第18話
その日の夜遅くになって、やっとゼインが部屋に戻ってきた。
「ゼインさま、お帰りなさい」
扉の音を聞いてハルがゼインを出迎えに行くと、居間でゼインと出会った。
ゼインは湯浴みのあとのようで、黒髪は濡れたままだ。遠征で髪の手入れができなかったのか、少し伸びた前髪がオルフェウスのようにゼインの表情を和らげていた。
「ハル、起きてたのか……」
「はい。ゼインさまをずっとお待ちしておりました。ゼインさまのご活躍を聞きました。誰も傷つけることなく、あのマイセラを降伏させたと。皆、ゼインさまの交渉術はすごいと絶賛しておりましたよ!」
「ああ、そのことか.」
ゼインはハルに寄りかかるように、頭をハルの肩にのせた。こんなふうにゼインに頼られたことがなかったので、ハルは何事かと目をしばたかせる。
「疲れた。少しだけこのままでいたい……」
ゼインはハルの肩に額をのせ、寄りかかったままだ。抱きしめたりはしてこない。目を閉じ、静かな呼吸を繰り返しているだけ。
「血の匂いはしないか? 帰りにモンスターとの戦闘があったから」
「いいえ。ゼインさまからは、いい匂いがします」
これは本当のことだ。ゼインからは石鹸の香りと、ほのかにゼインの服から匂ったアルファのフェロモンの匂いがする。
「それならよかった。血生臭いのは俺ひとりで十分だ」
ゼインは八歳のころから前線で戦っている。国のためとはいえ、ゼインに才能があったとはいえ、幼い心はそれに耐えられたのだろうか。
「マイセラの王には、ハルと俺の父親の話をしたんだ」
「へぇ。ゼインさまがご家族の話をされるなんて珍しいですね」
「ふたりの友情の話だ。本来ならば戦うべき相手だったのに、ふたりは親友になった。それが、羨ましいと」
「ふふっ、そうなんですね」
なんでもできるゼインでも羨ましいと思うものがあったのか、とハルは頬を緩ませる。
「俺には友達なんていない。ひとりもできなかった。今まで作ろうとも思わなかったんだよ」
今日のゼインはやけに饒舌だ。ハルにだけ打ち明けてくれる、ゼインの胸の内を聞けるのはすごく嬉しい。なんだか認めてもらえた気持ちになるから。
「だから、友達になってほしいと言った」
「ぶはっ」
失礼ながら思わず吹き出してしまった。王太子ともあろう御方が、敵国の王に「友達になってほしい」とはなんだ。
「笑ったな」
ゼインは額を離してハルのことをジト目で見る。
「だって、おかしくて」
「そんなストレートな言い方はしていないが、わかりやすく言うとそんな感じだ」
「端折りすぎです。それだけじゃよくわかりません」
「そうだな。つまり、こちらが先に折れたのだ。マイセラ王にも立場と権威というものがある。それを守り、まるで友人のようにお互い対等な立場でいるための具体的な条項をいくつも並べ、それを締結したのだ」
「あらかじめ用意されていたのですか? 和平のために?」
「いいや、最初は戦うつもりだった。だが、俺の中の考えが変わったんだ」
「どうして?」
「空が、青かったんだ」
「はいっ?」
ハルは意味がわからない。空は青いに決まっているじゃないか。
「ハルならどうするのだろうと考えた。相手のことが嫌いでも、ハルは誠意を示すだろうなと、まずは相手のことを知ろうとするだろうと思った」
「そうですね。いきなり攻撃はしませんね」
国同士の戦いのことはよくわからない。でもハルならまず相手の話を聞きたいと思う。
ゼインとのことだってそうだ。ゼインにずっと嫌われていると思っていた。でも近づいてみると、ゆっくり会話をしてみると、ゼインのことが少しずつわかってきた。
ゼインは人との会話に慣れていないのだと思う。不器用な性格も相まって、誤解を受けやすいだけなんだろう。
ゼインとオルフェウスは双子でまったく同じ顔をしている。だが城に暮らすようになって、ふたりとの接触が増えるとハルには違いがわかるようになった。
歩き方、所作、声も違う。今では微妙な表情の作り方で、ふたりを見分けられる。
「ハルなら話し合いをするだろう? だから、俺ひとりでマイセラ王に会いに行ったんだ」
「ひとりでですかっ?」
「ああ」
ゼインは当然のように言うが、王太子ともあろう御方が敵国にたったひとりで行くなんて前代未聞だ。
「大丈夫だ。俺は強いから。いざというときは魔法も使えるしひとりで問題ないんだよ」
「危ないです。そんなことをして誰もゼインさまを止める者はいないんですか?」
「いない。俺の決めたことが絶対だ」
ゼインは強いし賢い。そして王太子になり、より強い権力を握ることになった。そしてこの性格だ。思っていても誰もゼインに口出しできないのだろう。
「ゼインさまいいですか」
ハルはゼインをまっすぐに捉える。
「もうそんな無茶なことはしないでください。命はひとつしかないんですから」
ゼインは自暴自棄とまではいかないが、自分を軽んじている面がある。それはいけないことだ。
「ゼインさまは、この国にとってなくてはならない大切な御方です。だって王太子になられたんですよ? 国民のためにも、どうぞご自愛ください」
ハルはゼインに言い聞かせるように強い視線をぶつける。ゼインはハルのことを静かに見つめていた。
「国民のためか。……わかった。ハルが俺にそれを望むのならやってやる」
ゼインは少し視線を落とした。ハルにはそれがあまり元気がないように映る。ゼインは言葉とは裏腹に、なにか思うことがあるのだろうか。
「ありがとうございます。ご武運をお祈りします」
ハルが微笑むと、ゼインも少しだけ穏やかな顔になった。
「今回は運良く無事に戻られてよかったです」
ハルはゼインの髪に触れる。
「ゼインさま、よく頑張りましたね」
ゼインの髪をそっと撫でる。少し濡れた黒髪が、ハルの指のあいだをすっと通り抜けていく。
ゼインは嫌がったりしない。目を閉じ、心地よさそうに小さく吐息をこぼして、ハルのすることを受け入れていた。まるで野生の黒狼が人に触れられることを許しているみたいだった。
しばらくのあいだじっとしていたゼインがゆっくりと目を開ける。
「ハルももう寝るだろう?」
「はい。寝ますよ」
「じゃあベッドに行こう」
「えっ!」
ゼインがハルの手を掴んで引っ張る。もう片方の手で寝室の扉を開け、ハルを部屋の中へと連れ込む。
ゼインにベッドに誘われるのは初めてだ。いつも「先に寝ろ」としか言われないのに。
ハルはゼインに促されるまま、ベッドに寝転がる。するとゼインも一緒に入ってきてふたりはベッドで向かい合わせに横になる。
ハルの目の前にゼインがいる。ゼインはハルの視線に気がついて優しく目を細めた。
「明日からまた出かける」
「そうなのですか? お忙しいんですね」
「ああ。少し休みたいよ」
ゼインの言うとおりだ。ゼインは才能に溢れているがために仕事量が多い。それでもすべて完璧にこなしてしまうのがゼインの末恐ろしいところだ。
「おやすみ、ハル」
ゼインはハルにひと言だけ告げ、静かに目を閉じた。
本当に疲れていたんだろう。ほどなくしてゼインは眠りについたようだった。
初めてだ。ゼインの寝顔を見たのは。いつもゼインより先にハルが眠ってしまうから。
眠っているゼインはいつもより幼く見えた。大人びてるから実齢を忘れてしまいそうになるが、ゼインはまだ十八歳だ。
「可愛い」
ゼインは他人に弱みを見せるようなタイプではないと思う。そんなゼインがハルの前でだけ無防備な姿を見せてくれることが嬉しい。
それを可愛いなんて言ったら「年上ぶるな」とゼインに怒られそうだから、寝顔に呟くだけにする。
「いつか、ゼインさまが私のことを妃として認めてくださいますように」
届きもしない想いをそっと言葉にして、ハルもゆっくり目を閉じた。
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