【完結】灰色の器
瀬戸川清華
前編
目を開けると、白い天井があった。窓からの光は弱々しく、世界はセピア色に霞んでいる。頭がぼんやりして鈍い痛みがある。なぜここにいるのかも、自分が誰なのかも、何一つ思い出せない。
ドアの外で誰かが泣いている声が聞こえる。けれど、不思議と胸は静かなままだ。
しばらくして、ベッドサイドにいた看護師が言う。
「ご家族が来てますよ」
廊下にいた若い女性、母親らしい人は僕を見て涙ぐんだ。
「……お願い、これ以上もう、誰もいじめないで」
なんのことか全然わからなかった。
退院して家に戻ると、妹の千紗という人が食卓で黙っている。父親は目を合わせようとしない。その違和感は、僕には無風だった。どれだけ話しかけても二人ともまともな返事をくれない。
翌日、部屋のドアに「死ね」と書かれた紙が貼られていた。誰が書いたのかも、なぜこんなことをされるのかも見当がつかない。
学校に行くと、教室の空気はどこかおかしかった。誰にもまともに話しかけてもらえない。ロッカーを開ければ中身の教科書が濡れていた。机の中はゴミだらけ。
昼休み、クラスメイトの美咲という人を見つけて声をかけた。
「ねえ、何があったの?」
彼女は恐怖に顔を引きつらせて後ずさりする。だが、自分にはそれに対する共感も怒りもなかった。ただ、美咲が床に落とした手紙だけがやけに目についた。
拾い上げてみる。
『昨日はごめんなさい。言い過ぎました』
それは僕が書いたものだった。けれど、文字を見てもまったく覚えがない。
数日後、体育館倉庫で俊樹という男子に殴りかかられた。
「お前のせいで、由乃が……!」
何のことかさっぱりわからない。抵抗しようとして手が相手の頬を殴っていた。俊樹は床に倒れ、涙をこらえながら叫んだ。
「お前がどんな顔して人間やってるのか見てると吐き気がする」
教師にも呼び出されたが、僕はなにも弁明できなかった。ただ、「本当に覚えていません」と繰り返すだけだった。
外に出ても、町の誰もが僕を見ると遠巻きにそっと消えていく。コンビニのレジの店員すら、硬い愛想笑いを浮かべるだけだった。
ある夜、居間で母親が泣き崩れていた。原因はわからなかった。朝、妹の千紗が僕の顔を見るなり駆け出していった。次の日、彼女の部屋のベッドの上に、僕の制服が裂かれたまま投げ捨ててあった。
どうして誰も僕を見てくれないんだろう。
どうして誰も、話しかけてくれないんだろう。
だけど、どれだけ考えても、一切思い出せない。恐怖も後悔も憎しみも、僕の心には何ひとつ響かなかった。
気がつけば、指には傷や汚れが増えていた。右手に浮かぶ茶色い染みは、いくら洗っても落ちなかった。
家族にも、友達にも、知らず知らずのうちに何かを繰り返し壊している。その事実だけを、誰もが徹底的に身をもって教えてくれる。けれど、それが「なに」であるか、僕の頭の中はすっぽりと抜け落ちているのだった。
最後には鏡の中の顔だけが、どこか濁った眼でこっちを見ていた。
「ほんとうに、なにも覚えてないんだね」
自分自身すら、もう知らない誰かのようだった。心も、過去も、すべて灰色の器の底に沈んでいた。
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