この恋、死にかけにつき 前世の記憶で蘇生します!

竹見あんず

第1話 御曹司の朝は意外と早い

ーーよし、今日もいい感じ!


天ヶ瀬春陽あまがせはるひは鏡の中の自分を見つめ、満足してにっこりと微笑んだ。

そこにいるのはいつも通りの美しく愛らしい自分の姿。

白くつるりとした肌に、色素の薄い茶色の瞳がふたつ並んでいる。

口の形も鼻の形も整っているのに主張せず、人形めいた愛らしさをかもし出していた。


春陽は今年で17になる。けれど、春陽の容貌には男らしさというようなものがカケラも存在しない。ヒゲすらほとんど生えてこない肌には、女性的な美しさがある。

そのことに気を良くして、春陽はうっとりとため息をついた。


「僕って、本当にかわいいよなあ…」


広々とした自室にデンと置かれたドレッサーの前に座り、そうつぶやくのは春陽の日課である。

口の悪い三番目の兄ーー春隆はるたかは、この時間をスーパーナルシストタイムと呼んだが、なかなかやめられるものではない。


だって、かわいいから。

かわいいものは、賞賛されるべきである。それが、たとえ己であったとしても。


それに、この儀式は大切な意味を持つのだ。

自分がかわいいとしっかり理解していればこそ、できることだってある。


例えば、自分に似合うファッションの追求。


春陽の通う星ヶ峰ほしがみね学園高等部は、良家の子女が通う言わずと知れた名門校でありながらーー実はかなり校則がゆるい。

制服は一応あるものの、指定のネクタイとスラックス、それにブレザーさえ揃えれば、セーターもシャツも好きに選ぶことができる。

ボタンを開けようが、ネクタイをゆるめようが、スカートを折ろうが、挙句メイクをしても髪を染めてもパーマをかけてもピアスを開けても、校則違反には当たらない。


なろうと思えば、ヤンキー漫画の主人公のような姿になれるのだ。なりたいとは思う人は、多分あまりいないけど。


仕上げに、春陽はドレッサーの引き出しをそろりと開けて香水瓶を取り出した。

丸く平べったいガラス瓶の中には、薄紫色の液体がキラキラと光っている。


ふむ、と春陽は首を傾げる。

2番目の姉である櫻陽子さよこが、恋が叶う香りって言っていたけど、本当だろうか。


プシュ、と体に振りかける。ふんわりと香るラベンダーとベリーが心地よく、春陽は思わず目を細めた。

でも、なんだか足りないような気がして、あと3プッシュ。


(これでよし!)


春陽は満足して、鏡の中にいる自分にもう一度微笑みかけた。

さて、と時計を見ると、出かける時間ギリギリになっている。


行かなくてはと腰を上げると、ベッドの方から「ムッチームッチー!!」とヒステリックな声が聞こえてくる。


春陽はちょっとうんざりしてその声の方向を向く。もちろん、そんな気持ちはおくびにも出さない。

なぜなら、やんごとない生まれである春陽は、目下のものには寛容に接するようにと厳しく躾けられているからだ。


ーーそう、この広大な屋敷に住む天ヶ瀬春陽は、ただの高校2年生ではない。

この大都市・東京の大地主として名を馳せる、天ヶ瀬ビルーー通称アマビルの御曹司にして、気楽な四男坊であった。


春陽はそのノーブルな生まれ育ちゆえに、しもべ魔獣のムッチーにも可能な限り鷹揚に接するように日々努めている。

したがって、いつもどおり春陽は明るく爽やかに、かつ余裕を持った態度でムッチーに挨拶をした。


「おお、ムッチー、おはよう!」


飼いムチかいぬし!なんでそんなにのんびりしてるム!松岡さん、きっと怒ってるムー!」


ムッチーは大声で叫びながら春陽のもとへ猛然と走ってくる。

が、いかんせん迫力はない。

訳あって春陽のしもべとなっているムッチーは、どこからどう見ても犬のぬいぐるみの形をしているからだ。


ポッテポテと走りくるぬいぐるみを愛でながら、春陽はのん気な声を上げた。


「ええー?まだ大丈夫だって!」


「だいじょばないム!松岡まつおかさん、怒ると怖いんだムー!」


(松岡が、怖い?)


春陽は意外な思いでちょっと首をかしげた。

そうか。ムッチーは松岡が怖いのか。


松岡は春陽のお目つけ役兼護衛兼運転手兼執事兼ーー早い話が春陽の使用人であった。

その松岡は若くして大変有能、かつ己の職務に忠実な男だ。

お目付役としての役割を全うしようとしているのか、春陽のしつけには大変厳しい。


春陽はそんな松岡にいつも怒られているから、感覚がすっかり麻痺していたのだ。

だが言われてみれば、確かに松岡はいつも仏頂面でおまけに背も高く、黒いスーツをビシーッと着た姿はなんとなく近寄りがたい。


それはいつもいつもさぞ怖い思いをさせてすまないことをしたなと反省しつつ、春陽はピンといいアイデアを思いついた。


「じゃあ、僕が怒られてる間は、ムッチーの耳をふさいどいてあげるね!だから大丈夫!」


「飼いムチ…そういうことじゃないム‥」


「あっかわいい!この姿、いいね!」


ムッチーの小さな耳をパタっと折り曲げると、ポメラニアンみたいになった。いつもの秋田犬の姿も素敵だけど、イメチェンもなかなか可愛くていい。


あきれ顔のムッチーの耳をふにふにしながら、学生鞄を肩にかけて深紅のカーペットの敷かれた廊下に出る。

春陽の母親は宮殿じみたデザインが大好きで、天ヶ瀬邸はバロック様式を基礎に作られたとてつもなくエレガントな建物だ。


長い廊下をひたすら歩いて、7人いる兄姉の部屋の前を通り過ぎて角を曲がると、大階段があらわれる。

廊下と地続きの深紅のカーペットの敷かれた大階段は、1階の玄関ホールに向かって放射状に伸びており、まるで舞台装置のようになっている。

天ヶ瀬家の玄関ホールに通された人間は、まず最初に感嘆するのはこの大階段なのである。


ただ、春陽にとってはこんな階段は日常使いの設備に過ぎなく、特にこれといった感慨もない。いつもどおり、優雅に降りる。

本当は、時間がなくなりつつあって、内心焦っていたのだけど。


だが、高貴なものは、どんなに急いでいても焦っていても、それを表に出してはいけないものであるーー。というのが、天ヶ瀬家の鉄の掟だ。


でもでもでも、と春陽は思ってやっぱり足早になる。


(会えなかったらどうしよう!)

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