異世界用心棒 ~遠つ国日記~

村中 順

第1話 剣聖

慶長十七年四月十三日 船島 ―― 後の巌流島


「小次郎、破れたりっ!」


 宮本武蔵の怒声が海風を裂く。手にしたのような木刀が、空気を押し分けて小次郎に向けられた。


「何? 戦わずして何をほざくか。痴れ者め!」


 佐々木小次郎も即座に怒声を返し、鋭い眼光で射抜く。だが武蔵は微動だにせず、口の端を歪めた。


「勝つ者が、鞘を捨てるか。戻る鞘がないのは、すなわちお前が負けた証だ!」


 その言葉は、小次郎の胸を鋭く刺した。普段なら決して手放さぬ鞘。しかしこの日は違った。体調は最悪で、武蔵を待つ間、帯刀を解き、砂浜に正座していた。そのまま抜刀したせいで、鞘は足元に取り残されたのだ。


 額に脂汗がにじみ、全身が重く、腹が軋む。それでも剣聖の名をかけて挑まれた勝負を逃げるわけにはいかない。小次郎は決闘場所が船島と決まったときから、島を下見し、季節、風向き、地形、天候に至るまで細かく調査し頭に入れていた。そこまで用意周到に準備したのに、体調管理という最も基本的な事で躓いたのだ。


 今朝から胸の奥に詰まるような苦しさと、腹の底に重く沈む痛みがあった。皮膚の内側が熱を帯び、息を吸うたびに喉がかすかに擦れる。


 蕎麦を口にするとこうなる――それは自分も、弟子達も知っている。だからこそ常に食事には気を配ってきた。だが、今朝の膳に蕎麦などなかったはずだ。焼き魚も、漬物も、味噌汁も、見た目はいつも通り。にもかかわらず、この症状は、あの時と同じだ。


 原因は……思い当たらない。


「たわけ者。武士ならば刃で語れ。くだらぬ口は不要、尋常に勝負せよ!」

「ならば、行くぞ!」


 武蔵が木刀を大きく振り上げた瞬間、砂が爆ぜた。踏み込みと同時に海風が衣をはためかせ、一直線に小次郎へ迫る。


 小次郎は三尺の長太刀を片手で回し、身体をわずかに左へねじった。木刀の軌道を紙一重で外し、反転させた刃が風を裂いて武蔵へ返る。


「おっと。危ねぇ、燕返しか!」


 武蔵は地を蹴って三歩後退。着地と同時に構えを立て直す。


 一太刀で互いの間合い、重さ、速度を読み切った二人は、目だけで打ち合うような睨み合いに入った。


 波が岩を砕き、潮飛沫が頬を濡らす。すり足の砂を擦る音が、やけに大きく響く。

 刃と木刀が数度火花を散らすが、決め手はない――はずだった。

 小次郎の視界はにじみ、輪郭が揺れ、呼吸は乱れて足取りはわずかに揺れる。立っているのがやっとだった。時間は確実に、武蔵の味方だった。


「小次郎! もらった!」


 武蔵が吼える。地を蹴り、上体を捻りながら木刀を大きく振りかぶり、跳躍と同時に全体重を乗せて脳天を狙った。


 空気が一瞬押しつぶされた。


(ガツッ!)


 鈍い衝撃音が耳の奥で反響した。額を打たれ、鮮血が噴き出した。視界が暗転し、膝が砂に沈んだ。


“こんな形で……武蔵に……情けない……”


 潮の香りが遠ざかり、砂浜に横たわる自分の体が、まるで別の世界のもののようだった。武蔵に敗れた――その事実だけが、冷たい石のように胸に重くのしかかる。

 姉に誓った「守られた者の義務」は、この無様な敗北で遠い幻となったのだ。薄れゆく意識の中で、小次郎は姉の幻影に問いかける。―― この無様な姿を、あなたは笑うだろうか。

 返ってくる声はない。ただ、無限の闇と、止めようのない後悔だけが彼を包み込んでいった。


「……ふっ……ははは……」


 武蔵は低く笑い、糸が切れたように膝をついた。


「ははは……はぁ……」


 笑いはやがて、重い溜息に変わる。武蔵は這うようにして小次郎のそばへ近づき、その顔を見下ろした。


「見目麗しき顔も、これでは台無しよな……」


 額は潰れ、左目は飛び出している。武蔵は不憫に思い、そっと眼窩に押し戻し、瞼を閉じさせた。右手から長刀を外し、天に掲げる。


備前長船長光びぜんおさふねながみつ……俺の木刀を受けても刃こぼれ一つない。やはりお前は、剣に愛された天才だ」


 武蔵は立ち上がり、ふらつきながら鞘の方へ歩いた。


 鞘を手に取ると、重みと長さが手に伝わる。傍らには風呂敷。中にはきちんと畳まれた羽織。『隅立四つ目結紋』――佐々木家の証。


 早くから島に来て、羽織を畳む小次郎の姿が脳裏に浮かぶ。


「……具合が悪かったのだろう。几帳面も、ここまで来ると馬鹿がつくな」


 武蔵は苦く笑い、長光を鞘に収め、羽織を手にした。骸の傍らに立ち、静かに告げる。


「悪いが、この世で剣聖は一人で十分だ……お前はあの世で剣聖になれ」


 長光を骸の上に置き、羽織を掛け、手を合わせる。潮風が武蔵の蓬髪を揺らす。


「じゃあな……あばよ」


 背を向け、砂を踏みしめて去って行った。


 ◇ ◇ ◇


 漆黒。目を開けても、閉じても、闇が全身を絡め取り、どこが天でどこが地かもわからない。湿った腐臭が鼻を刺し、冷たくべたつく感触が肌にまとわりつく。身体の一部が闇に溶けていくような錯覚に、心まで沈んでいく。


 その闇に、女の声が頭の奥に直接響いた。


「……備前長船長光びぜんおさふねながみつ、なるほど名刀じゃのう」


 かすかに、刀身を撫でる音がする。小次郎は目を開け、声の方向を探すが、闇は底知れず、何も映らない。視界は完全な絶望に沈んでいた。


「無駄じゃ。この暗がりでは、お主の目には何も映らん。もっとも、その左目はもう使い物にならんじゃろうが」


 足元は存在せず、手をかけるものもない。湿った感触が脚に絡みつき、鼻を突く死臭が漂う。呼吸するたびに背筋がざわつき、心の奥が凍りつく。動こうとするが、手が動かない。


「それも無駄じゃ。お主は死んでおる。ここは死者の世界、日ノ本でいう黄泉の国じゃ」


 武蔵との決闘を思い返す。恥と無念が胸を締め付ける。精進してきた剣の道が、この絶望の闇に沈んでいく感覚に、理性まで押し潰されそうになる。


「小次郎、お主、未練があるようじゃな。ここに来る生者は皆そうじゃが……」


(シュッ、シュッ)衣擦れの音。近づく足取り。暗闇の中で(グチャリ)と生々しい音が響く。左目が、指で押し込まれるように取り出される。痛みはないが、音と感触が恐怖を増幅する。

 さらにもう一度、(グチャ)と。今度の音は己の体からではない。湿った何かが触れる感覚と死臭だけが、絶望の闇を濃くする。


「妾の左目を貸してやろう。小次郎、日ノ本とは全く違う別の世界で、お主の剣が通用するか、試すがよい……」


 空洞の左目に、冷たくも不思議な温もりが押し込まれる。そして闇が裂け、微かな光が灯った。それは愛刀長光の刀身であった。しかし光は恐怖の中で不安定に揺れ、視界のほとんどは暗黒のまま。息が詰まるような緊張と孤独感が、身体の芯まで浸透する。その極めて僅かな光に照らされて影が見えた。


「妾を見てはならぬ……」


 声が消え、闇が再び全てを呑み込む。小次郎は、意識を暗黒に奪われ、手も足も、方向感覚も奪われたまま、絶望だけが全身を覆う。

意識までもが腐って消えていく。


 ◇ ◇ ◇


 微かに香る花の匂い。柔らかな布の感触が小次郎の体に伝わる。そして誰かの手がそっと頬に触れたのを感じた。


 小次郎は、ゆっくりと意識を取り戻す。頭の痛みは残るものの、身体の奥に暖かさが広がる。目を開けると、銀がかった薄金色の髪を低いポニーテールに束ねた少女が、小次郎を覗き込んでいた。


「ここは、何処だ?」


 少女は目を丸くし、首を少し傾げながら何か言葉を発したが、小次郎には意味がわからず、異国の方言のように聞こえた。会話が成立しない気まずさから、少女は逃れるように、しかし弾むような足取りで扉の方へ駆けていった。小次郎の前から姿が消え、部屋には静寂が戻った。


 小次郎は視線を左右に、そして上下に巡らす。まず、窓辺の一輪挿しの花に目が止まる。どういうわけか花は柔らかな緑の光を帯びて、かすかに揺れる光彩を放っていた。次に、視線を片隅に移すと、立てかけられた愛刀、長光が深い紫色の光を放っているのが見えた。


 目をゆっくり動かして部屋全体を確認すると、木の柱や天井の構造、窓の形が日ノ本とは異なり、どこか長崎の南蛮寺を思わせる。視線を床や壁に沿って巡らすと、遠近感が微妙に歪んでいることに気づく。頭と目に違和感を覚えて触ってみると、包帯で覆われていることに初めて気づいた。


 そのとき、脳裏に船島での決闘が蘇る。武蔵の木刀を避けられず、あの海風に裂かれた瞬間――死んだはずの自分。案山子のように突っ立ち、武蔵の木刀に打たれるだけの自分に嫌気が差した。果たし合いは数十回、負け知らずだったが、今思えば慢心が入り混じっていた。剣聖と称えられ、己もその気になった過去。小次郎は、後悔と恥ずかしさで胸を焦がした。


(トン、トン)


 小次郎が後悔に身を焦がしていると、誰かが扉を叩き、声を掛けてきた。何を言っているのかは分からない。


 小次郎は返答に困り、黙り込む。するとしびれを切らした様子で、ノックの主が扉を開けた。そこには、頭上で団子にまとめた赤い髪の老婆が立っている。杖を突き、見慣れない服装に身を包んだ老婆は、小次郎をじっと見つめ、かすれた声で話しかけてきた。


「起きているなら、返事をおし。全く、最近の若い者は返事もできんのかね」


 今度は、小次郎にも理解できる言葉だった。戸惑った小次郎が、「ああ」と曖昧に答えると、老婆は杖をカツ、カツと床に響かせながら、小次郎に近づいてきた。


「どれ見せるのじゃ……ふーむ。一時は駄目かと思ったが、大丈夫じゃろう。傷は少し残るじゃろうが。よいポーションを使ったお陰かもしれんが、あんたの生命力も大したもんだ」


 老婆は包帯を解きながら、手際よく傷口を確かめていた。


「さて、意識はあるようだが、記憶はどうじゃ? 自分が何者か、覚えておるかえ?」


 記憶はと問われ、小次郎は思わず胸の奥が詰まった。あの勝負のことなど、綺麗さっぱり消えてしまっていたら――そう願わずにいられない。だが老婆は、そんな思いを知るよしもなく、答えを求めて真っ直ぐに顔を覗き込んでくる。


「拙者は、佐々木小次郎。まずは助けていただいたこと、礼を申し上げる。記憶に不具合は無いと思うが……ここがどこかは分からぬ」

「ほう。あんたは海岸で倒れていたところを孫娘が見つけて、ここに運んできたんじゃよ。名前もそうじゃが着ていたものからして、異国の人じゃな」


 異国……? 船島は瀬戸内の端。流れ着くとすれば朝鮮か明国だろう。だが、どうも違う。もっと南まで流されたのか。


「拙者は日ノ本の豊前国の者だが、ここは朝鮮か、それとも明国か?」


「ヒノモト? ミン? 知らん名じゃな。ここはフリージア王国の西の端、ムートン州アロン村。儂は村の治癒師、エスタ・サナティ。さて……頭は問題なさそうじゃが、左目はどうかの」


 小次郎は「フリージア」という響きに耳を疑ったが、問い返す暇もなく、エスタは構わず左目の包帯を解き始めた。言葉を飲み込んだ小次郎は、まるで借りてきた猫のように神妙な態度で従うしかなかった。


 包帯が解け、瞼を開くと――世界が一気に明るくなった。それもただの明るさではない。エスタの周りには緑の光が瞬き、窓辺の花は柔らかな緑の光を帯び、部屋にあるあらゆるものが眩い光を纏っていた。隅に立てかけられた愛刀だけが、深い紫色の光を放っている。


「こら、キョロキョロするでない」


 不意に頬を両手で押さえられ、小次郎は思わずビクリとした。子供の頃、一番上の姉に捕まえられて動きを封じられた時と、まるで同じ格好だ。思わず頭が上がらなくなる。


「ふむ……左目の瞳、三つあるね。重瞳は稀にあるが、三つとは珍しい。何が見える?」

「……光が見える。貴殿の周りには緑の光が……」

「ほう。光が何を意味するかは儂にも分からんが、他人に見えぬものを見るのなら天眼かもしれぬ。じゃが大怪我の影響かもしれんし、今後どうなるかは分からんの」


 エスタはあっさりと頭を包み直し、左目も再び包帯で塞いだ。


「しばらく我慢じゃな。さて、異国の人間でも腹は空くじゃろう。歩けるなら下の食堂に降りてきなされ」

「エスタ殿、何から何まで、改めて礼を申す」

「ああ、儂は治癒師じゃ。仕事をしたまで。それから“殿”はやめとくれ。そんなもの、お貴族様しか使わん。聞いてるとムズムズするわい」




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