第九話 三

  三


 日の出よりずっと早い時間。夜勤でない多くの騎士と兵士達が起きてくる頃に、ルナクスは既に城壁の上にいた。傍らではギンが朝食の干し肉を齧っている。

 背負った矢筒に二十本、加えて募集に応じると決めた際に町で購入した矢が百五十本あった。後者は自作でないため品質にばらつきがあるが、ルナクスの技量なら特に支障はなかった。

 監視塔には暗視能力のある兵達が詰めており、都市へ近づきつつある不穏な気配を感じて強張った顔をしていた。

 城壁の上を男が歩いてくる。ルナクスは左手に複合弓を持って魔物領域の方を見ている。

「一級ハンターのセズマーだ。あんたの噂は聞いている」

 セズマーと名乗る男は隣国から応募してきた者の一人だった。腕が長く太く、背中と肩回りの筋肉も異常に発達していた。年齢は五十才前後で、常に眉間に皺が寄っている。その皺を延長した額の中央には十字の刺青があった。

 偏った筋発達は彼の武器に由来していた。長さ約百八十センチのロングボウ。素材は魔物と化した樹木由来で、並の筋力では数センチも引けない強弓だった。矢筒に収まった矢も長く頑丈な作りだが、それが尽きれば一般的なものを使わざるを得なくなるだろう。

 数多くの魔獣を一射必殺で葬ってきた自信が、男の眼光に表れていた。その冷徹な目でルナクスを観察し、セズマーは続けた。

「強者の気配ではないな。隠形に長けた者のように、気配を消している訳でもない。一見して普通で自然、ただの一般市民に見える。だがこの状況で平然としているのはまともではあるまい。どれだけ修行を積めばその境地に至れるのか」

「人による」

 ルナクスは簡潔に答えた。

 セズマーは細い目を僅かに見開き、それから少しの間沈黙した。

「……。最近クルーゼルというハンターが名を売っている。ルナクスの弟子と自称しているようだが、本当か」

「本当だ」

 表情を変えずルナクスは答える。

「そうか。……俺ももし若ければ、弟子入りを考えたかも知れんが……」

 そう言い残してセズマーは離れていった。城壁上の別の場所に陣取るつもりのようだった。

 そのうちに魔物領域側の城門手前に騎士と兵士達が集まってきた。甲冑姿で大盾を持った騎士が八十人、軽装備で弓矢や長槍を持った兵士が三百人ほど。特に長槍は全長十メートルはあり、弓兵と並んで城壁の上から魔獣を突き刺すのに使うようだ。かなりの重量がある筈だが、片手で持ち真っ直ぐに立てている様子は危なげなかった。銃を持つ者がいないのは、普通の弾丸では魔獣に大したダメージを与えられないためだ。

 騎士団長モートス・ハインケルが太い声で勇ましい訓示を垂れ、激励し、愛する祖国に一歩も敵を入れないことを誓って片腕を突き上げた。騎士と兵達も片腕を突き上げ大声で応じる。大規模な魔獣のスタンピードという状況下でも彼らは力強い決意と愛国心に満ち、更には少々狂信の気配もあった。

 少し離れた場所で『不死身のシュテム』が壁に寄りかかってニヤニヤしながらそれを見物していた。だがそれは馬鹿にする様子ではなく、駄目な子供を生暖かく見守る父親のような目つきだった。

 フリーのハンター達は弓矢を使う者と近接武器を使う者がいたが、後者はグランシルドの連携戦術に合わせられないため控えに回るか、市内に魔獣が紛れ込んでいないか巡邏する役目となる。

 騎士達が兜をかぶる。城門が開かれ、その外に無数に配置された頑強な柵の手前に並ぶ。この規模のスタンピードにおいて、内部に篭もり城壁の上から攻撃するという選択を最初からすることはない。自ら餌となって魔獣を惹きつけ手早く処理していかないと間に合わなくなる恐れがあった。城壁を簡単によじ登ったり、巨体でぶち破ってきたりする魔獣もいるのだ。

 監視塔にいる見張り役の「森が動き出しました」という叫び声が響き渡る。

 森の輪郭が次第にはっきりと浮き上がり、朝の訪れを知る。

 その森が小刻みに揺れている。木や枝の折れる音が聞こえ、人々は歯を食い縛る。シュテムは城壁の外、騎士達の少しだけ後ろに立って頭を掻いていた。臨機応変に手助けするつもりのようだ。

 ルナクスは無表情に森を見ている。

 震動を感じるようになる。大地が震えるのは巨体の魔獣達が駆けているためだ。鋭敏な感覚を持つ者なら魔獣達の荒い息遣いと狂乱の気配を感じ取るだろう。

 騎士達は大きく息を吐く。兵士達は緊張を和らげるように腕を回したり弓の弦の感触を確かめたりしている。ルナクスはまだ矢に触れてはいない。ギンは自分に仕事が来ないか気にしてルナクスの後ろで行ったり来たりしている。

 ふとシュテムが振り返って城壁上のルナクスの顔を確認し、こっそりと安堵の息をついた。

 空が白み始める。

 森から転がり落ちるように生き物が飛び出してきた。先陣は大ネズミや角のねじれた鹿、リスに似た小動物などだった。追い立てられ、生を求めて死へ突き進む血走った目。待ち構える騎士達が見えているのかどうか。

「ロングリブッ、グランシルドーッ」

 最前列中央の柵から一人だけ一歩前に立ち、グランシルド第二騎士団長モートス・ハインケルは大盾を掲げ怒鳴る。戦闘開始の合図であり、防御結界発動の呪文でもあった。

「ロングリブッ、グランシルドッ」

 他の騎士達が一斉に同じ言葉を唱えて盾を掲げる。護国の意志と覚悟が肉体から放射され見えない防壁を形作る。互いの防壁が繋がり隙間がなくなっていく。同じグランシルド人にしか感知し辛い壁。

 城壁の上から弓兵が矢を放ち始める。大型の敵狙いで、相手も直進ばかりのためよく命中するが、背中や首に矢が刺さっても魔獣の生命力でまだ駆け続けている。それでも少しは騎士達の負担を軽くする意味があった。

 先頭を駆けていた大ネズミが見えない防壁にぶち当たって首を折った。そこにシュパンッ、とモートスが軽々と大剣を振るって胴を輪切りにする。飛び散った血が甲冑にかかり赤を上塗りした。

 他の魔獣達が次々と防壁にぶち当たり、騎士達が慣れた手際で始末していく。シュテムはまだ後ろで様子を見ている。まだ距離がある敵には城壁の上から弓兵が射て、近くになると届くところは長槍で少しずつ傷を与えていく。

 男達の雄叫び。魔獣の悲鳴と咆哮。刃が骨を断ち切る硬い響き。大地が血で赤く染められていく。

 ルナクスは手を出さず、冷静にそれを見守っている。まだ序盤で、魔獣は弱く、騎士達も体力充分で防御結界もうまく機能している。

 だが、二千以上の狂乱した魔獣に対して何処までそれが続くか。

 と、血みどろの激戦など知らぬように空を高速で飛来する大きな影。ルナクスは背の矢筒に手を伸ばすが、そこで一旦待つ。城壁上の別の場所から飛んだ大型の矢が翼開長十二メートルの大鷲の胸を貫いていた。正確に心臓を射貫かれた大鷲は、城壁を過ぎて市内に侵入したもののそのまま力尽きて地面に激突した。

 矢を放ったのは一級ハンターのセズマーだった。異常に発達した腕でロングボウを握り、彼は僅かな時間ながらルナクスに視線を向けていた。ルナクスの反応を見たかったのだろう。しかし何の反応も得られないことを知ると、眉間の皺を深くして前方の魔獣達へ向き直った。

 百体ほどは始末しただろうか。森から転がり出る魔獣に大型のものが混じり始めていた。草むらで擬態するため毛皮が緑色になった狼、逆に自らを誇示するように全身が発光する大狼、尖った六本の角が全て前方を向いた巨大な鹿。そして石や槍を投げてくる猿や、毒液を無数に噴きかける大蛇、口から火を吐く狼など距離を取って攻撃してくる魔獣が増えてきた。始末するのに手間がかかり、柵の後ろで待ち構えるだけでは済まなくなる。寄せてくるたびにサクサク処理していたものが、魔獣達が柵の前で密になり厚い肉の壁と化しつつある。攻撃を受けるたびに防壁は消耗していき、最初のような硬度はなく相手の動きを鈍らせる程度の働きとなっていた。

 騎士達の疲労が濃くなり、角で貫かれたり腕を噛み砕かれたりする者が現れる。モートスの指示で列は少しずつ後退していき、防衛線が城壁に近づいていく。城壁の上から槍で狙いやすくはなるが、押し込まれるリスクは増す。頑丈な城壁を平気でぶち壊す魔獣もいるのだ。

 その頃から『不死身のシュテム』の働きが目立ち始める。崩れそうなところに素早く移動して難敵を片づけていく。金属の装甲で覆われた熊も大薙刀の一閃で真っ二つにしていた。

 空から侵入してくる鳥系の魔獣は適宜ルナクスが射殺したが、地上の敵にはまだ手を出さない。モートスが助けを求めないためだ。何人かの騎士が既に倒れ、そのうち一人が死亡、もう一人もほどなく死ぬだろう。

 セズマーは矢に限りがあるため大型の鳥の魔獣のみに標的を絞っている。今のところただ一矢で急所を貫き仕留めていた。

 戦闘開始から一時間ほどが経過し、五百体は倒しただろう。生きている魔獣は見渡せる範囲で千体以上。密集したため共食いを始まるものもいるし、騎士が倒した死体を夢中で食っているものもいた。しかし大部分は騎士を目掛けて襲ってくる。彼らにとっては人間は最も弱く楽な獲物なのだろうか。

 モートスは開いた城門ぎりぎりまでの後退を選んだ。城門は奥まっており外から入ろうとすると次第に狭くなっている。そこに魔獣を引き込んで、同時に相手をする数を減らし、こちらも疲弊した者と交代しつつ防衛線を維持しようとする戦術だった。

 だが魔獣の一部は過密のルートを諦めて別の入り口を探して城壁を回り込むし、やはり城壁を打ち破れそうな大きさの魔獣も現れ始めていた。魔物領域の反対側、レッドフロントの正門は固く閉じられており、回り込んでいるところを城壁の上から弓兵や槍兵がチクチク刺していく。そういうところでは一般市民も長槍を持って参加していた。素早い大ネズミが城壁を駆け上って市内に入ろうとして、数百メートル離れたルナクスの矢に射殺された。

 体高五メートルはある巨大な猪が他の魔獣を踏み潰しながら突進してきた。シュテムがナイフを投げて片目を潰し、セズマーが渾身の一矢を放って猪の脳天に突き刺さったが、猪の勢いは止まらない。セズマーの二矢目が心臓辺りを貫き、少しだけ勢いが落ちたが猪の太い牙が城壁にめり込み大地が揺れた。しかし城壁をぶち破るまでには至らず、駆け寄ったシュテムが薙刀で首を半ばほどまで切り裂いてトドメを刺した。

 ルナクスは城壁の内側に入ってくる鳥や猿の魔獣を適切に仕留めながら、騎士団の状態を確認する。死者は七人、動けないほどに負傷した者が十四人。団長のモートスも含めて全員が疲弊しており半分の力も出せなくなっている。男達の雄叫びが魔獣の咆哮に押し負ける。

 だがモートスは一瞬城壁の上のルナクスを見て、兜を左右に振った。まだ積極的な手助けは不要と訴えている。

 セズマーは弓兵のストックから普通の矢を分捕って使い始めていた。自前の大型の矢は三本だけ残している。

「おい、モートス、そろそろ、ルナクスに、頼った方が、いいんじゃねえか。年寄りに長期戦は、応えるぜ」

 息切れしながらも薙刀を振り回し、シュテムがモートスに言う。

「まだ、だ。まだ、やれる」

 最前列に踏み留まり、モートスが返す。いつしか二人は肩を並べて戦っていた。

「まだはもう、もうは、まだって、言うだろ」

「何だ、そりゃ」

「投資の、鉄則らしいぞ。よう知らんけど。とにかくそろそろ、限界だってんだ、よっ」

「うるせージジイッ。他人に頼る気持ちが、隙になるんだっ。まだ、千体も、殺してないだろが」

 と、猿の魔獣が投げつけた石が兜に命中し、モートスがひっくり返った。すぐに後ろの騎士達が進み出て最前列を引き受ける。

 倒れたモートスに駆け寄り状態を確認すると、シュテムはルナクスを見上げて大声で呼びかけた。

「モートスが気絶したっ。手助け頼むわっ」

「わ、私はまだ……」

 言いかけたモートスの兜にシュテムがパンチを食らわせて本当に気絶させた。騎士達もその様子を見ていたが、死者が二十人を超えた状況で文句を言う者はいなかった。

 細かい取り決めに従うのなら、ルナクスが積極的に動くのはモートスが助けを求めたか死んだ場合に限る。しかし本来受けた依頼はスタンピードからレッドフロントを防衛することであり、ルナクスは後者を優先した。

 弓は左手に持ったまま城壁上を駆け、城門の最前線に飛び下りる。ヒュオゥッ、という鋭い風鳴りの音は魔獣の咆哮に紛れていた。

 着地した時点で、先頭に詰まって牙を剥いていた魔獣二十数体が崩れ落ちた。首の後ろの延髄を正確に切断されたためだ。

 ルナクスは右手に細い糸を握っていた。長さ数メートルの糸の先は、菱形の薄いナイフ、その後端の輪に結びつけられていた。それを単純に振り回すのではなく宙で巧みに操作し、一閃で魔獣達のそれぞれの急所を切り裂いてみせたのだ。

 後続の魔獣達は状況を理解していないようだった。ただ前にいて邪魔だったもの達が倒れたので、自分達が前に出て人間を襲い食らおうと突進した。ひっそりと立つ一人の男に何の脅威も感じずに。

 そしてルナクスは糸を振り回し、小さな刃が一閃した。また二十体以上の魔獣があっけなく倒れ、最小限の血を流して動かなくなった。

 ルナクスは魔獣の死体を踏んで前に出た。城門前の隘路が少し広くなり、ルナクスの糸はさっきよりも長く、刃が踊る範囲も広くなった。今度は一閃で五十体以上が倒れた。

 ルナクスは更に前に出た。魔獣達は前が空いたのでここぞとばかりに押し寄せる。そしてまた一閃。百体近くが倒れた。

 今は倒され砕けた最前部の柵の手前で立ち止まり、ルナクスは無表情に、熟練の職人が慣れた作業でもするかのように、淡々と殺戮を行った。

「ギン」

 糸を振りながら、ルナクスが左手で斜め後方を指差す。命じられたシルバーウルフは喜んで城壁の上を駆けていき、都市の側面へ回り込んでいた魔獣達に飛びかかり次々と食い殺していった。

 騎士達はただ凍りついていた。城壁の上に並ぶ兵士達もハンター達も、唖然とした顔でそれを見ていた。自分達が命懸けで戦ってきた魔獣の群れが、一人の男によって軽々と蹂躙されていく様を。彼らは『セントラル山の狩人』の伝説を知っていた。御伽話として楽しんだ。だが、現実に目にした光景は、あまりにも一方的で無感動な殺戮だった。人間の努力や成長など何の意味もないと断じるような、遥か高みに立つ化け物がそこにいた。

 一級ハンターのセズマーは細い目を見開き、血の気の引いた顔で無意識に自分の額を掻きむしっていた。必中必殺を祈願して十字の刺青を入れた額を。

 『不死身のシュテム』は既に経験済みだったため動揺することはなかった。ただひねくれた苦い笑みを浮かべ、神経質に愛用の薙刀を撫でていた。

 魔獣達が減っていく。巨大なムカデが、前肢が四本ある巨大熊が、背丈が十メートルもある大猿が、粘質な糸を投げかける巨大蜘蛛が、ドラゴンと区別のつかなくなった体長三十メートル近い大トカゲが。騎士達が一体相手に数十人がかりで取り囲んでやっと始末出来るような怪物達が、出てきた途端にさらりと死んで伏していく。魔獣達の咆哮は少なくなり、聴覚の鋭い者はヒュオン、ヒョリュ、という風切り音を耳にするようになる。死神の鎌が振るわれる音を。

 二千を超える死骸が地に満ちて、魔獣達も漸く、この何の迫力もない一人の男によって自分達が殺されていくのを理解したようだ。方向を転じて逃げようとするものも、やはり、風切り音と共に急所を切られて死んでいった。

 森から出てくる魔獣がまばらとなり、ルナクスが糸を振る頻度が減っていった。

「待て……待ってくれ……ルナクス」

 太い声がした。変形した兜を脱ぎ、血まみれの顔で騎士団長モートスが立ち上がろうとしていた。

「まだだ。まだ。まだ私は、私達は、やれる。人間は、甘えてばかりでは、前に進めない……」

 大盾に寄りかかるようにして立ち、モートスは喉に血が絡んだような深呼吸を一つして、大剣を拾い上げた。

 ルナクスは振り返り、何の感情も含まぬ目をモートスに向けて尋ねた。

「後一体、大型の魔獣が来るが、やるか。死んでも責任は取れんが」

「やるっ。我らの手でやらせてくれっ」

 モートスが叫び、前に出ていく。

 呆れたような小さな溜め息をついて、その隣を『不死身のシュテム』が歩く。

 二人の背を見て、呆然と立ち竦んでいた騎士達が動き出した。疲れ果て、絶望した重い足取りに、次第に力が戻ってくる。団長が諦めず、同郷の偉大な先輩も諦めていないのだから、彼らも諦める理由はないのだった。

 セズマーは額に滲んだ血を拭い、矢が三本だけ残った矢筒へ手を伸ばした。

 森が揺れる。スタンピードで木々が倒され出来た道を、巨大な気配が近づいてくる。

 ルナクスはそれを無視して歩いて戻ってくる。並んで歩くモートスとシュテムとすれ違い、彼は軽々と跳躍して城壁の上に立った。

 森から最後に現れたのは複数の動物を適当に混ぜ合わせたような化け物だった。元は虎か、ワニの方か。太い胴体の融合した部分はゼリー状で、アメーバに食われ吸収される途中で抵抗力が打ち勝ったのか。虎とワニの頭部はどちらも意識があるようだった。脚は大小十七本あってバランスが悪いが動きはうまく連携が取れていた。頭部から、胴体の所々から、爬虫類の長大な尾から、角や爪のような突起が生えていた。やはり吸収融合される過程で有用だから残されたのだろうか。もしかするとこの合成魔獣の本体はアメーバなのかも知れない。

「ちょっと、なあ、でか過ぎねえか」

 シュテムが愚痴った。

「大型だと言ってたろ」

 モートスが応じる。

 合成魔獣の尾を合わせた全長は四十メートル以上あった。

 元の五倍の大きさはありそうな虎とワニの頭が彼らを睨んでいる。狂気を孕んだ殺気が物理的な暴風と化して吹きつける。虎が牙を剥いて大口を開け、咆哮する。

「ロングリブッ、グランシルドッ」

 モートスが盾を掲げて叫び、すぐに騎士達が唱和する。命を振り絞るような絶叫により防御結界が張り直される。

 巨大な魔獣が十七本の脚で突進してくる。その虎の片目に強力な矢が深々と突き刺さり、苦痛と怨嗟の苦鳴を上げさせた。矢を放ったのはセズマーだ。致命傷を与えられなかったことに歯噛みしつつも、次の矢をつがえてチャンスを窺っている。

 僅かに勢いを弱めた魔獣にモートスが横から大盾を叩きつけた。それでまた僅かに勢いが落ちる。そこへ次々に騎士達が盾を叩きつけ取り囲んでいく。

「尾に気をつけろっ」

 シュテムが怒鳴りながら、ワニの頭に斬りかかる。異常な硬度の鱗は薙刀を弾き返した。

 兵士達も城壁から下りてゾロゾロと向かっていく。ハンター達も参加しなければ損とばかりに続く。味方に当てないよう注意して矢を放ち、槍で脚を刺し続ける。殆どダメージを与えられないが、いずれ意味を持つと信じて執拗に繰り返す。魔術を使えるハンターは魔獣の目を狙って炎を投げた。

 ルナクスは城壁の上から無表情に見守っている。散っていた雑魚共を全て食い殺したギンが戻ってきて尻尾を振り、ルナクスはその返り血のついた頭を撫でた。

 泥沼を這うような戦いが続いた。大盾で巨体を押さえ込もうとする騎士達。取り囲んで攻撃し続ける兵士達。魔獣は勢いをつけるための助走距離が取れず、包囲を抜け出せずにいるが、刃を通さぬ頑丈な外皮に無尽蔵とも思える体力を持っていた。更なる問題は、虎の頭の矢で潰された片目がいつの間にか元通りに再生していることだ。ルナクスならほんの一撃で殺せたかも知れない。糸のついたナイフの一閃で、他の雑魚の魔獣と同様に。だがビギナーである彼らにこの巨大な魔獣を仕留めることは可能なのか。

 彼らは諦めなかった。ワニの口内に隠されていた毒腺をシュテムが目ざとく見つけて破壊し、こちら側が毒を浴びて一気に崩壊する危険は回避された。セズマーも結局城壁を下りて近距離から残りの二矢を放ち、その後は直接虎の頭に飛びついて狂ったように奇声を発しながら大鉈を振るっていた。

 巨大な魔獣が息絶えたのは六時間後だった。虎の頭を落とし、ワニの両目を潰し、十七本の脚を一本ずつ破壊し、目が再生するとまた潰し、虎の頭の断面に槍を突き刺して抉りまくり、巨大な尾の横殴りの一撃で何人も吹き飛ばされ、再生した毒腺からの毒液を浴びて数人が体を溶かし、大きく開いたワニの口内に数多の槍を突き入れ、それでも暴れ続ける巨体を騎士達が何度も何度も、何度も何度も盾で殴り続け、最後はゼリー状になった肉の接合部から突き入れた槍が魔獣の心臓を破壊してトドメを刺した。

 誰もが力尽き、その場にへたり込んでいた。戦友の亡骸が隣に横たわっていても、掻き抱く余力もなくただ荒い呼吸を繰り返すだけだ。

 そのうち、返り血でベドベドになった『不死身のシュテム』が薙刀を杖代わりにして立ち上がり、「おい、勝ちどき上げろよ」と言った。

 それで騎士団長のモートスがヨロヨロと立ち上がり、仲間達に向かって「我らの勝ちであるっ」と叫んだ。

 皆が歓声を上げる様子を、ルナクスは静かに見守っていた。

 スタンピードは終了した。人々はそう解釈して、動ける兵士達は負傷者や戦友の亡骸を回収しようとしていた。その後は無数の魔獣の死体の回収が始まるだろう。

 だが、ルナクスが城壁から飛び下りてずっと森を見ているのに気づき、シュテムが尋ねた。

「どうした。まだ魔獣が残ってるのか」

「スタンピードとしては終了したが」

 ルナクスは違うことを言った。

「敵となり得る者は残っている」

 続いた言葉に、モートスの顔がみるみる険しくなっていった。

「魔人か。騎士は城門前、兵士は元の配置に戻れっ」

「戦う気はありません」

 声が聞こえた。落ち着いた声音で、大声ではないのに、数百メートル離れた森の何処かから人々の耳に届いていた。騎士達がなけなしの体力を振り絞って大盾を構える。

 木々を押し倒して出来たスタンピードの道。そのそばの茂みから一人の男が姿を現した。

 男は魔獣の毛皮で作った服を着ていた。腰から下げた剣も金属製ではなく魔獣の角を加工したもののようだ。そして男の頭からもねじくれた角が二本生えていた。

 男の左肩に、小さな猿の魔獣が乗っていた。昨日木の上からレッドフロントを見ていた個体だった。長い尾を男の左の角に巻きつけていた。

「ハルパーと申します。ビヨンドの住人です」

 男の顔はのっぺりとして凹凸に乏しく、皮膚は青白かった。目は白目の部分がなく、見えているところは全て黒々としていた。

 魔人とは、恩恵の影響が肉体に強く表れた結果、異形と化した者達のことだ。その子孫は普通の人間として生まれることが多いが、遺伝子まで変異していた場合は異形が継承されることもある。その容姿故に差別され、或いは自身を特別だと認識した魔人達が魔物領域内に作った小さな国が『魔人国』ビヨンドだった。異形の結果珍しい能力を持つ者も多く、魔物領域で暮らすため強者が多い。国としてのまとまりが悪いのもあり、積極的に他国に戦争を仕掛けることはないが、大陸東部の人々にとって魔人は嫌悪と畏怖の対象であった。

 ハルパーと名乗る魔人もおそらくは強者であろうが、強者のまとうような強い存在感はなく、それどころか気配というものが感じられなかった。肩に乗っている猿の方が生き物としての気配を備えていた。

 魔人は猿を指で軽く撫で、後方を指差した。猿は小さな声で鳴いてから角に絡んだ尾を解き、森の方へ駆け去っていった。魔人だけが両手を上げたままこちらに歩いてくる。言葉通り戦意がないことを示すためだろう。かといって警戒を解く訳にもいかず、兜の脱げた騎士達は嫌そうな顔をしていた。

 ハルパーが数十メートルの距離まで近づいた時、シュテムが言った。

「ビヨンドにゃたまに俺も出入りしてるが、まさか戦争起こすつもりはないよな」

「うちの王にそんな気はないと思いますよ。多分、ですけど」

 ハルパーはのっぺりした青白い顔に微笑を浮かべる。

「スタンピードをこのレッドフロントに差し向けたのはお前か」

 問うモートスの声は冷静だったが、目は殺意に燃え狂っていた。

「スタンピードが起きたのは自然現象ですが、行く先を誘導したのは僕ですね。うちの村が被害に遭いそうだったんで、長にどうにかしろって言われまして。グランシルドの人達ならうまく処理してくれるんじゃないかと思ったんです」

 魔物領域で生じるスタンピードの原因は主に二つある。一つは、狭いエリアに魔獣が密集し過ぎた場合。餌の不足のためか、敵に囲まれているストレスのためか、とにかく彼らは生存の危機を感じて新天地を求めるために脚力が向上し、攻撃性が増すのだ。

 もう一つの原因は、群を抜く強力な魔獣の出現だ。自分達が餌になることを本能で悟った魔獣達は、やはり生存のため新天地を求めて全力で逃げ走る。

 今回は最後に巨大な合成魔獣が出てきたとはいえ、原因としては前者であろう。真に強力な魔獣は、千人の戦士を十分で殺すことも出来る。

「ふうん。別に、謝るために出てきた訳じゃねえんだろ」

 シュテムが言う。

「それはそうです。これは単に生きるための工夫ですから。逆にグランシルドの人達が工夫してスタンピードをビヨンドに差し向けたら、うまくやったなあって僕は感心するでしょうね」

 ハルパーは本気でそう思っているような口ぶりだった。

「あなた方のことはまあどうでもいいんですよ。僕が興味があるのは『セントラル山の狩人』なんです。僕と勝負してもらえませんか」

 真っ黒な目がルナクスを見据えていた。

「殺し合いということか」

 ルナクスがすぐに確認する。

「ええ。殺し合いです。僕は村では便利に使われてるんですけど、自分でもかなり強い方だと思ってるんです。だから腕試しをしたいんです。この大陸の伝説に勝って、自分の価値を証明したいんです」

「スタンピードは終了した。俺の仕事は終わったということでいいな」

 ルナクスは目だけを動かして横のモートスに言った。

「ああ、それは、そうなるが……こいつは我々が……」

 倒したい、と続く筈であったのだろうが、ルナクスの冷徹な言葉がそれを遮った。

「俺を殺そうとした者は殺すことにしている」

「……分かった」

 モートスは渋い顔で重々しく頷いた。

「見物してていいかい。いいよな」

 『不死身のシュテム』がニヤニヤして尋ね、ハルパーが答えた。

「いいですよ。ただ、怪我しても責任は持てませんけど」

「いいさ」

 シュテムは五歩下がっただけで、その場に胡坐をかいた。モートスもシュテムのところまで下がるが、座りはしなかった。他の騎士達はそれよりも少しだけ距離を取り、ルナクスと魔人の勝負をちゃんと見るために散開した。

「……おい」

 地面から弱々しい声がした。

「俺を、起こせ。俺にも、見せてくれ」

 一級ハンターのセズマーだった。血みどろのボロ雑巾のようになって魔獣の死体の間に転がっていたので、皆気づかなかったらしい。慌てて騎士の一人が駆け寄って助け起こすことになった。

 ルナクスとハルパーは少しずつ歩み寄り、十メートルほどの距離で立ち止まった。

 ルナクスは弓を肩掛けに戻し、鉈を握る右腕を自然に垂らしている。

 ハルパーはグネグネと曲がった剣を抜いた。魔獣の角を加工したそれは一見鋭利さに欠けるが、おそらく人の胴体くらいあっさり輪切りに出来るだろう。

 互いに殺気はなく、緊張感もなく、ルナクスは無表情で、ハルパーは薄い笑みを湛えていた。

「では、始めていいですか」

 ハルパーの尋ねる声はむしろ優しかった。

「構わ……」

 ルナクスが言い終える前に、瞬間的に何かが爆発した。ハルパーが口を尖らせ、人々は激痛に襲われ反射的に耳を塞ぐ。目を開けたままでいられたのはほんの数人だけだった。

 超音波。ハルパーが魔獣達を誘導したのもその力を使ってのことだった。周波数をうまく調節すれば魔獣を鎮静化させることも狂暴にすることも出来た。出力を全開にすれば相手の鼓膜を破壊し、少しの間混乱状態にすることも出来るのだ。その隙に首を刈り、急所を貫く。幾多の魔獣や自国の強者を葬ってきたハルパーの特技だった。

「……ん」

 ルナクスが淀みなく言い終えた時、ハルパーの首が飛んでいた。

 宙を回転しながら、ハルパーの頭部は目を見開いて何が起こったのか確かめようとする。耳や鼻から血を流す者も多い中で、ハルパーの胴の横に立つルナクスは無傷だった。右手に鉈を持ち、ハルパーに意識が、まだ攻撃する余力が残っているか探るように冷たい瞳が観察していた。

 飛ばされた頭部が地面に落ち、ハルパーは特技を使ってなんとか小さな声を発した。

「お見事……」

 ハルパーは微笑を浮かべたまま目を閉じて、動かなくなった。

 魔物領域の森から小さな猿の魔獣が駆けてくる。キーキーと悲しげに鳴きながらハルパーの生首を抱えると、森へと駆け戻っていく。

 男達は、黙ってそれを見守っていた。


(第九話 完)

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