第o話-3 生田兄 ほんの崩れはじめ
◇
びしょ濡れのスーツのまま、真昼間の大通りを行くしかない屈辱。
こんななりで、愛車に乗れるかよ。イタリア製の特注レザーシートが汚れる。必死に手を上げてタクシーを捕まえても、窓を開けた運転手はオレの姿と悪臭に顔をしかめ、無言で走り去っていった。
スーツからは腐った果物のような臭いがプンプン漂う。
すれ違う連中が鼻をつまんであからさまに距離を取る。
全員オレを指差して笑ってる幻覚が見えた。
「うわ、何あの人」「くっさ」「昼間っから酔っ払いがよ」「ホームレスか?」
そんな声がはっきりと聞こえる気がする。
吐き気がする。頭がおかしくなりそうだ。いや、おかしいのは世界の方だ。オレは何も間違っちゃいねえ。濡れ衣を着せられ、集団リンチのような形で、奴らから追い出されたオレが被害者だ。
そうだ。そうに決まってる。悪いのは全部あいつらだ。あのゴミどもが。だが、こんな屈辱は一時だ。今だけだ。必ず、百倍にして返してやる……!!
◇
電車を使う羽目になった。
奴隷の乗り物だ。周囲の視線が針のように突き刺さった。死ね、乗客ども。
ろくな移動手段のない今日は仕事にならん。オレの判断で直帰だ。
家で酒を浴びるように煽っているとき、ふと思い出してしまった。
証拠だ。
キックバックの件、バックヤードのPCに、データが残ってる。
――ぞっとした。
気を紛らわせようと、手元の酒を一気に煽ったが、ダメだ。背筋に冷たい汗が止めどなく流れる。
昨日までは何でもなかった。何とでもなった。何があっても、もみ消せた。
だが現在、オレのコントロールを完全に失っている、あの店舗では。
万が一、あのクズどもがPCを漁ったら……。
それだけじゃない。もし、万が一……。
直哉の、あの防犯カメラの映像に、アクセスされたら。
あの犬店長と、諸橋という悪魔がいれば、何をされるか分からん……!!
もう漁られてるかもしれない。早くしないと。
立ち上がるが、足がもつれて、――痛ってえええっっ!!
額をテーブルの角に打ち付け、激痛と共に、灼熱感。
そこを触ると、沈むようにぬめった。指先を見ると、赤黒い。
「あああああああ畜生!!!!」
忌々しい血を手の甲で拭い、ふらつく足取りで玄関へ向かう。
明日には廃棄処分するジャケットの内ポケットから鍵を掴む。深夜、タクシーを飛ばさせる。「デイリー100 東地区144号店!!」と怒鳴って運転席を蹴った。
降り立った暗い敷地内で息を殺し、泥棒みてえにコソコソと移動する。エリートのオレが、なんでこんな。
裏口の扉を開けた瞬間、今まで聞いたこともないような、耳をつんざくけたたましい警報音が店内外に轟いた。
ギャアアアアアアアアアアアン!!!! と、赤く明滅して、思考が停止するほどの騒音。
「――なっ!? なんだァ!? オープン前は鳴らなかったじゃねえかァ!!」
自分が本当にそう叫んでいるのか、最早聞こえない。頭がガンガンする。諸橋と幸村が、しょっちゅうコソコソと話していたのは、このことか!? あのクズども、やっぱり罠を仕掛けやがったのか。オレをハメるために! 計画的に!!
畜生! 畜生!! あの悪魔どもめ! それでも諦められるか! 中に駆け込んでPCを掴もうとしたその時、背後から眩しい光が差し込んだ。
「動かないでください! 手を離してください! 防犯通報が発報しています! 掴んだものから手を離して! 従わないなら確保します!」
壁に反射してなお、強力なライトが目を焼く——なんで、なんでオレが、こんな目に。
違う! オレは悪くない! 全部仕組まれた罠だ、そうだ、そうに違いねえ!
「オレァここの管理者だぞー!? 誰だと思ってやがる!! オレァ、ハメられたんだァー!!!」
オレは何も盗んでない。これはオレのPCだ! 正当性を叫びながら抵抗したが、あっけなく腕を捻り上げられ、冷たい床に顔を押し付けられた。
昼間の屈辱がフラッシュバックする。クソッ、クソッ、クソッ!! 離せ! この手を離しやがれ!!
◇
前科者。
たった一単語が、オレの人生の全てを塗り潰す。
——ぜんかもの。
このオレが? 輝かしい未来が約束されていたはずの、オレが?
高級スーツに身を包み、高級車を乗り回し、女どもを意のままに操っていた、エリートが。勝ち組が。
笑わせる。
鏡に映る自分の顔が、まるで別人のように見える。
目の下の隈、やつれた頬、生気のない瞳。額に残った無惨な傷跡。
勾留中の、あの薄暗く、じめじめした独房。他の収容者からの侮蔑の視線。弁護士の冷たい事務的な態度。
裁判官の、まるで駆除されるべき害虫でも見るかのような目。
仕事上、必要なことだった。
正当な侵入だろ?
よしんば、それが法律に抵触するとしても、ただの些細な不法侵入。その程度だろ?
逮捕。勾留。延長。きっちり二十三日で別件の逮捕状。起訴後も『証拠隠滅のおそれ』で保釈が通らず。未決のまま季節が変わった。
器物損壊だの、窃盗未遂だの、挙げ句の果てには背任横領だの、次から次へと罪状を重ねられて。
初公判から判決まで、数ヶ月。
「あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
鏡の前で、喉が張り裂けんばかりに絶叫する。
「返せよ!!!!!! オレの人生を返しやがれええええええええ!!!!!!!!!」
全てが悪夢のようだ。いや、悪夢なら、覚めるから、いい。
これは現実だ。
たった一人の男との出会いをきっかけに。
あいつらが、オレの人生を壊した。
誰だ、鏡に映る、こいつは。
こんな生ゴミみたいなツラ、オレじゃねえ。
執行猶予がついたところで何になる。こんな前科者、知らねえ。
◇
ようやくマンションの自室に戻ってきた。
半年も放置された部屋の中は、埃っぽくて荒れ放題だ。羽虫のたかった便器から腐臭が漂ってる。流しても臭いはまるで消えねえ。今のオレの人生そのものじゃねえか。
どうでもいい……そう思いながらも、溢れかえったポストに無理やり突っ込まれた郵便物を、惰性で整理する。
支払い督促状。見慣れない法律事務所からの封筒。管理会社からの通達。あ? このマンションから出ていけだと。絶対に出ていかねえぞ。
その中に、見慣れた会社ロゴの入った封筒を見つけた。
会社からの内容証明郵便だった。
ああ、そうか。勾留中も給料は発生してたはずだ。いくらだ? ボーナスは? 給与明細を律儀に送ってくれるなんて、さすがは大企業だな。まあ、オレの貢献を考えれば当然か。
「……は?」
封を開けてから、手が震えた。
まるで他人事のような事務的な文面。
『懲戒解雇通知書』という、冷たい文字が無機質に並んでいた。
『貴殿には懲戒解雇に先立ち、複数回にわたり書面及び電話にて調査への協力と弁明の機会について通知いたしましたが、貴殿からの応答が一切なかったため、就業規則第四十七条に基づき、懲戒解雇処分を決定いたしました』
「――オレはッ! 捕まってて!! いねえだろうがッッ!!!」
通知書をぐしゃぐしゃに握り潰し、壁に叩きつける。
見てねえ。こんなもの、聞いてねえ。不当だ。不当解雇で訴えてやる!
足りねえ。怒りを、憎しみを、発散する場が全く足りねえ!
店舗。店舗行くか。オレの指導が必要だ。多数の管轄店舗がオレを待ってる。そうだ、鍵は……。
車は? オレの車はどうなったんだよ。ああ、鍵、警察に押収されたんだったか? クソッ! 店舗の駐車場に止めたままだぞ! まさか、勝手に処分されたりしてねえだろうな!?
……落ち着け。生田
まずは状況を確認しろ。
逆転の目はあるはずだ。連中がオレにどんな罪状をでっち上げたのか、その詳細を知る必要がある。
反撃の材料を、確保だ。
床に投げ捨てた紙を忌々しく拾い上げる。しかしこれには、解雇のことしか書いてねえ。
震えを抑えられない手で、様々な封筒の中身を、開いてく。
電気。ガス。水道。どれもこれも、赤い文字で『最終通告』と書かれた支払い督促状の山。知るか、そんなもん。払えるわけねえだろ。
裁判所からの『支払督促申立書』。家賃保証協会? ふざけやがって!
見慣れない法律事務所からの封筒が数通。『受任通知』……? クソッ、後回しだ。
そして、その中に、ひときわ分厚い、見慣れた会社ロゴの入った封筒が、あった。
出てきたのは、ホチキスで留められた報告書の束。
表紙には、冷たい明朝体でこう書かれていた。
『元エリアマネージャー 生田聖人に関する調査報告書(概要)』
——なんだ、これは。
『度重なる職権濫用によるパワーハラスメント』
『取引業者との不適切な金銭授受、及び背任、横領』
『店舗への不法侵入及び窃盗未遂、器物損壊』
『会社の信用を著しく毀損した件』
どれもこれも、あのクズどもが仕組んだ罠と、証拠の捏造だ。弁護士を立てれば、こんなもの……!
しかし。
最後の一文に、目の前が真っ赤になった。
『管轄店舗における複数の女性従業員に対する悪質なセクシャルハラスメント(詳細別紙参照)』
……別紙? なんだそれは……。
同封されていた数枚の紙束を掴む。
そこには、信じられない文字がびっしりと並んでいた――。
――優越的地位を濫用し、査定等をちらつかせた上での個人的な連絡先の要求、および執拗な食事への誘い。休憩室等の密室における不必要な身体的接触。その他、女性従業員に著しい精神的苦痛を与えた行為について、以下の事実が確認されました。
事案E(申立人E/車内・勤怠ログ)
行為:送迎を名目とした、社用車内での肩・太腿への身体接触とホテルへの執拗な誘導、拒否後に深夜ワンオペ固定シフトへ報復的に変更。
証拠:勤怠変更ログ(不自然なシフト変更記録)、車載ドラレコの音声データ(「ちょっと休憩していこう」「二人きりになりたい」等の発言記録)。
事案J(申立人J/音声)
行為:研修期間中における執拗な二人きりでの食事(「特別研修」名目)への誘い。「Kのようなゴミではなく、俺を選べば特別扱いしてやる」「俺の女になればシフトも時給も思い通りだ」等の発言による利益誘導と脅迫。及びKへの人格否定発言による精神的苦痛の付与。
証拠:ペン型ボイスレコーダーによる音声記録(「Jちゃんみたいな可愛い子はさ……(略)……男を転がすための計算だろ?」「オレなら何戦でもイけるぜ!」等の発言。Kへの罵倒音声を含む)。及びK本人による詳細な証言(日時・場所・状況一致)。
上記を含め、被害者15名からの共同告訴状提出あり。
代表者:幸村陽菜
「はあああああ!?!? ふざっっっっっけんなよ!!!!!」
頭の血管が切れそうなほどの怒りで、テーブルを蹴り飛ばす。封筒の山やらカビの生えた食いかけのカップ麺やら空の酒缶やらが床に散乱した。
たかがバイトの、腐れ女ども……!!!
今まで散々オレに媚びへつらってきたじゃねえか! オレのおかげでシフトも時給も優遇されてたんだろうが! 落ち目になった途端、手のひらを返しやがって! クソが! クソが! クソがァ!!!
しかも、なんだこの詳細な証拠の山は! ペン型ボイスレコーダーだと!? まるで最初からオレを陥れるために準備してたみたいじゃねえか!
幸村陽菜……!?
あのアマ、散々目をかけてやった恩も忘れやがって! 最初からそのつもりだったのか!? あの天使みてえな顔で、裏ではこんな……っ! 被害者ヅラしてんじゃねえぞ!
「てめえにはまだ手も出してねえだろうがああああああああっ!!!!」
狂ったように叫び、壁を殴りつける。拳から血が滲み、壁紙が破れた。だが痛みなど感じない。この理不尽な現実に対する怒りが、憎しみが、全身を焼き尽くすようだった。
ハァ、ハァ……。
息を切らして床に膝をつく。
視界の端に、さらに追い打ちをかけるように、一枚の紙が映った。
請求書……?
『損害賠償請求書』
店舗什器破損費用(レジ台、陳列棚等): 820,000円
不適切発注による廃棄損(飲料・食品): 1,240,000円
店舗特別清掃費用(飲料汚損): 150,000円
セクシャルハラスメント被害者15名に対する会社が被害者へ支払った解決金・慰謝料(既払): 75,000,000円
会社の弁護士費用相当: 7,721,000円
※全管轄店舗における信用毀損による逸失利益及びブランドイメージ低下に伴う損害: 金額未確定、別途請求の可能性あり。
合計金額: 84,931,000円
「は、……はっせん……」
——気づけば、近くにあった酒瓶を掴み、窓ガラスに叩きつけていた。
けたたましい破壊音。破片が飛び散る。足りない。こんなものじゃ収まらない。
狂ったように叫びながら、部屋中のガラスというガラスを片っ端から砕いていく。
テレビ画面、食器棚、額縁……。
部屋の中はあっという間にガラス片とゴミで埋め尽くされた。
桁がおかしいだろ。
ゼロの数が、脳で処理できねえ。
なんで会社が、自称被害者どもの慰謝料を、オレから取り立てようとすんだよ。なんで勝手に払ってんだよ。事実無根なのに!!!
息ができねえ。立っていられねえ。世界が歪んで見える。
目の前が真っ暗になる。
なんでオレが。エリートのオレが。
こんなの嘘だ。悪夢だ。嘘に決まってる。
あんな高卒のゴミクズ一匹と、まだ手も出してないアルバイトの女一人のせいで。
オレの築き上げてきた全てが、キャリアも、金も、プライドも、何もかもが……!!
オレの人生、完全に、終わった?
いや。
終わらせねえ。
こんな不当通知、ふざけた金額。
抗うぞ。
そうだ、まだ戦える!
正義は勝つ。オレは、勝つぞ。必ず勝つ。
あいつらだけは。
オレと同じ、いや、それ以上の地獄に引きずり落としてやる。オレが味わった屈辱を、恐怖を、絶望を、骨の髄まで味あわせてやる。
ここまで貶めた罪を償わせてやる。
——バン! バン! と、玄関のドアが乱暴に叩かれた。
「あのー、警察でーす! さっきから物凄い音がしてますけど? 近隣から騒音の通報がありましたので! あのォ開けてくださーい! 開けない場合は開錠しますね!」
今はそれどころじゃねえんだよ。
割れたガラス片を踏みしだきながら、震える指で落ちたスマホを掴み、最後の切り札に電話をかけた。
「……ああ、オレだ。……直哉。……聞け。金は、後でどうにかする。144号店に行け。そこにいる諸橋っていう苗字のクズと、幸村とかいうクソアマを、……そうだ。社会的に、物理的に、息の根を止めろ」
「あのォ! 聞こえてますか! ……はい、こちら。……窓から行ける? 了解。生命の危険があると判断しました! 消防立会いで、ベランダから入室しますねー!」
「やつらの未来を、完全に、潰せ」
やがて、けたたましい破壊音。
ベランダの窓が蹴破られ、数人の制服警官どもが雪崩れ込んできた。
オレは咄嗟に、近くにあった割れた酒瓶のネックを掴んで振り上げた。
「邪魔すんじゃねえ!!! オレはまだ終わっちゃいねえんだよ!!!!」
しかし、その抵抗も虚しく、肩を捻られ、膝が床に落ちる。額が汚れたフローリングにぶつかる。すぐ付近には割れたガラス片。請求書。解雇通知書。
「公務執行妨害、現行犯逮捕!」
また床だ。転落が始まった日から、何かの象徴みたいに、床を舐めてばかりだ。
両の手首に冷たい感触。かちゃりと閉まる音。
ははっ。好きにしろよ。オレはもういい。這いつくばって、向こうを見る。
スマホの通話は切れてた。
割れた蛍光灯の唸り。呼吸音だけがやけに大きい。
反撃は――ここから。
ここから、だ。
(あとがき)
次回は陽菜回。
その後に冤罪ひっくり返し編、はじまります。
👉 面白かったらブクマ。
👉 スカッと来たら★/ハート。
👉 一言感想「生田の一番ムカついた所業」を教えてください。
あなたの1タップに、いつも励まされています。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
引き続き、物語にお付き合いいただけましたら幸いです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます