第三話:完璧な不在
ハンスのパン屋は、帝都の西地区、庶民的な街並みの中にひっそりと佇んでいた。扉には「都合により休業」の札が寂しげに揺れている。法務魔導院の権限で封印を解き、リウが中に足を踏み入れると、小麦の香ばしい匂いの代わりに、冷たい埃の匂いが鼻をついた。
店内は、時間が唐突に断絶されたかのような異様な静寂に包まれていた。 騎士団の報告通り、荒らされた様子は一切ない。作りかけのパン生地が石のように硬化して作業台に残され、客に渡すはずだったのだろう焼き立てのパンが、今ではカビに覆われて棚に並んでいる。まるで、パン職人がほんの一瞬、煙のように消えてしまったかのようだ。
リウは床に屈み、指先でそっと床板をなぞった。魔力探知の基礎だ。しかし、何も感じない。完璧すぎるほどに、何も。 「…これほど魔力の痕跡を消せる術者は、そうはいない。あるいは、魔法とは異なるルールで動いているか」
彼は店内をゆっくりと歩き、観察する。彼の調査は、魔法の残滓を探すことではない。この空間を支配している**「摂理の歪み」**を探すことだ。あらゆる事象は、原因と結果という法則で結まれている。その連鎖に不自然な点はないか。矛盾はないか。
リウの目が、レジカウンターの隅に置かれた一冊の家計簿に留まった。彼は丁寧にページをめくる。几帳面な文字で、日々の売り上げと支出が記録されている。そして最後のページには、震えるような文字でこう書かれていた。 『金獅子商会、借入金500ゴールド。担保、我が家の宝、始祖鳥のコイン』
情報屋の話は正しかった。 リウが家計簿を閉じようとした、その時だった。カウンターの脚の根元、床板の隙間に、何かが鈍く光っているのが見えた。彼は懐からピンセットを取り出し、慎重にそれをつまみ上げる。
それは、一枚の古いコインだった。片面には、帝国建国の象徴である始祖鳥の紋章が刻まれている。 ハンスが担保として差し出したはずの、宝のコイン。それがなぜ、店主が失踪した後の、固く閉ざされた店内にあるのか。
「…ありえない」リウは呟いた。 これは決定的な**論理的矛盾(パラドックス)**だ。担保としてコインを渡して契約を結んだのなら、コインは金獅子商会にあるはず。もしハンスが夜逃げしたのなら、こんな大事なものを置いていくはずがない。
リウはコインを指先で弾いた。澄んだ金属音が響く。一見、ただの古いコインだ。 だが、彼が全神経を集中させると、指先に、針で刺すような微かな違和感が伝わってきた。それは通常の魔力とは全く異質の、冷たく、世界の法則を嘲笑うかのような不快な波動。
「…これか、摂理の歪みは」
彼はコートの内ポケットから単眼鏡(モノクル)を取り出して装着した。これは、微細な魔力構造を可視化する彼の専門道具だ。 レンズを通してコインを覗き込むと、リウは息を呑んだ。 始祖鳥の紋章の裏に、肉眼では決して捉えられないほど微細な文字が、おぞましい魔力のオーラを放ちながら刻み込まれていた。
『汝の魂、新たなる主の礎となれ』
「…なるほど。契約書は二枚あったわけか」 リウは全てを悟った。 金獅子商会が用意した羊皮紙の契約書は、帝国法に則った完璧な、そして無害な偽装(カモフラージュ)だ。 真の契約は、このコインに刻まれた『禁忌契約』。ハンスがこのコインを「担保」として相手に差し出した瞬間に、魂の譲渡契約は成立していたのだ。
犯人は、店に侵入する必要すらなかった。返済期限が来た瞬間に、遠隔でこの禁忌契約を発動させ、コインを座標としてハンスの「存在価値」そのものを抜き取った。そして、用済みとなったコインは、摂理の歪みの反動で、持ち主が最後にいた場所へとはじき出された。
これが、完璧な不在の真相。 リウはコインを強く握りしめた。これは法で裁けるような生易しい犯罪ではない。摂理法そのものを弄び、その法則の隙間を完璧に突いてくる、巨大な知性を持った敵がいる。
「…グレン部長に、すぐに報告を」
この世界の根幹を揺るがす冒涜行為に対抗するには、師であり、唯一の理解者である彼自身の助言が不可欠だった。リウは、これから踏み込む闇の深さをまだ知らずに、パン屋を後にした。
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