第7話
「お帰り、お姉ちゃん。今日もお仕事、お疲れ様」
「ただいま、タリス。あーあ、全く、あの研究所のヤツらときたら、本当、人使いが荒いんだからなぁ」
一日の仕事を終えて帰ってくると、妹のタリスがこうして私を出迎えてくれる。
ついこの間まで、私が一緒にいないとなにもできない、それこそ寝ることさえできないほど私に依存していたタリスだったけど、成長するに従い、少しずつ自分の世界を脳裏に描くようになってきたのだろう。
やがて、私が仕事に出ている間、家の面倒を見ることができるまでにしっかり者になり、たまに大人びた言動まで見せるようになってきた。
「それだけ、みんなお姉ちゃんを信頼しているってことだよ。もちろん、妹の私が一番だけどね」
「全く、いつの間にそんなことが言えるようになったんだ? とりあえず、荷物を片付けて、お風呂に入ってから、ご飯にするか」
屈託のない、心からの笑顔を浮かべるタリスを見ながら、私はそんな妹を誇らしく思うと同時に、タリスの心から自分が消えていく、という寂しさも感じていた。
「……さて、荷物を置いて、お風呂に入らないと……。んっ……?」
部屋に戻った私は、ふと隅に置いてある一本のフルアコースティックギターが入っているケースに視線を止めた。
この世界において、私のような金髪を持った人間は滅多に生まれることはない。そのため、研究所にとって、私は格好の実験材料だった。
研究所での仕事は、確かに楽ではなかった。連日のように意味不明な薬を注射されたり、訳の分からない機械で全身を検査されたりしている。
そんな私にとって、唯一の心の支えともいえたのが、このギターだった。
以前は毎日のように弾いていたそのギター。だけど、今はもう、私のパートナーではなくなっていた。
「……久しぶりに……、いや、今さら、か……」
私はギターに伸ばしかけた手を止めて、そのまま静かに引いた。そして、荷物を片付けながら、小さくため息をつきつつ、お風呂場へと向かっていった。
私は、一日の大半を研究所で過ごしている。
大事な実験がある時は、一週間以上研究所で昼夜を明かすこともザラにあった。その時はタリスに家のことを任せているのだけど、さすがに心配になることもあった。
そんな実験台としての日々から、束の間とはいえ解放されるのは、私にとって貴重な癒しの機会でもあった。
「ただいま。……んっ? なんだ、この音は……?」
この日、夜もかなり遅い時間になった頃、私が家に帰ってくると、タリスの部屋からある楽器の音色が聴こえてきた。
「……これは、フルート……? タリスが吹いているのか……?」
状況から考えて、この音の主は妹のタリス以外には考えられなかった。以前、私と一緒に音楽の勉強がしたい、と言っていたことがあったが、ついにそれを始めたというのだろうか。
まだ覚えたてなのだろう、息遣いがぎこちなく、そして音程も全く安定していない。しかし、そこには確かにタリスという人間が吹いているのだという、ある種の安心感を抱かせるものがあった。
「それに、この曲は……。随分と昔の曲だったような……?」
さらに、今タリスが吹いている曲も、かなり昔に作られた曲だと、私も聞き及んでいた。
この世界が「フロゥト」と「レデン」に分かれるよりも、はるか悠久の昔。とある国の民謡として作られ、長く語り継がれてきた曲であるらしい。
「……私が最初に覚えた曲を、まさか、あいつも練習していたなんてな……」
この世界は、とかく争いが絶えない。世界が今のようになる以前でさえも、人々は互いに争い続けてきた。
それが人間の本性だ、と言われてしまえばその通りかも知れなかった。けれど、憎み争うばかりが人間ではない、ということを私は知っている。
今タリスが吹いているこの曲も、元々はそうした争いが世界からなくなり、人々が平和に暮らすことを願って作られた、いわゆる「反戦歌」の側面も持っている。
「……あいつがこの曲を選んだのは、多分私が以前よく弾いていたから、だけじゃないんだろうな……。あいつなりに、この世界の未来を、心配しているんだろう……」
世界が今の形になるきっかけとなった『第一次ヒト・フラァ戦争』。今はフロゥトもレデンも、表向きは一定の距離を取りながら、それぞれ世界の秩序を維持しようと努めている。
しかし、この均衡が、いつ破られるか分からない。今の私にできることといえば、せめて妹のタリスのために、研究所で実験台として働き、十分なお金を残してあげることだった。
「……そうか、あいつも、自分の夢を、追いかけ始めたということか……」
タリスが少しずつ自分から離れ、自立への道を模索し始めている。真剣に音楽に向き合う妹のフルート演奏を聴きながら、私はかつてギターに夢中になっていた自分の姿を思い出していた。
「私も、もう一度、やれるのかな……?」
今はまだ、この扉を開けることはできない。だけど、私の中で、あの頃の想いが、もう一度弦を鳴らしたい、という思いが芽生え始めていた。
部屋に戻った私は、荷物を片付け、そのままお風呂に入っていった。
タリスの部屋の前を通るたびに、吹き慣れないフルートの音色が、私の耳に柔らかく届いていく。
タリスは、今どんな気持ちで、フルートの練習に励んでいるのだろう。楽器こそ違うけれど、私がかつて目指していた音楽の道を、妹も志そうとしている。
やがて、お風呂から上がり、部屋に戻ってきた私の目に、あのギターが入ったケースが目に留まった。
「……久しぶりにやってみるか……。妹の前で、カッコいい姉を見せよう、ってわけじゃないけどな……」
私は、妹に触発されたかのように、ギターケースを開けた。中には、あの時と全く変わらない、大好きなフルアコースティックギターがそのまま入っている。
「……うん、まだちゃんと使えそうだな。さて、と……」
私は指で弦を軽く弾き、それぞれの弦がきちんと音を鳴らすことを確かめた。乾いた生音が、私に生きているという潤いを実感させてくれる。
久しぶりに使うということもあり、チューニングは念入りに行う必要があった。ペグを何度も回し、そのたびに弦を弾きながら、最適な音階を導き出していく。
隣の部屋からは、タリスのものと思われるフルートの音色が、今もずっと壁越しに聴こえてきている。まるで、私を励まそうとする、妹の思いが込められているかのように。
「……よし、こんなものでいいかな。さて、果たして上手くいくか……」
チューニングを終えた私は、ギターをアンプにつなぎ、久しぶりの構えを取った。小さく息を吐き、感触を確かめるようにしながらいくつかの和音を鳴らしていく。
「……んっ? なんだ……?」
すると、タリスの部屋から聴こえてきていた、フルートの音色が突如として止んだ。タリスの身になにか良くないことが起こったのか。つられて演奏を止める私だったが、その沈黙は文字通りほんの一瞬だった。
タリスの部屋から、再びフルートの音色が聴こえ始めた。ぎこちないのは相変わらずだったけれど、それは確かに力強く、明らかに私に届いてほしいという願いを感じることができるものだった。
「……フフッ、なるほどな。あいつも、考えるようになったってことか……」
私は、そのフルートの音色に合わせて、ギターの弦を弾き、伴奏をしていった。離れて随分久しいとはいえ、一連のコードは身体にしっかりと刻み込まれていたようだった。
タリスの演奏は、初心者ならではのぎこちなさがあり、合わせようとするたびにずれていく。しかし、それでもタリスが一生懸命合わせようとしてくれているのは、私にもはっきりと分かった。
「よし、このまま即興演奏といくか。タリス、付いてこいよ」
私は、音楽の先輩として、タリスがきちんと最後まで演奏することができるよう、丁寧に伴奏を続けていった。気が付けば、私は時間が過ぎるのも忘れ、流れるように響き渡る旋律に、その身を躍らせていた。
「……向こうの音が止まったか……。さすがに、これ以上はもう限界か……」
だが、そんな夢心地の時間は、あっという間に終わりを迎えた。フルートの最後の音が伸びながら静かに消えると、私もギターの弦を弾く指の動きを止めた。
ギターの音色の余韻が小さく残る中、私は呼吸を整え、タリスの部屋に行こうとした。しかし、それよりも一歩早く、タリスの方が動き出していたようだった。
「……あっ、お姉ちゃん。やっぱり、お姉ちゃんだったんだ」
「やっぱりってなんだよ、やっぱりって。それより、タリス。いつからフルートの練習を始めたんだ?」
私の部屋のドアが開くと共に、タリスが少し照れ臭そうにしながら入ってきた。その手に握られているのは、紛れもない一本のフルートだった。
「えっ? えっと……、お姉ちゃんが、昔ギターをやっていたから、私も一緒にって思って……。お姉ちゃんが仕事に行っている間に、コッソリ練習していたの……」
「そうか。……で、どうだった? 姉妹初めてのデュオをやった感想は?」
「うん、とっても気持ちよかった。お姉ちゃんのギター、とってもカッコよくて。やっぱり、お姉ちゃんってスゴイんだなって」
そう話すタリスの瞳には、姉である私への、掛け値のない尊敬の念が込められていた。
「ありがとうな。だけど、タリスのフルートも、なかなかに良かったと思うよ。将来は、きっと立派なフルート奏者になれるだろうな」
「えっ? も、もう、お姉ちゃん、そんなにおだてないでよ……」
私がタリスを称賛する言葉を返すと、タリスは途端に頬が紅潮していった。今のタリスの心境は、嬉しさと恥ずかしさが、ほぼ同じ比率で共存している、といったところだろう。
「なぁ、タリス。明日は仕事がお休みなんだ。それで、昔を思い出しながら、このギターのメンテナンスをしに行こうと思って。よかったら、タリスも一緒に来るか?」
「えっ? で、でも……」
「せっかくの機会だ。練習用の楽譜もたくさん買っていくといい。なぁに、お金のことは心配するな」
「う、うん。あ、ありがとう、お姉ちゃん……」
照れ臭そうにしながら明後日の方角を向くタリス。私は妹と一緒に、かつての夢をもう一度追いかけてみたいと、自分の心に湧き立つ熱情を感じ取っていた。
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