第5話-3

「何で、陽菜は俺なんかに、良くしてくれるんだ?」


 ――とうとう、ずっと心の奥底で燻っていた、恐怖にも似た疑問を、ぶつけてしまった。


「俺は……その、色々あったし……。陽菜にとって、何の得にもならないだろ」


 陽菜の目の前で、「高卒のクズ」「産業廃棄物」と、散々罵られた。

 それは事実だ。大学を中退し、社会のレールから外れた、どうしようもない男だ。

 俺なんかに、こんな天使が、毎晩時間を割いてくれる理由が、わからない。


『……どうして、そんなこと、聞くの?』


 声のトーンが、少しだけ真面目なものに変わる。


「……悪い」


 せっかく陽菜が温めてくれたこの時間を、俺が台無しにしていく。

 頑張って、前向きなことを考えようとしても、深夜の闇が、わずかに開いた心の隙間に入り込んでくる。

 俺なんかが、こんな幸せなのは、おかしい、と。

 彼女も――結衣のように、裏で舌を出して笑っているんじゃないか。

 決して思ってはならない恐怖が、心の底を這いずり回る。


 電話の向こうで、陽菜が息を呑む気配がした。

 訪れる、沈黙。

 ああ、最悪だ。

 最高の時間を、俺自身が、ぶち壊しにしてしまった。

 後悔で唇を噛み締めた、その時。


『……ぷっ……、あはははっ♡』


 突然、鈴が転がるような、でもやっぱり少し眠そうな、とろけるような笑い声が響いた。


『なぁに、それ!』


 抱えていた悩みを吹き飛ばすみたいに、あっけからんと笑う陽菜。

 そして。


『ばかだなぁ、湊くんは。……本当に、ばか』


 言葉とは裏腹に、その声はどこまでも優しい。

 怒っているわけでも、呆れているわけでもない。

 ただ、愛おしいものを慈しむような響きがあった。


『とく、とか、そん、とか……。そんなこと考えて、湊くんと一緒にいるわけないじゃない』

「……あ、ありがとう。でも、それじゃ何で……」

『ん~……。何でかなぁ……? 湊くんが、湊くんだから、かな? ふふっ!』

「……それ、答えになってない」

『じゃあ、ひ・み・つ』


 ――秘密。

 研修初日の「また、一緒だね」という言葉。

 時折見せる、俺の過去を知っているかのような眼差し。

 彼女は決して、核心を明かさない。


「……はぐらかさないでくれよ。俺は、本気で……」

『……本気、なんだ?』


 今度は、陽菜の声から笑い声が消えた。

 真剣な、それでいて、何かを試すような、静かな声。


『……じゃあ、湊くんは、どうしたいの?』


 どうしたい?

 決まっている。

 この声だけの関係じゃ、もう足りない。


「……陽菜っ……!」


 熱くなったスマホを握りしめ、ベッドの上で半身を起こした。

 これを言ったらどうなるか。

 それを確かめる術はない。俺が動かない限りは、きっと、ずっと、この夜を繰り返せる。

 だけど。

 心臓が、喉から飛び出そうだ。

 今、これを言わなかったら、俺は一生後悔する。


「――はい、湊くん」


 どこか、新妻が、夫の言葉を、全身で受け止めようと待っているかのような。

 俺の覚悟を受け止める、真剣な相槌。

 もう、引けない。


「……あのさ……! つ、次の、陽菜の休みに……! もし、もしよかったら……っ!」


 声が震える。情けないほどに。


「……俺と、……で、デート……とか……!! ……ど、どう、かな……!?」


 ——言ってしまった。

 誘ってしまった。

 声が、みっともなく裏返った。

 鼓動が、耳元でドクドクと暴れている。息が詰まるような沈黙。スマホを握る手が汗で滑る。

 断られたら? 気持ち悪がられたら? 今の関係すら壊れたら……? 最悪の想像が頭を駆け巡る。


『………』


 ——ダメか?

 やっぱり、俺なんかじゃ。

 諦めと絶望で、全身から血の気が引いていく。


『……ふふふふふっ……♡』


 電話の向こうで、陽菜が、たまらなそうに噴き出す声がした。


『いいよ。……うん。どこ、行こっか?』


 彼女は――俺の勇気を受け止めてくれた。


「……水族館に、行かないか? 近場で悪いけど」


 陽菜の休みは、俺の出勤日だ。

 職場の近くにあるあそこなら、デートの後、俺がそのまま仕事に向かえる。

 ……我ながら、デートの誘い文句としては最悪だ。


『うん。すごく、いいね。わたし、くらげが好き!』

「俺もだ。ふわふわ上下に漂ってるのを見るだけで時間を忘れる」

『わかる~。あの子たち、一番下まで行ったら、ふわ~っと上まで昇るよね! 可愛い~』


 電話越しに、きっと、二人で同じ光景を思い浮かべている。

 それだけのことが、どうしようもなく幸せだ。


『……わたし、決めた!』

「え?」

『デート、すっごく楽しかったら……。湊くんが、わたしを、すっごく満足させてくれたら、ね?』


 ……満足?


『湊くんが知りたがってる、ひみつ……。……ほんの、ほんのちょっとだけ、教えてあげる』


 ああ、もう。

 やっぱり敵わない。

 完全に、彼女の手のひらの上だ。

 こんなの、……デートの日まで、寝られない。


『……どうかな? それなら、デートする価値、ある……?』


 少しだけ上擦った、甘えるような声。

 それでいて、どことなく試すような、小悪魔的な響き。

 電話越しでもわかる。きっと、期待に潤んだ瞳で、楽しそうにしている。

 俺は、込み上げる愛しさと、抑えきれない高揚感で胸がいっぱいになりながら、掠れた声で、答えた。


「……ああ。……めちゃくちゃ、価値ある。喜んで!!」


 俺の返事に、電話の向こうで、満足そうな、とろける声がした。


『楽しみに、してるね』


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