外伝③『零号は静かに微笑む』
私立・大日本規律学園の教官たちの間で、今なお語り継がれる一つの伝説がある。規律が乱れ、生徒たちの瞳から鋼の光が失われかける時、古参の教官は決まってこう口にするのだ。
「貴様らには、失望した。かつてこの学園には、一人の生徒がいた。彼こそが、我々の理想の全てを体現した、唯一の完成品だった」と。
彼の名は、誰も知らない。記録に残るのは、ただ一つの番号。『生徒番号001』。
在学当時、彼は教官や上級生から畏敬と、そして僅かな恐怖を込めてこう呼ばれていた。『零号(ゼロ・モデル)』と。
彼は、校則を守らなかった。彼自身が、歩く校則だったからだ。
彼が廊下を移動すれば、その周囲だけが絶対的な静寂に包まれた。彼の完璧に統制された存在感が、周囲の生徒たちの呼吸や心拍数さえも同調させたのだ【第182条の具現】。彼は手信号すら滅多に使わなかった【第76条】。彼の視線の僅かな動き、ミリ単位の重心の移動が、周囲の者たちに彼の意図を寸分違わず伝達した。彼がいる空間では、エントロピーの増大、すなわち『乱雑化』が停止した【第145条】。
ある時、一人の下級生が過酷な訓練に耐えきれず、涙を流した【第93条違反】。風紀委員が罰則を執行しようとした時、零号が静かにその場に立った。彼は泣きじゃくる生徒を見下ろし、一切の感情を排した声で告げた。
「その液体は、塩分濃度99%の自己憐憫だ。君の身体から排出されるべき水分は、発汗【第30条】による体温調節か、許可された給水【第64条】に対する排泄【第65条】のみ。システムのバグは、自己申告の上、速やかにデバッグせよ」
彼の言葉には、侮蔑も怒りもなかった。ただ、絶対的な摂理。まるで物理法則を語るかのように、彼は校則の本質を説いた。下級生は恐怖で涙を止めたのではない。自らが犯した『エラー』の非論理性を理解し、羞恥で涙が凍りついたのだ。
彼の卒業試験は、学園史上、最も完璧なものだったと記録されている。
最終試験官は、彼に一つの命令を下した。「そこにいる、君が三年間世話をしてきた訓練用の老犬を、処分せよ」。それは、情という最後のバグを検出するための、非人道的な罠だった【第192条】。
零号は、一瞬の逡巡も見せなかった。彼の心拍数は毎分60を維持し【第22条】、表情筋は寸動だにしない【第19条】。彼は、最も効率的で、犬に苦痛を与えない方法――頸椎の瞬間的な分離――を選択し、完璧に実行した。そして、試験官に向き直り、こう言った。
「タスク完了。次の命令を」
試験官は、その完璧すぎる非人間性に、背筋が凍るのを感じたという。
彼が卒業して十数年。平和島渉による『革命』で学園が閉鎖された今、零号の伝説は、狂気の時代の遺物として忘れ去られようとしていた。
――だが、彼の物語は、終わってはいなかった。
場所は、日本の政治の中枢、首相官邸の地下深くに存在する国家危機管理センター。
壁一面の巨大スクリーンに、絶望的な情報がリアルタイムで流れ込んでいる。原因不明のサイバー攻撃により、首都圏の金融システムと交通網が完全に麻痺。ネットには真偽不明の情報が溢れ、国民はパニックに陥り、暴動寸前の様相を呈していた。閣僚や専門家たちは、人間の感情という最大の不確定要素を前に、有効な手を何一つ打てずにいた。
「もうダメだ…打つ手がない…!」
総理大臣が呻いた、その時だった。
室内の奥の扉が静かに開き、一人の男が姿を現した。
歳は三十代前半。仕立ての良いスーツは、皮膚の一部のように身体にフィットしている【第31条】。無駄な脂肪も筋肉も一切ない、機能美を追求した体躯。そして、何よりも異様なのは、その瞳だった。深淵のように静かで、一切の光を反射しない、感情の存在しない瞳。
彼の名は、誰も知らない。政府内でのコードネームは、ただ一つ。『ミスター・ゼロ』。
彼は、カオスを極めるスクリーンを一瞥しただけで、淀みなく分析を始めた。
「問題の根源は三点。第一に、SNSに仕掛けられた感情誘導アルゴリズムによる、国民の集団心理汚染。第二に、敵性国家による経済的揺さぶりを目的とした、AIによる超高速取引。そして第三に、ここにいる皆様方の『恐怖』と『焦り』という感情的ノイズが引き起こした、判断能力の著しい低下です」
その言葉は、まるでかつて学園で下級生を諭した時のように、冷徹な論理の刃だった。彼は、パニックに陥る数千万の人間の群れを、ただの巨大なデータセットとして処理していた。
「解決策を提示します。ステップ1、意図的に誤情報を流し、敵性AIの判断を誤らせ、自滅させる。これには、一部の市場で意図的な暴落を発生させる必要があります」
「そ、そんなことをしたら、犠牲が出るじゃないか!」閣僚の一人が叫ぶ。
ミスター・ゼロは、初めてその閣僚に視線を向けた。
「システム全体の崩壊を防ぐため、一部のセクターを切り捨てるのは、論理的かつ最適な判断です。感傷は、全体の利益を損なうバグでしかありません」
彼は、立て続けにいくつかの指示を出す。それは、常人の倫理観では到底下せない、冷酷だが、驚くほど効果的なものばかりだった。混乱の極にあった会議室は、彼の絶対的な存在感の前に、次第に統制を取り戻していく。
危機が回避され、静けさを取り戻したセンターで、総理大臣は恐る恐る彼に尋ねた。
「君は…一体、何者なんだね?」
ミスター・ゼロは、ゆっくりと総理大臣に向き直った。その無表情の奥で、ほんの僅かに、百万分の一ほどの確率で、唇の端が上がったように見えた。それは、笑い【第92条】という感情表現ではなく、ある処理が完了したことを示す、機械のサインのようだった。
「私は、礎です。国家というシステムを維持するための、部品(コンポーネント)に過ぎません」【第191条、第193条】
あの狂気の学園は、地上から消え去った。
だが、その歴代最高の傑作は、国家の中枢に深く静かに組み込まれ、誰にも知られず、この国の『規律』を定義し続けている。
彼は社会に適合したのではない。社会そのものを、彼の教え込まれた理想郷へと、作り変え始めたのだ。
日本の、本当の『管理社会』は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
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