異世界に転移した天才医師、治癒魔法を超える神業で無双する

桃神かぐら

第1話 転移したら、目の前で人が死にかけていた

現代の闇


「次のオペ、もう準備入ってます!」

「……わかった。麻酔科は?」

「本日も不在です!」

「ははっ、終わってるな、この病院は」


眩しい無影灯が容赦なく降り注ぐ。手袋の内側は汗でぐっしょりだ。無機質なアラーム音が鳴り続け、空調の風は乾いているのに、額からは容赦なく汗が落ちる。

俺――**神宮司零(じんぐうじ・れい)**は、天才外科医だと呼ばれてきた。新聞がそう書いたし、院内の誰かがそう囁いた。だが実態は、二十時間労働を日常にする社畜で、昼食は小さなゼリー飲料、夕食はカフェインと栄養ドリンク。椅子に座ったまま十五分眠れたら、その日は幸運だ。


それでもメスを置くわけにはいかない。俺の手を止めた瞬間、モニター上の波形が真っ直ぐになることを、何度も知っているからだ。


「収縮期、六十切りました!」

ベテラン看護師の**三浦(みうら)が声を上げる。

「昇圧剤! ……いや、輸血を先に。Oマイナスの交差不要を全量!」

カルテを抱えた新米研修医の佐伯(さえき)**が青い顔で駆け寄る。

「在庫がもう底です!」

「冗談だろ」


日本有数の大学病院。それでも血液は足りない。救急は溢れ、病棟のベッドは埋まり、手術室は止まらない。人手不足。資金不足。書類だけは山ほど増える。


俺は黙って開創鉤(かいそうこう)を深くかける。吸引で血液をどかし、視野を作る。動脈の拍動が見える。傷は深い。止血鉗子で掴み、縫合糸をかけ、結紮(けっさつ)――指が勝手に動く。耳では看護師の声が飛び交い、足元のペダルからは電気メスの匂いが立ち上る。


「先生、麻酔レベル、これ以上は危険です!」三浦が焦りを押し殺して言う。

「わかってる。あと三十秒で終わらせる」

「そんな――」佐伯の声が震える。


言葉を途中で切る。体が重い。心臓が胸郭の内側を殴っているみたいだ。視界の端が暗く、遠い。患者の家族の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。廊下で泣きながら頭を下げた母親。拳を握りしめ、何度も「お願いします」と言った父親。


――お願いされなくてもやる。医者だからだ。


縫合を終えて圧迫。止血良好。俺はようやく口から息を吐いた。指先の震えに、そこで初めて気づいた。


「次、緊急の外傷が来ます! 交通外傷、多発外傷!」

「……俺で?」

「他にいません!」三浦の目は赤い。


笑うしかなかった。俺はメスを置かずに、また拾う。


「零先生。仮眠は?」

「患者がいる」

「先生が倒れます」

「……倒れたら、そのとき考える」


モニターのアラームが一瞬高く鳴って、また落ち着いた。俺の耳鳴りは逆に強くなる。血の気が引いていく感覚。ああ、これは、まずいやつだ。


――このペースを続ければ、いつか死ぬ。誰かが言った。だが「いつか」は、だいたい突然やって来る。


最後に見たのは、赤く点滅する心電図モニターの波形だった。耳の内側で、何かがぷつりと切れた音がした。


転移


草の匂いがした。消毒液でも、電気メスでも、病院独特の湿った匂いでもない。青く乾いた匂い。頬を撫でるのは空調ではなく、本物の風だ。


「……あれ?」


上を見れば、雲が流れている。左右を見れば、草原がどこまでも広がっている。白い壁も、手術灯もない。手にはなじんだ手袋の感触。白衣は血で汚れている。足元には――見覚えのありすぎる器材が散らばっていた。


メスのケース。縫合糸の小箱。滅菌パックに入った鉗子。AED。ポータブル心電図モニター。輸液バッグ。ディスポ手袋の箱。アルコール綿。小型吸引機。折り畳み式の点滴スタンド。


「なんで……病院の器材が丸ごと転がってんだよ」


ありえない。だが、目の前にある。俺の指先は、いつもの順番で器材を並べ始めていた。滅菌のラインを作って、汚染と清潔を分ける。習慣は、場所が変わっても体から抜けない。


そのときだ。遠くから怒号が風に乗って届いた。


「だ、誰か! 治癒魔法でも血が止まらない! このままじゃ兄貴が死ぬ!」

「勇者様の仲間だ、ガイ兄貴を頼む! 誰か助けてくれ!」


俺は振り向いた。丘の陰から、甲冑の男たちが駆けてくるのが見える。中央には担架――いや、布を棒に括りつけただけの簡易担架――に、血だらけの騎士が乗せられていた。脇腹に剣が深々と刺さり、布は濡れ、滴り落ちる血が道に点々を作っている。


傍らで、ローブをまとった金髪の魔術師が必死に唱えていた。足元に光る魔方陣。暖かな光が傷口を撫でる。だが――血は止まらない。色褪せない鮮紅が、生命の出口を主張するみたいに流れ続けていた。


「もうダメだ……! 治癒が効かないなんて、そんな……!」

魔術師――ミレーユ・カルディナの声は震えていた。

泣き叫んでいた若い戦士が俺を睨み付け、しかしすぐ縋るように叫ぶ。

「お願いだ! 兄貴――ガイ・ブレイザーを助けてくれ! 俺はトリス・ブレイザー! 何でもする!」


見過ごせるわけがなかった。


「そこをどけ! 死なせたくないなら!」


俺は半ば飛び込むようにして人垣を割った。冒険者たちが驚いて退く。目は俺の白衣と、見慣れぬ器材に吸い寄せられている。


「お、お前は誰だ!」

「質問は後だ。まずは手を洗える水! 一番清潔な布! 布は煮沸したのがあれば最高だ!」

「な、なんだそれは!」

「いいから!」


声は自然に現場のトーンになっていた。理解できなくてもいい。最短の言葉で、最短の動きを引き出す。それが俺のやり方だ。


ミレーユが震える手で杖を掲げ、水の魔法を展開する。透明な水流が空中から生まれる。俺は手袋の上からでも指先を洗い、アルコール綿でさらに拭いた。手袋は替える。滅菌パックを破り、メスと鉗子をトレーに並べる。AEDとモニターの電源を入れ、電極を患者の胸に貼る。


「脈拍は……細い。呼吸は浅い。皮膚冷感、唇チアノーゼ。出血性ショックだ」

「しょっ……?」トリスが目を見開く。

「血を失いすぎて、全身に血が回ってない状態だ。今は“血圧が落ちて、心臓が空打ちしてる”と思ってくれ」


俺は患者――ガイの腕を持ち上げ、橈骨動脈を探る。弱い。今にも消えそうだ。時間が少ない。


「輸液ルートを確保する。……つまり“薬や水分を入れるための細い道を体の中に作る”。トリス、腕を押さえて!」

「こ、こうか!」

「もっと優しく。でも動かないように」


留置針を皮膚に刺す。角度が少し浅く、すぐに修正。静脈に入った瞬間のフラッシュバックを確認し、素早く針を抜いてカニューレだけ残す。固定。輸液を繋ぎ、バッグを高く掲げさせる。重力で流れるように。

「なるべく早くたくさん入れたい。体の“血の川”を埋め直すんだ」

「血じゃないのか?」トリスが訊く。

「本当は血がいい。だが今はない。だから代わりに水分と塩分を入れる。薄いけど川は川だ」


出血点を探る。剣は脇腹から入っている。角度からして肝損傷 or 腎損傷が疑われる。腹腔内に血が溜まっているなら、圧迫感で呼吸が浅くなる――今がそれだ。


「ミレーユ。治癒魔法は続けて。外から塞ぐ力は役に立つ。ただし今は内部の出血源を止めるのが先だ」

「ど、どうやって……」

「縫う」


その一言で、周囲の空気が変わった。冒険者たちの目が丸くなる。


「肉を、縫うのか」

「縫う。魔法は“閉じる”けど、縫合は“繋げる”。違いは大きい」


俺はメスで最低限の切開を加え、視野を作る。鉗子で出血している血管を挟み、糸をかける。体の中に走る細い管――それが生命の水を運ぶ道だ。道が破れたら、水は漏れ、土地は干上がる。俺の仕事は、道を塞ぎ、繋ぎ直すこと。


「糸が……体の中に入っていく……」ミレーユの青い瞳が見開かれる。

「これで“道”がつながる。血が本来の道を流れれば、命は戻る」


ドレーンを差し込み、溜まっている血を外へ逃がす。感染を防ぐため、煮沸した布で周囲を覆い、開いたところにだけ手を入れる。簡易的な無菌野だが、やらないよりはずっといい。


モニターの波形が少しだけ整う。脈拍はまだ速いが、先ほどより強くなった。顔色が、ほんのわずかに赤みを取り戻し始める。


「……返ってきてる」

呟きが口から漏れる。手元を止めない。浅い損傷は止血材で押さえ、深いところは結紮で確実に。俺の指は、何百回、何千回とやってきた動作を、ここでも繰り返している。


「兄貴……兄貴は助かるのか!」トリスの声が震える。

「助けるためにやってる」

「治癒魔法でも駄目だったのに!」

「魔法は万能じゃない。だから俺たちは学んだ。傷の“形”と“流れ”を理解して、手で直す方法を」


縫合を終え、圧迫。滅菌ガーゼで覆い、包帯を巻く。糸の端を切る音が、やけに大きく聞こえた。

「よし……」


大きく息を吐いた。ここまでが第一段階。命は繋いだ。これから感染管理・呼吸回復・栄養・再出血監視が必要だ。だが――今は、とにかく“死”の段差を超えた。


「ミレーユ。体温を上げる魔法はあるか? 冷えは血の巡りを悪くする。湯でもいい」

「あります! 穏やかな温熱なら」

「頼む。ただし熱すぎるのは駄目だ。熱傷は余計なダメージになる」


柔らかな光がガイを包み、皮膚の蒼白がゆっくり色を取り戻す。俺は輸液のスピードを見ながら、気道が保たれているかを確認する。舌根沈下なし。気道確保はこのままでよい。


「あなたは……何者だ」ミレーユが問う。

「俺は――医者だ」


沈黙。風の音。遠くで鳥が鳴いた。冒険者たちの、畏れと困惑と、安堵が混じった視線が一斉に俺へ注がれる。


「医者……」トリスが呟く。「この国の神官でも、大神殿の癒し手でもないのか」

「違う。俺は“治すために切る”ことを学んできた」


誰かがごくりと唾を飲む音が聞こえた。

「さっきのは――魔術じゃないのか」

「違う。科学だ」

「かがく?」

「世界の仕組みを、観察して、説明して、繰り返し確かめるやり方だ」


説明は少しずつでいい。今大事なのは、目の前の命を安定させることだ。


「兄貴! 兄貴、聞こえるか!」

呼びかけに、ガイの瞼が震える。ゆっくりと薄く開いた瞳が俺を映した。

「……ここは……」

「草原だ。安全じゃない。後で、もっと安全な場所に運ぶ」

「助かったのか、俺は」

「助けると言った」


ガイの口角が、ほんの少しだけ上がった。安堵の表情は、どんな薬よりも強い。周囲の仲間たちが一斉に泣き笑いの声を上げた。

「ありがとう! 本当にありがとう!」

「お前は……神官よりすごい……」

「すごいのは、知識と道具だ。俺はそれを使っただけだ」


内心では手の震えが止まらない。緊張が解けると同時に、現代での疲労が波のように押し寄せる。けれど、ここで崩れるわけにはいかない。


「このままじゃ感染する。煮沸した水を用意してくれ。できれば塩も。清潔な布は足りるか?」

「村に戻れば……」

「戻る。担架はもっと頑丈に。棒は太く、布は二重にして揺れを減らす。呼吸を楽にするため頭は少し高く。輸液はこの高さを保ってくれ」


指示を出すと、人々の動きが生まれた。冒険者たちの足取りはまだおぼつかないが、命令の意味は伝わったらしい。俺は荷物を手早くまとめ、最低限の滅菌を保つ工夫を続ける。


歩きながら、ふいに現代の病院が脳裏に浮かんだ。あの無影灯、金属音、紙の山。あそこで俺は倒れた。過労死。笑える終わり方だ。

――けど。

この世界では、俺は唯一の医者かもしれない。少なくとも、俺と同じ方法で人を救えるやつは、今、ここにはいない。


「助けられる命があるなら、全部助ける」


独り言のように呟くと、隣を歩いていたトリスが振り向いた。涙の跡が頬に残っている。

「あなたは……何者なんだ。名前を、教えてくれ」

「神宮司零。零でいい」

「俺はトリス。兄貴はガイ。勇者様の隊の前衛だ」

「勇者」

「アルノルト様だ。この国を魔王から救うって言われてる人。兄貴は、その盾だ」


勇者。魔王。剣と魔法の世界。俺はやっと、自分がどこにいるのか、言葉の輪郭で理解し始めた。

「アルノルトは今どこに」

「王都。近くの村で再編して、それからまた魔王軍の砦を落としに――」

「なら、王都に行こう。怪我人には設備が要る。神殿でも治せないなら、俺がやることがある」


トリスは目を見開き、すぐに力強く頷いた。

「王都へ行こう! 俺たちが案内する!」


村、そして夜


村に戻ると、初めて見る器材に人々は息を呑んだ。AEDの電極、透明の輸液、銀色に光る鉗子。子どもは怖がり、老人は拝み、若者は好奇と畏怖の目を向ける。

「これは……神の道具か」

「違う。人が作った」

「人が……」


鍋を煮立たせ、布を煮沸し、塩で簡易の経口補水に近いものを作る。もちろん完全な無菌ではないが、しないよりは圧倒的にいい。俺は村の一室を借り、簡易の処置室を作った。


「体温は? 指先は温かいか。尿は出たか」

「少し……温かく」「尿はまだだ」

「腎臓が休んでいる。水の速度を少し落とす。呼吸は? 胸は同じように上下してるか」

「しています」


夜が落ちる。ランプの火が揺れる。村人たちは交代で湯を運び、布を干し、俺の指示に従ってくれた。トリスは眠らない。兄の手を握り、何度も礼を言う。


「助けられなかったことも、たくさんあった。俺の世界で」

ふと、誰にともなく呟く。

「零……?」ガイが呼んだ。しわがれた声。俺はすぐに傍に寄る。

「ありがとう。お前は……何者だ」

「医者だ」

「医者……」

「“治すために切る”人間だ」


ガイは薄く笑い、再び眠りに落ちた。呼吸は規則正しい。脈も安定している。俺は少しだけ肩の力を抜いた。


そのとき、戸口が荒々しく開いた。甲冑の靴音。村人たちが一斉に立ち上がる。

「お騒がせする! 王都からの使いだ!」

低い声とともに、紋章入りのマントを羽織った騎士が入ってきた。背後には神官が二人。


「報告は受けた。神殿の治癒でも救えぬ重傷者を、“縫い合わせる術”で救命した者がいると」

騎士の視線が俺に止まる。

「神宮司零だ。今は患者の状態を見てくれ。話はそのあとで」

「無礼を――いや、構わん。……おい、状態はどうだ」

神官たちが静かに近づき、柔らかな光を患者に当てる。

「信じがたい……血の巡りが戻っている。われらの癒しで塞げなかった深部の傷が、**糸で“繋がって”**いる」

「魔法の流れも乱れていない。むしろ、整っている……」


騎士はゆっくりと頷いた。

「リュシア王女と大神殿より召喚がある。王都へ来てほしい。“治癒魔法を超える術”を持つ者として」

「王都に行くつもりだった。設備が要る。患者を動かすのは明日だ。夜は危険だし、出血の再開も怖い」

「理解した。護衛と馬車を手配する。医師殿、準備ができ次第、そなたも同行願いたい」

「いいだろう」


静けさが戻る。トリスが俺を見る。子どものような目のまま、戦士の決意を宿した目で。

「零。あんたは、神様か?」

「違う。何度も失敗した凡人だ。だからこそ、手順を守る」

「手順」

「そう。観察して、仮説を立てて、確かめる。うまくいけば続ける。駄目なら直す。魔法にも、きっと同じものがある」


窓の外で月が雲に隠れ、また顔を出した。村の夜は静かだ。遠くで犬が一度吠えて、すぐ静まる。俺はランプの芯を少し下げた。明かりは弱く、けれど温かい。

――ここで、やり直す。

過労死で終わった俺の人生を、やり直す。助けられなかった命の分まで、救う。

「異世界だろうが、俺は医者だ」


夜明け、王都へ


夜明け前、短い仮眠から目を覚ます。白衣を膝にかけ、首はひどく痛い。だが久しぶりに、胸の奥が軽かった。誰かの命が、確かにこちら側に戻ってきている。その事実だけで、体のどこかに火がついたように温かい。

「起きたのか、零」トリスの目の下に隈。

「交代で寝ろと言ったろ」

「寝た。五分くらい」

「それは寝たとは言わない」

苦笑がこぼれる。


鍋では水が小さく踊り、湯気が布を湿らせている。村の女たちは夜通し交代で火を見てくれた。男たちは番をし、子どもたちは静かに眠っている。世界は、まだ善意でできている。少なくとも、この部屋の半径に関しては。


包帯の端を持ち上げ、浸出液の量と色を確認。甘い匂いなし。化膿はまだ。体温は微熱。手足は温かい。尿は少し出ている――腎臓の目覚め。

「よし、輸液を半分に落とす。喉が渇いたと言ったら、温い水を少しずつ。塩をほんの少し混ぜる」

「塩?」

「水だけだと、体の中の“塩の川”が薄くなる。塩は大切だ。入れ過ぎは駄目だが、少しは要る」

「川……血も、同じように流れるのか」

「同じだ。流れが止まれば腐り、行き過ぎれば枯れる」


外が薄らいでくる。馬の嘶き。革の軋み。王都の護衛が来た。

「出発の用意を。振動で傷が開くのが怖い。担架の下に藁を敷いて、揺れを吸収。角には布を巻け」

「了解!」


器材の残量を見直す。縫合糸はまだ。消毒はぎりぎり。輸液は少ない。AEDのバッテリーは半分。

――足りない。だが、足りないなら、作ればいい。

王都で手に入る素材。酒精、油、蜜蝋、布、金属。ガラスはあるか? 工房は? 神殿の設備は? 頭の中で、仮設の工房を何度も組み直す。ペニシリンはこの世界のカビで代替できるか。培養器は作れるか。越えるべき壁は多い。だが、それでいい。壁があるなら、越えればいいだけだ。


村はずれの馬車は頑丈だった。大径の車輪。幌付き。内側に干し草が厚く敷かれている。担架を載せ、輸液バッグを幌の骨に括りつけ、縄で固定。

「王都まで、どれくらいだ」

「早馬で半日。馬車だと一日だ」

「途中で休憩を二度入れる。脈拍と呼吸、顔色を見て報告。ガイ、気分はどうだ」

「……少し、重いが、平気だ」

「痛みは?」

「我慢できる」

「我慢は美徳じゃない。痛みが強いと呼吸が浅くなる。浅い呼吸は肺を弱らせる。合図したら、この粉薬を舌の下に。痺れるが楽になる」

「わかった」


トリスに観察の手引きを渡す。脈の取り方、呼吸の数え方、顔色の見方。

「読み書きは?」

「勇者様の隊は、読み書きができないと入れないんだ。殿下がそう決めた」

「いい判断だ」

言葉は力だ。記録は武器だ。医療においては特に。


出立。村人たちが手を振る。女たちは胸の前で印を切り、子どもたちは俺の白衣をまねて布を羽織る仕草をして笑った。俺はそれに手を振り返し、馬車に乗り込んだ。


道は思った以上に荒れていた。石畳は途中で途切れ、土道は轍が深い。車輪が大きく跳ねるたび、担架がきしむ。包帯の端を押さえ、ドレーンの位置を直し、滴下速度を目視で調整。

小川で水を三桶。道中で火を起こし、余った布を煮る。清潔は運ぶより作る。


昼。森の木陰で休憩。手洗いの仕方を教える。指先、指の間、親指、手首――順番に、二十数える。

「二十も?」

「命の分だけ数える」

「なら、百でも千でも」

トリスは笑い、指を擦り合わせた。


午後、丘を越えると、遠くに白い城壁。塔が点々と並び、門の前には商人の列。尖塔が空を突き、屋根の青は雲を映す。

護衛の旗印で門が開く。石畳に乗ると振動がやわらぐ。ガイの額の汗を拭い、呼吸を確かめる。


神殿前の広場。白いローブの神官たち。俺の器材に釘付けになり、そして俺を見る。畏れ、好奇、警戒。

「ここでよい。殿下がお待ちだ」護衛が言う。


正面階段に若い女性。明るい金の髪、湖のような青い瞳。だがその中央に、鋼の意志。

彼女は軽やかに降り、担架の傍らに膝をつく。

「ガイ。よく耐えたね」

「……殿下」ガイが微笑む。

彼女――リュシア王女は顔を上げ、真っすぐ俺を見る。

「あなたが、神宮司零殿?」

「零でいい。患者が落ち着いたら、いくらでも話す」

「わたしはリュシア。王家の名で、あなたに正式にお願いする。わたしたちの国に**“医術”**を教えてほしい」


ざわめき。神官の眉が動く。騎士は黙し、トリスは息を呑む。

俺は白衣の袖をまくり、視線を正面に上げた。

「条件がある」

「聞こう」

「命を救うために必要なことを、誰の許可もなくやらせてくれ。政治でも、宗教でもない。医療は現場の判断がすべてだ」

「……難しいが、理解した。できる限りの権限を与える」

「もう一つ。学びたい者には門戸を開く。身分は問わない。読み書きができる者なら誰でも」

「約束する」

リュシアの瞳は揺れない。神官たちが目配せをするが、王女は一歩も引かない。

「なら、始めよう」


神殿の一角に、白い布を張り巡らせた空間を用意。日差しを和らげ、風の通り道。床は洗い、火で燻し、できる限り清潔に。村からの器材に神殿の銀器・ガラス器を足し、仮設の“手術室”が立ち上がる。

「これが……医者の仕事場」トリスが呟く。

「そうだ。ここから先は、命の境界線だ」


神官が、おずおずと手を挙げる。

「わたしたちも、手伝えるだろうか。癒しの加護は、痛みを和らげ、体温を調節できる」

「助かる。外側と内側、二つの矢で同じ的を射る。俺たちの矢は糸と刃、あなたたちの矢は光だ」


リュシアは満足そうに頷く。

「神宮司零――いいえ、零。あなたを国の御用医師に任じる」

「肩書きは要らない。必要なのは、消毒薬と糸と、落ち着いた時間だ」

「用意しよう」


その夕暮れ、城下に小さな噂。

“魔法よりも強い治療をする、白衣の男が現れたらしい”

“肉を縫い、血の川を繋ぎ直す医者だと”

“王女殿下自ら招いたという”


噂は夜の帳を越え、闇の向こうに潜む者たちの耳にも届く。魔王軍の斥候、貴族の医務官、商会の長、薬草師、そして――病の床に伏す王女の妹の耳へ。


翌朝、神殿の扉の前に行列ができた。泣きながら幼子を抱く母、片足を失った兵士、咳で胸を押さえる老人、体中に斑点の娘を支える父。


「零」リュシアが真剣な顔で言う。

「ここには、あなたの“正解”を待っている命が、こんなにもある」

「正解はいつも一つじゃない。だが、“間違いを減らす方法”はある」


俺は袖をまくり直した。

「ルールを作る。手洗い、器材の煮沸、清潔/不潔の区別、記録、観察、仮説、検証、伝達、繰り返し」

「それが、医術」

「そう。そして、これは“皆でできる無双”だ」


俺は一番最初の患者に向き直った。

メスは剣より強し――この世界に、その事実を、ゆっくりと刻み始めるために。

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