(第2章) 消えた刀身
東京から故郷の「灘五郷」に帰ってきた新聞記者・在田正儀は、手紙の主である旧友の長峰響太郎に会うべく、御影郷の蔵元・長峰董兵衛の屋敷を目指し、六甲の山裾へと続く緩やかな坂道を上っていた。
一応、阪神・御影駅の駅長室で電話を借りて、前に響太郎から聞いていた番号に掛けてはみたのだが、呼出し音さえ鳴らなかった。何もかもが今度の戦争で、すっかり変わってしまっていたのだ。
山裾といっても、六甲への入山口にも届かない。閑静な住宅街の最も奥まった所にある約二千坪の敷地に、主屋、迎賓館、使用人らの集合住宅、土蔵とが、見事に一体感をもって配置され、それら建物に住む人・訪れる人を癒すが如く、主庭、前庭、裏庭、中庭が、美しくも合理的に配置された、差し詰め小振りの「京都御苑」を思わせる日本建築の豪邸だった。
しかし、空襲による被弾の跡と、焼夷弾が原因の火災による焼け焦げや煤汚れが、至る所に戦争の傷跡として残っていた。大きな破損や穴の跡を丁寧に修繕してあるのが分かるだけに、その無残さが尚更に呼び起こされる。
「電話が繋がらなかったもんで……、勝手に来てしまいました。響太郎君はご在宅でしょうか?」
在田は、手持ちの名刺を差し出して、面会を申し込んだ。
戦時中は学徒動員に駆り出され、戦後は、家業の酒蔵の再建を手伝っているという。だが、顔色には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「響太郎君からこんな手紙、貰ったんですが……」
「それ、私が投函したんです。兄に託されていたので……。兄は、その手紙を私に託した数日後、急に姿を消しました」
響子の言葉に、在田は眉を曇らせた。
「最後に会ったのは、いつでしたか?」
「姿を消す前日だったと思いますが、夜更けに戻ってきて、何か古い巻物を見ていました。翌朝、ダンパの話を残して、そのまま消えたんです。だから私、不安になって……、直ぐにその手紙を在田さんへ送ったんです」
「ダンパ」――その名が、既に兄弟の話題にまで持ち上がっている。在田は返す言葉もなく、唇を噛んだ。
「それで、その巻物は今、どこにあるんでしょうか。……君の手元にあるの?」
矢継ぎ早に在田が訊ねる。しかし、響子は首を横に振るばかりだ。
「誰かの手に渡ってなければ、兄が持ったままでしょうが……」
長い沈黙が、二人の間を覆う。
――ふと、どこか遠くの方で犬の吠える声がした。戦後の夜は、そんな何でもない音の一つ一つが、人の心に重く
「在田さん……、兄を捜してください。あの人は、ダンパのせいで命を落とすかも知れません……」
響子の声は震えていたが、瞳は必死に何かを訴えようとしていた。
在田は深く頷いた。かつての友のため、そして、権力によって封じ込められた過去の記事の虚実を確かめるためにも、在田は「灘の闇」に足を踏み入れる決意を固めた。
その夜遅く、響子が在田のために用意した奥座敷の寝床を、彼は誰にも告げず抜け出した。
焼け残った旧街道沿いの道を独り歩きながら、かつて新聞協会の圧力で揉み消された、自分の記事の断片を思い返していた。
「ダンパ」は、単なる小太刀ではなく、その
軍部が必死に秘匿した理由もまた、その符号にあったのではないか? そして、今度は長峰響太郎が、それを探ろうとして姿を消した。だったら「ダンパ」はまだ、この「灘五郷」のどこかに眠っているに違いない。 ――在田は、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
「ダンパの正体を暴くまで、俺は神戸にも東京にも、絶対帰らへん」
夜風が海から吹き上げ、焦げ跡と潮の匂いを絡めた一陣の風となって、今の在田を激しく揺すった。
遠くの闇市では今も、人と人との喧騒が絶え間なく続いている。そんな戦後の灘五郷という「謎の闇」の只中に居合わせた在田は、行方知れずの旧友・長峰響太郎に代わって、「ダンパ」の影を追う事になった――。
翌日の昼過ぎ、在田は響太郎の妹・響子の案内で、御影郷の盟主・長峰酒造の酒蔵を訪れた。
長峰酒造は「御影郷」を代表する蔵元だった。室町時代の中期にその端を発し、今では灘五郷の中で最も歴史ある酒造りの名家である。
初代・
その際、満祐の愛刀「
(だから長峰酒造には「
――と、ここで在田が目を細くして頷く。
長峰酒造の酒蔵は、昭和二十年五月十一日の二度目の神戸大空襲で大屋根を失っていたため、黒焦げの梁が剥き出しになっていた。それでも、石造りの基礎部分と分厚い土壁は辛うじて形をとどめており、かつての繁栄の残滓を、荒野めく瓦礫の風に晒していた。
酒蔵の外には発酵の残り香と焦げた木材の臭気が未だに漂い、在田は思わず鼻を抓んだが、響子は迷うことなくその暗がりへと、足を踏み入れていく。
「兄は、この蔵で巻物以外にも、何かを見つけたようでした」
響子は足を止め、蔵の奥を指さした。そこには、割れ落ちた甕や樽が無惨に積み重なり、埃が白く覆い被さっている。
在田は、無言でそこへ近づき、足元の瓦礫を除けながら、壊れた甕や樽の残骸を手で一つずつ押し退けた。乾いた木の軋みが耳に響き、積み重なった時間そのものを剥がす感触が手に残った。
在田の我を忘れた熱心な探索によって、やがて酒蔵の片隅に隠すように置かれた、幅三尺余りの漆塗りの木箱が姿を現した。金箔と鋼鉄で縁取られた、見るからに頑丈そうな、かなりの年代物の木箱だ。煤に塗れてはいるが、余程大切な物が納められていたに違いない。それに、寸法から判断しても、丁度あの小太刀を収めるのに相応しい長さでもあった。だが、木箱の鍵は、既に誰かが壊していた。
在田は、響子に目配せをした後、慎重に蓋を持ち上げ、中を確かめた。響子の視線が、在田の肩越しに被さってくる。
木箱の中にあったのは、絹で巻かれていたらしい一振りの小太刀の「鞘」だった。絹には、赤松の家紋が織り込まれている。
確かに年代を感じさせる華麗な漆塗の鞘ではあるが、肝心の「刀身」が収まってはいなかったのだ。
唖然とした在田が、響子に訊ねた。
「これが……ダンパ、なんですか?」
響子はイヤイヤでもするように、首を繰り返し横に振った。
「兄は、こう言いました。鞘だけは残っているが、刃はどこかに隠された、と」
響子の言葉を聞いて、在田はその鞘を両手で取り出すと、顔を近づけ、舐めるように見回した。
残された鞘は、全体に塗られていた黒漆が所々剥げ落ち、細かな傷が幾重にも走っている。だが、鞘の先端の「鯉口」に近い部分に、幽かな印のようなものが刻まれている。
「これは……」
在田にはそれがどうしても、単なる傷や模様には見えなかった。よく見ればそこだけが、幾何学的な線と点の組み合わせによって、まるで暗号のように連なって見えるのだ。在田は、響子の顔をもう一度見た。
「……兄は、その模様を紙に写し取っていました」
そして響子は、震える声でこう言った。
「それから何度も、兄はその模様を調べ、何かを確かめようとしていました……。そしてその後、兄は姿を消したんです……」
在田は、深く息を吸い込んだ。その鞘に直接触れた今、在田にとって
ダンパは、只の小太刀ではなくなっていた。
刃に刻まれた何かを解き明かす事こそが、この物語の核心であることを、在田は既に直感していた。
(第2章 消えた刀身・了)
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