◇名前のない恐怖



なぜか急いでいた。荒く呼吸を繰り返し、寒空に白い息が昇る。


降る雪は、石畳の上に少しづつ積もっていく。ふわりと地面に舞い降りた雪を遠慮なく2人の足が踏み抜いていった。


前方を女は桃色の髪を振り乱しながら走り、追いかける男は銀の髪が風によって揺れる。

男は、朔太郎は、自分がなぜ前方を走る女を追いかけているのか全く見当がつかなかった。

顔も知らぬ人をなぜ自分が追いかけているのか。

しかし己の手に持っている暗器が、鈍く光るのを見て彼はタラリと嫌な汗をかいた。

何をしようといしているのだと、嫌だと、走るのをやめようとするがまったく止まる気配がない。


しばらく走れば、女が躓いて転倒する。桃色の髪に鮮やかなルビーがはめ込まれたような瞳を持つ美しい女は、そのルビーを恐怖に歪めた。

倒れた女に馬乗りになって朔太郎はその暗器を高く振り上げる。


何をしようとしているのか、余程の馬鹿でも察することはできる。

恐怖に歪む見知らぬ女の顔に桃子の顔がチラついて、朔太郎はなんとかやめさせようとするが、やはり体は思うように動かない。


おいやめろッ!!!!何をしているんだ!!!と制御できない自分の体に怒鳴りつける。

何をしているんださっさと逃げろ!!!!と女を怒鳴りつけたが、彼女は動くこともできずにいた。

そもそも自分の声が聞こえていないのか。朔太郎の焦りが募っていく。


やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!!!


ほんの一瞬のことなのに、それがスローモーションのように朔太郎は感じた。


突き立てた刃物の感触と途端に両手に感じたぬめりと温かい血の感触に、頭がおかしくなりそうだった。

真っ白な雪が赤く染まっていく。その赤に、たまらず朔太郎は叫んでいた。


「ーーーーッ!!!!」


ガバリッと布団から飛び起きた朔太郎は、全身が汗でびしょ濡れになっていた。

感じたことのない不快感に、その場で何度もえづく。

夢なのに妙に感触がリアルで、手を何度も布団にこすりつけた。

名前のない恐怖に、朔太郎はガタガタと震えてこみ上げてくる吐き気と戦った。




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