけ注文し、窓際の席に腰を下ろす。
父のアカウントが幻ではないと、もう一度確かめたかった。
スマホをかざすと、やはり画面には「酔処 わかば」の投稿が並んでいた。
安堵と混乱が入り混じる。
そのときLINEが震える。
「今日のオムライス、クローバーマーク描けた!」
――妹の心春からだ。
添付された写真には、四葉を模したケチャップの模様。
彩花は小さく笑い、返信した。
「心春、この写真、私のアカウントで投稿していい?」
すぐに『いいよ!』のスタンプが返ってきた。
彩花のInstagramは、映画レビューや稽古の断片を記録する場。
フォロワーは数百人に膨らみ、レビューに共感のコメントがつくことも増えていた。
写真を投稿し、画面をしばらく見つめる。
通知は来ない。ただ、昼間の「フォローバック」の感触が掌に残っていた。
🌌 消えた痕跡
夕暮れ。
大学を出て、美咲と並んで町田駅からバスに揺られる。
窓に映る自分の横顔が、妙に大人びて見えた。
玄関を開けると、心春が弾む声で迎える。
「おかえり! 投稿、どうなった?」
彩花はスマホを開いて見せた。
昼間確かにあったフォローバックの痕跡は、もうない。
フォロワー数も変わらず、通知欄も空白のまま。
「でも結構いいね!付いてるじゃん。すごいね、お姉ちゃん」
心春が画面を覗いて笑った。
彩花は頷きながらスマホを閉じた。
けれど胸の奥には、確かにあの瞬間に結ばれた糸の熱が残っていた。
〈ハチドリ〉の中だけで現れる、不思議な現象。
(パパ……見てる?)
静かな夜。言葉にならない問いが、胸の奥で膨らんでいく。
——物語は、ここから始まる。
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