冷たい婚姻の果てに ~ざまぁの旋律~

みずとき かたくり子 

第1話:運命の歪んだ夜


「おめでとうございます、ラファエラ様。婚約が決まりました。」

執事の硬い声が、広々とした屋敷の応接室に響いた。ラファエラ・カヴァッレリ公爵令嬢は、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめたまま、動けなかった。これが彼女の「運命」なのだろうか。たった17歳にして、これほどまで冷たく、重苦しいものが降りかかるとは想像もしていなかった。


「婚約…」

彼女が搾り出した声はか細く、まるで風にさらわれるかのように消えた。それでも執事は何の感情も見せず、事務的に続けた。


「お相手は、エンツォ・ドラーゴ侯爵家の当主でございます。20歳にして侯爵位を継ぎ、領地経営においても卓越した手腕を見せておられる、実に優秀な方です。」


優秀。

その言葉がこれほどまで虚しく響くものだとは知らなかった。確かにエンツォの名は広く知られている。冷酷で徹底的に計算高い領主として名を馳せ、どんな状況下でも冷静に対処する「氷の侯爵」としての評判も耳にしたことがある。だが、その裏に隠された「人間味の欠如」に対する陰口を、ラファエラは一度や二度耳にしたことがあった。


「お父様がそうお決めになられたのですか?」

声を絞り出すように問いかけると、執事は頷き、さらに硬い表情を浮かべた。


「公爵様はこうおっしゃいました。『カヴァッレリ家をさらに強固なものにするためには、この婚姻が必要だ』と。」


それは分かっている。自分が「家の駒」として動かされる存在であることも、ラファエラは幼い頃から理解していた。だが、どうしても胸の中で渦巻く感情を抑えることはできなかった。


「私の意見は?」

「残念ながら、今回の件において、ラファエラ様のご意思は尊重されません。」


無慈悲な言葉が、彼女の心を鋭く抉る。父にとって、彼女は娘ではなく、家の名誉を守るための「道具」だったのだろう。怒りも悲しみも通り越し、ただ冷たい絶望だけが胸を支配した。


「分かりました。」

それ以上の反論が意味を成さないことは分かっていた。それでも、彼女の目の奥には、消えかけの火が僅かに残っていた。それは、ただ従うだけでは終わらせないという密かな誓いだった。



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それから数日後、ラファエラはエンツォとの初顔合わせのために侯爵家の屋敷を訪れた。その夜の出来事は、彼女の心に深く刻まれることとなる。


豪奢な大理石の廊下を進むと、重々しい扉が目の前に現れた。執事が扉を開けると、そこには冷淡な目をした男が立っていた。背筋の伸びた長身、整った顔立ち――誰もが羨む美貌だろう。しかし、その氷のような眼差しは、ラファエラを一瞬で凍りつかせた。


「はじめまして、エンツォ・ドラーゴ侯爵。」

彼女は礼儀正しく一礼した。だが、その声にはどこか震えが混じっていた。


エンツォは無表情のまま彼女を見下ろし、一言だけ冷たく返した。

「座れ。」


招かれたのは広大な応接室の片隅だった。彼は彼女に向けるべき椅子を示すこともなく、自分の椅子に腰を下ろすと、無造作に足を組んだ。その態度は、ラファエラがこれまでの人生で見たどんな貴族とも異なっていた。


「あなたが私の婚約者ですか?」

彼の冷たい声に、ラファエラは頷くしかなかった。


「なるほど。君は道具としては優秀だと聞いている。」

その言葉に、ラファエラの胸は怒りで燃え上がった。だが、顔には出さなかった。ここで感情を露わにすることは、彼に弱みを見せることになると悟ったからだ。


「道具だとしても、それはあなたにとって利益になるという意味でしょうね。」

冷静を装った声で切り返す。エンツォの唇がわずかに動き、笑みとも侮蔑とも取れる表情を見せた。


「分かっているならいい。君には期待していない。ただ、必要なときに必要な役割を果たしてもらうだけだ。」


その瞬間、ラファエラの中で何かが決定的に壊れた。彼女の人生が、たった一人の冷酷な男によって支配されるなど、耐えられるものではなかった。しかし、この状況を逆手に取る方法を考え始める彼女の意志もまた、同時に生まれていた。


「分かりました、侯爵様。」

毅然とした声でそう答えると、彼女は再び一礼した。そして心の中で誓う。「私をただの駒と思わないで。あなたの期待を裏切る未来を見せてあげる。」



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その夜、ラファエラは父親の屋敷に戻り、冷たい床の上に跪いた。大広間には誰もいなかったが、彼女は虚ろな目で天井を見上げ、静かに涙を流した。心の中で燃える怒りと絶望、そしてほんの僅かな希望が、彼女を再び立ち上がらせた。


「逃げるのではなく、戦う。私の未来を奪おうとする全てに抗ってみせる。」


その声は誰にも届かなかったが、彼女自身の心に確かな決意を刻み込んだ瞬間だった。



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