第3話 狂園者


『隣の芝生は青い』

 先人たちが残した言葉は、今も語り継がれている。


 「おはよう。今日も忙しそうね」

 隣人の香川百合は、手を上げ高級車で仕事へ向かった。

 「忙しいからってなんなの。挨拶もできない人間が、人の上に立つ資格なんてない。同じ経営者として恥ずかしいわ」

 店前の花たちの手入れをしながら毒づいた。愛情をかけた分だけ綺麗な商品が出来上がる。人間なんかより、よっぽど素直だ。

 花屋は最高の職業だと思っている。

 「おい。飯」

 聞こえないふりをした。私には『稲垣英子』という名前がある。

 「おい!飯」

 旦那の『ケン』は、蝿のようにうるさい。

 葉の中で干からびた死骸を想像し、私はレジ横に『ハエトリソウ』を置く決意をした。

 一直線にキッチンへ向かい、朝ご飯の支度に取りかかる。もちろん洗面所に寄り道などせずに。

 『ジャリ……』

 「おい、手洗ったのか?」

 奥歯に砂利が引っかかったのだろう。

 「そのふりかけ、高いから具材が大きいのよ」

 「そんな訳ないだろ。土の味がするんだぞ!」

 さすがに土の味は分かるのね。

 小言は我慢しよう。とりあえず満腹にさせれば喚かず働くのだから。

 

 私の茶碗に白米を盛る前、やっと手を洗った。湯気と一緒に口へ運ぼうとした時、インターフォンが鳴った。

 『ピンポーン』

 「はーい。あら、百合さん。今、開けるわね」

 先程の毒が蘇る。

 「開店前でお忙しい時にごめんなさい。英子さんに駅前のパンを召し上がってほしくて、持ってきちゃいました」

 「え!あの『スタック』のクロワッサンなの?」

 茶色い紙袋から香ばしい匂いが漂っている。

 「お世話になってる社長さんのお知り合いで、特別に焼いてもらったんです」

 「そんな、申し訳ないわよ。百合さんの為に作ってくださったのに」

 「気になさらないでください。お願いすれば、いつでも食べられますから」

 受け取った紙袋は、石でも入っているかのように重たかったが、『いつでも』の特別アピールの方が気になった。

 彩る花たちを汚す黒い物体が一匹増えた。

「まだ開店時間まで一時間程あるし、今から一緒に頂くのはどうかしら?」

「あ、ごめんなさい。これから打ち合わなので、社に戻らないといけないんです。確か、旦那様もお好きでしたよね?ぜひ一緒に召し上がってください」

 「あの人、ご飯派なのよ。白米にふりかけが好物なの」

 知りもしないクセに適当な発言しやがって。それに味覚音痴なやつに食べさせるのは勿体無い。

 「それから、お願いがありまして……。パンの感想を教えて頂きたいんです」

 手足を擦り合わせるような仕草がまさに蝿だ。

 こいつのあだ名は『蝿女』

 私は密かにそう呼ぶ事にした。

「タダで頂くんですもの。それくらいお安い御用よ。携帯の方に連絡するわね」

 目が無くなる程の笑顔を見せた。

 私に食べさせたかった訳ではなく、目的は他にあったのだ。

 蝿叩きを想像をし、震える拳をギュっと丸めた。手のひらに爪が食い込み、そこだけ変色した。


 (百合の心の声)ーーーーー

 『打ち合わせなどない。あの【花咲かばあさん】は昔話と同じだ。花を咲かせているのはお前の力ではない。私が知らないとでも思っているのか。献身的なあの人が可哀想だ……。

 花咲かばあさんが飼い慣らしてるものを奪ってやる。

 それさえ手に入れば私は完璧になるのだ。

 「あの人はご飯派なのよ」だって。違います。

 ケンさんはパン派です。

 絶対に、私と一緒にいた方が幸せよ』

 ーーーーー


 「おい、それ駅前のクロワッサンじゃないか」

 「何?もうご飯食べたでしょ。そんな事言ってないで、早く開店準備してきなさいよ」

 「一つ食べさせろ」

 「あなた、パン嫌いよね?」

 「嫌いなんて言ったことない。お前が勝手にそう思ってるだけだろ」

 いや、白米が好きだと豪語していたじゃないか。

 それに最近やたら口答えをするようになった。食べたいものまでリクエストしやがって。毎日同じものを黙って食べてればいいんだ。

「躾け直しが必要ね」

 齧りながら独り言を発したが、香ばしさではなく苦味が口いっぱいに広がり、奥歯に砂利が挟まったように感じた。

 「さてと、そろそろ時間だわ」

 綺麗に育った花たちを思い浮かべ、軽い腰を上げた。それと同時に紙袋のシミが目についた。

 「バターの油かしら。お皿に移した方がよさそうね」

 

 『ガサ、ガサ、ゴツン……』

 

 想定外の手触りを感じ、手汗が油のようにベタついた。

 「何これ。百合さんの忘れ物かしら」

 社名らしき字が印刷されたコンパクト型の異物が奥底に入れられていた。

 「難しい漢字ねぇ。……きょう、えん、社?」

 剥げている場所があるが、元々はピンク色だったのだろう。

 「こんな物、食べ物と一緒に入れるなんてどんな神経してるのかしら」

 油まみれの紙袋に戻そうとした。

 

 『ピコン』

 

 『ピコン、ピコン』

 

「……まだ光るの?」

 開けろと訴えているように感じ、力を込めたがヌルッとして手こずった。


ようやく開いたコンパクトの鏡には、皺の増えた私が映るはずだ。

 しかし、ゴミ屋敷の中でカサカサと音を立て、二匹の蝿が一つのパンを貪る映像が流れた。

 口の中に土の味が広がり、吐き気を抑えきれなかった。

 「どういう事?」

 

 『ケンさんをは、パンが好きなの』

 

 『ケンさんを頂くわね』

 

 えずきが止まらず食道が熱を持ち、花びらが散ったようにその場にぶちまけてしまった。


 ーーーーー

 「お部屋のお掃除お願いね。帰ってきたら、今日も好物のパンを一緒に食べましょうね」

 今日のケンさんの表情は曇っている。

 『ご機嫌取りが必要ね……』

 美貌、仕事、お金、名誉。唯一の欠点はゴミ屋敷。でもこれで完璧になったの。だから絶対に手放すわけにはいかない。

 ーーーーー


 『ピンポーン』

 

 「あら、百合さん。どうかしたの?」

 「あの、ふりかけを分けてほしくて」

 「あぁ、やっぱり白米を食べたがるでしょ。私の躾が悪くてごめんなさいね」

 「謝らないでください。一緒に躾けていきましょうよ」

 「そうね。二人の大切なケンさんだもの」

 

 ……先人たちの残した言葉は狂った女たちによって歪められた。

 

 『隣の芝生も青い』


 ……ケンさんは『犬』と書いてケンさん。

 お揃いのハエトリソウも瑞々しく、掘れば掘るほど庭は青々とする。

 

 『ココ掘れワンワン……』

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