第9話

 木曜日の夜。


 とうとう、約束していた日がやってきた。レイとのサシ飲みの日。


 俺は一足先に勤務を終え、着替えを済ませて、休憩室のソファに腰を下ろしていた。


 スマホの時計を見ると、まだ数分しか経っていない。レイの勤務が終わるまでには、もう少しかかりそうだった。


 少し間を持て余して、スマホのロックを外す。通知欄には、姉ちゃんからのメッセージがひとつ、ぽつんと届いていた。


『今日は何食べるのー?』


 そんなメッセージを見ながら、この数日間のことが、ふと脳裏をよぎる。


 姉ちゃんの“心配”は、あの日を境にさらに加速した。


 ついには『夜ごはんなに食べたか報告すること』というルールまで作られてしまった。さすがに拒否したものの『元はと言えば、不健康な食事を摂ってたお前が悪い』と論破され、観念するしかなかった。


 そんなわけで、俺は写真付き報告を数日間、真面目に続けている。ここ三、四日は久々にちゃんと自炊もした。

 作った野菜炒めを撮って送れば、「えらい!」のスタンプ。カレーを送れば、「好き」スタンプと一緒に、自分の夜ご飯の写真まで飛んでくる。


 とりあえず今日は外食だから、写真はなしってことでいいだろ。


『今日はレイと飯』


 それだけ打ち込んで送信。


 既読がつくのを確認するでもなく、スマホを伏せかけて、ふと画面左上の未読通知に気がついた。


 まだ少し時間あるし、ついでに他のメッセージも返しとくかとトーク一覧を開く。公式アカウントに紛れて、依織からのメッセージも届いていた。


『今日もありがとうございました!クッキーまでおまけしてもらっちゃって、すみません…』


 ああ、そういえば。

 お昼に依織が来たとき、店長が余ってた試作品の焼き菓子を、こっそり添えて渡していた。それを、わざわざこうしてお礼を言ってくるあたり、ほんと依織らしい。


 俺は軽く指を動かして、メッセージを打ち始める。


『あれは試作品だから、気にすんな』


 送信して数秒後。メッセージに「既読」がついたかと思えば、すぐ様に返信が飛んできた。


『あのクッキーすごく美味しかったです。メニューに追加されるんですか?』


 その返信を見て、少し笑ってしまった。どんなクッキーでも、美味しいって言ってくれるんだろうな、こいつは。


 俺は指先を止めたまま、しばらく考える。メニューに追加されるか、なんて俺が決めることじゃないけど素直なその感想が、なんか嬉しかった。


『店長に伝えとく。きっと喜ぶ』


 そう返信を終えた、その瞬間。


 バンッ!という派手な音とともに、休憩室のドアが勢いよく開け放たれた。


「お待たせーーっ!」


 声の主はレイ。制服の上着を片手にぶら下げたまま、にっこり笑って立っている。


「着替えるからもうちょい待ってて!すぐ済ませるから!」


 こっちの返事も待たずにレイはネクタイをゆるめ、シャツの裾をちょっと引っ張りながら、勢いのままロッカールームへ足早に消えていった。


 俺は内心で苦笑しながら、ソファに背中を預け直す。

 スマホの画面には、さっきの依織とのやり取りがまだ残っていたけど、電源ボタンを押して、それを閉じた。


 ロッカールームの奥から、シャツを脱ぐ衣擦れの音や、ハンガーが揺れる小さな音が聞こえてくる。

 そんな音を背に、俺はもう一度背もたれに身体を預けて、ぼんやりと天井を見上げた。


 やがて、パタパタと軽い足音と共に、レイが現れる。


「よしっ、準備完了!」


 俺の目の前に現れたレイは、いつものきっちりしたコーデじゃなかった。

 ゆるっとしたパーカーに、黒のカーゴパンツ。シンプルでラフな服装なのに、変に目を引くのは、たぶん顔のせいだろう。


「……今日はずいぶんラフだな」


「うん、たくさん飲む予定だし!動きやすい方がいいかなって!どう?」


 そう言って、レイはくるっとその場で一回転してみせた。

 パーカーの裾がふわりと揺れて、ちょっとだけカジュアルな雰囲気が、いつもより年相応に見える。


「悪くない、と思う……いや、似合ってる」


「シキくんにそう言ってもらえると、素直に嬉しい!!ありがとね」


 俺の言葉を聞いて、レイは目を細めてふわっと笑い、俺に手を差し出してくる。


「じゃ、行こっか。お腹空いたでしょ?」


 一人で立てるのにな、なんて思いながらも、その手に軽く手を添えて立ち上がる。

 けれど、添えただけのつもりだった手は、レイにそのまま、ぎゅっと握られた。


 あれ、離さないんだ?なんて思っているうちに、その手を引かれて、俺たちは休憩室をあとにした。手を繋いだまま、店の裏口を抜けて、人気のない路地に出る。


「歩きづらくないのか?」


「寒いから、駅まではこのまま!」


「駅って、今日飲む場所って駅前じゃねぇの?」


「んーん、シキくんの最寄り駅の近くに、いいお店あったから。そっち行きます~!」


 さらっと言われたその一言に、俺の足がほんの少しだけ止まりかけたのを、レイは気づいてたのかいないのか。そのままの手をぎゅっと引っ張って、振り返りながら笑った。


「今日は、シキくんが帰りやすいとこ優先で選びました!」


 その笑顔がまっすぐすぎて、返す言葉を探す前に、また一歩、レイが先を行く。それに慌てて俺も引っ張られるように着いていく。


 結局、俺たちは、駅までの道を手をつないだまま歩いた。俺が内心でそわそわしてる横で、レイは何気ない顔で、それでもどこか嬉しそうだった。


 まぁ最初は少し気恥ずかしかったけど。冷たい夜風にさらされるうち、レイの手の温もりがありがたく感じてきて。それが妙に心地よくて、結局、文句ひとつ言えずじまいだった。


 改札を抜ける時、レイは少し名残惜しそうな顔で、ようやく手を離した。でもその指先は、離れるギリギリまで俺の手を丁寧に包んでいた。


 電車に乗り込んで、俺はドアの近くのポールにもたれかかる。レイは吊り革にぶら下がりながら「俺、何気にこっち側あんま来たことないかも~」と目をキラキラさせてる。


 ホームを出発して数駅。

 いつもの見慣れた景色が流れ、やがて俺の最寄駅に着く。


「シキくん、降りるよ~」


「わかってる」


 レイの声に頷いて、俺はポールから身を離した。駅の構内は、人の姿もまばらで、足音がコツコツと夜の空気に響く。


「ねえねえ、お店さ、改札出てからちょっとだけ歩くんだけど。大丈夫?寒くない?」


「ん、大丈夫」


「本当!?寒かったら俺が上着貸してあげるからね!」


「上着…?お前パーカー脱ぐの…?」


 軽口を交わしながら、俺たちは改札を抜けた。

 駅前の明かりが、ゆっくりと後ろに遠ざかっていく。


「こっちこっち、もうすぐだよ」


 しばらく歩いたところで、レイが笑いながら歩幅を早める。少し前を歩くその背中は、夜道の中でもやたらと明るく見えた。


「そんなに急がなくても店なくなんねーよ」


「やだやだ、待たせちゃったぶん、早く連れて行ってあげたいの!」


「はいはい」


 歩道に響くスニーカーの音が並ぶ。ひんやりした風が通り過ぎたけど、近くにレイがいると、それだけで不思議と寒くない気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る