第5話: 白の便り(1927)

 セーヌの水面を、朝の光を割っていた。

 カミーユは籠を腕に提げ、パンと葡萄を入れる。義詮はその横顔をスケッチ帳に写しとめながら、ふと笑った。

 「カミーユ、あなたの動きは、呼吸が見える」

 カミーユは肩越しに振り返り、唇で小さく《メルシー》とだけ言った。

 昼はルーヴル。レオナルドの《聖アンナと聖母子》の前で、義詮は長く立ち止まった。

 三人の微笑があった──母の微笑、娘の微笑、そして絵の中にだけ生きる幼子の微笑。そこにある白は、静かに沈み、光に滲んでいた。

 絵は、生きるための祈りになりうるのか。義詮は胸の内で呟いた。


**

 帰宅すると、邦人画家を通じて、一通の手紙が届いていた。封筒の端に「聲(ヴォワ)」の文字。白石からだった。


 ――義詮へ。


 パリの空はまだ白いか。こちらは相変わらず灰色だ。政党も銀行も、人の心も、同じ色をしている。

 春枝さんは、朝ごとにパンを焼いている。小さな子がよく笑う。岸本に似ている。

 彼女は声高に何も語らぬが、その手つきがひとつの思想に見える。僕の仲間は社会の改造を唱えるが、彼女は“今日を生かす”ことを選んでいる。


 ──それが、ほんとうの革命なのかもしれない。


 文末に、春枝の筆跡で小さな追伸があった。

 「岸本との子も、随分と大きくなりました。あなたは、まだ光を描いていますか」


 義詮は、手紙を胸の前に置いた。春枝の“白”は、もはや絵ではなく、生活そのものに息づいていた。政治や主義を超えて、ひとりの母として光を繋いでいる。

 ──それは、絵筆ではなく、手のぬくもりで描かれる白だった。


**

 数日後、モンパルナスの小さな画廊で、義詮は一人の男と再会した。灰をまとうような上着。焦点の合わない瞳。佐伯祐三だった。


 「あんた、まだ生きとったんか」

 掠れた声に笑みが混じる。

 「ええ、まだ生きています。今日も、あなたの壁の音を聴きに来た」

 佐伯は唇の端を上げた。

 「わし、壁の音がもうよく聞こえん。……けどな、今度は中から叩いとる気がする」

 義詮はその手を見た。骨ばった指、絵具に荒れた爪。岸本が筆を握っていたときと同じ、痛みに似た光がそこにあった。

 「あんたは、まだ生きるために描いとるか?」

 義詮は頷いた。

 「はい。生きるために、です」

 「わしは、死ぬまで描く。……けどな、どっちもたいして変わらん。どっちも、己の白を残すためや」


**

 その夜、風が通るアトリエで義詮は筆を取った。机の上に、白石の手紙がある。

 筆先から、柔らかな音が立つ。カミーユが窓辺で灯を調え、微笑を浮かべた。


 絵の中で、祈りの白がゆっくりと呼吸を始めた。

 夜が静かに、その音を聴いていた。

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