第5話 壁の向こう

 少しずつ会社での空気が変わってきた。

 飲み会では笑いを取れるようになり、会議でも軽口で場を和ませることが増えた。

 「岸、最近いい感じだな」

 上司のそんな言葉に、心の奥で小さな達成感を覚えていた。


 ――けれど、壁はすぐに現れた。



結婚の話題


 「なあ岸、お前もそろそろ結婚考えた方がいいんじゃないか?」

 昼休み、先輩が当然のように言う。


 「今度の取引先の人なんて、もう二人目だぞ。お前も親に心配されてんじゃないのか?」


 笑い混じりに交わされる“普通”の会話。

 岸は笑顔を作ったまま、箸を持つ手に力が入った。


 「まあ、縁があれば……」


 それ以上、何も言えなかった。

 心臓がぎゅっと締め付けられる。

 この場では、絶対に本当の自分を明かせない。



夜の逃げ場


 その夜、無言のまま電車に揺られ、結局、足はいつもの路地に向かっていた。

 小さなネオンが灯るドアを開けると、聞き慣れた声が迎えてくれる。


 「いらっしゃい、岸ちゃん。顔が曇ってるわね」

 エンママの一言に、岸の目の奥が熱くなる。


 「また会社で何かあった?」

 隣に座ったタンタンが、冗談めかして肩を叩く。


 「……うん。やっぱりさ、結婚とか、彼女とか。そういう話になると、どうしても詰まる」

 声が震える。グラスの中の氷が、代わりに答えるように揺れた。



居場所


 「岸。社会はすぐには変わらないわ」

 エンママが静かに言う。

 「でも、ここにいるときくらい、自分を嫌いにならなくていいのよ」


 その言葉に、肩の力が少し抜けた。

 会社では孤独でも、この場所には自分を知ってくれる人がいる。

 笑ってくれる人がいる。


 ――やっぱり、俺の居場所はここなんだ。

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