第49話 涙の味

 どのくらいそうしていただろうか。

 高かったはずの太陽はいつの間にか姿を隠し、山影から見事な満月が顔を出していた。

 頭に浮かぶのは、ハルのことばかり。


(……最後に会ったのは、契約の前だもんな……)


 とはいえ、昏睡状態の彼女にはその記憶はない。

 一方的な逢瀬を知るのは彼女以外の一部の人間だけ。

 あの数日を、自分がどんな思いで過ごしていたかなど、彼女は知るよしもないのだ。


(さっさと、素直になってりゃよかったのかな……)


 居心地のよさに甘えて、ハルに対していだく感情の名前に気づかないふりをしていた。

 関係を壊したくないばかりに、あいまいな態度でごまかし続けてきた結果がこれである。


(自業自得、ってやつか……)


 それでも、今なお彼女を自分のものにしたいと思っている自分に、キョウヤは自嘲ぎみに笑った。


(今頃、なにしてんのかな……)


 まともに会話をしたのが、ずいぶんと前のような気がする。

 ここ数日、キョウヤはあえてハルに出会わないようにつとめてきた。

 だが案外と行動範囲が同じらしく、避けようとすればするほど、彼女の姿がやたらと目につくのである。

 そのたびに無視を決め込み、逃げるようにその場をあとにする。

 それが彼女を傷つけていることは、とうに気づいていた。


 だがそれを放置し続けたのは、少しでも彼女の心にとどまりたいという独りよがりの感情ゆえ。

 周囲を威嚇するような自分の態度が彼女を泣かせていたとしても、そのときだけは自分のことだけを思ってくれている。そのときだけは、彼女の心を独占しているのは自分だと、そう思いたかったのかもしれない。

 それがひどく醜い自己満足だということも、重々承知していた。


「……だっせぇよな」


 短いため息とともに吐き出した声は、夜の闇に吸い込まれていく。

 いつしかキョウヤの瞳には、いつもどおりの穏やかな色が戻っていた。

 目をそむけてきた現実を、やっと受け入れることができたのだろう。

 決意を秘めたそのまなざしは、満天の夜空を映し出す。


「ちゃんと、向き合わねーとな……」


 そのとき、自分以外がいるはずのない屋上で、重い鉄扉がひらく金属音がした。

 気になって少しだけ頭を上げれば、見慣れたうしろ姿が目に入った。

 腰の位置まであるレンガ造りの土留めにもたれかかってこちらに背を向ける彼女は、まだキョウヤの存在に気がついていないらしい。

 夜空を見上げた肩が、一度だけゆっくりと上下した。


「……ハル」

「っ!」


 静かに彼女に近づいたキョウヤは、ぼんやりと夜空を見上げるハルに声をかける。

 一瞬小さく肩を弾ませた彼女のちょうどうしろに座り直すと、「振り向かないで」とハルの行動を止めた。

 おとなしく前を向いたままのハルの体をはさむようにして足を投げ出し、キョウヤは背を向ける彼女の肩口に腕をまわす。

 そのまま彼女の首元に顔をうずめて、ハルの小柄な体を抱きしめる。


「キョウ、ヤ……?」


 振り返ろうにも身動きを封じられたハルは、前を向いたまま困惑するしかない。

 ここ数日の態度が嘘のように、キョウヤはハルの体を離そうとはしなかった。


「……ハル、このまま聞いて?」


 首すじに当たる熱い吐息に、ハルはこくんとうなずいた。

 ハルの体を抱き寄せたまま、キョウヤはゆっくりと深呼吸する。


「俺、ハルが好きだ」


 おもわず、息がつまった。

 思いもよらなかったひと言に、ハルの胸が高鳴る。

 急に早まった鼓動とともに、全身に熱が伝わっていく。

 なにか答えなくてはと思うものの、緊張して声が思うように出てくれない。


「俺は、ハルに幸せになってほしいし、いつも笑っててほしい。ハルの笑ってる顔が大好きなんだ。ハルの笑顔を奪うやつは許せねー、って思ってた。でも俺、なんつーか……どうしていいかわかんなくなって……お前のこと、傷つけたかったわけじゃねーのに……ハル、ごめんな?」


 頬に当たる金髪が風に揺れて、少しくすぐったい。

 まわされた腕がゆるくなったと思うと、そのままの体勢でふんわりと頭をなでられる。

 少し骨ばった大きな手から伝わるぬくもりに、胸の奥が痛んだ。

 音を発することを忘れてしまった喉は、呼吸の仕方までも忘れてしまったのだろうか。

 喉の奥が、焼けつくように熱かった。


「俺、ハルが大好きだ。お前のこと、すっげぇ好きなんだ……でも……もう終わりにする。たぶんすぐには無理だけど、ちゃんと吹っ切れるから……」

「……っ!」

「だからもう少しだけ……ハルのこと、好きでいてもいい?」


 耳の奥に低く響く声は、心なしか震えているような気がした。

 なんだかいたたまれなくなって、ハルは力任せに振り向くとキョウヤの腰にしがみつく。

 一瞬驚いた様子のキョウヤだったが、すぐにやわらかい笑みをこぼした。


「なーんでハルが泣いてんの。泣きたいのは俺のほうだって」


 苦笑まじりにからかう声は、いつもよりずいぶんと優しい響きをしていた。


「だっ、て……だって……!」

「はいはい、困らせて悪かったって」


 あたたかい手が、頭の上をゆっくりと繰り返しすべっていく。

 それがますます胸を締めつけて、ハルはキョウヤの胸に頭を押しつけた。


「ごめ、なさっ……!」

「……ハル?」


 くぐもった声で紡がれた謝罪の言葉に、キョウヤはおもわず彼女の顔を覗き込む。

 涙で濡れた顔をゆがませて、ハルがまっすぐにキョウヤを見上げていた。


「っすき……!」

「っ……!」


 おもわずキョウヤの手が止まる。

 唐突に、心臓が早鐘を打ち始めた。


「っめなさ……! わたし、最低だっ……」

「ハル……?」


 視線を落としたハルは、止まらぬ涙を袖口で何度もぬぐう。

 嗚咽まじりに紡がれるハルの言葉に、キョウヤは静かに耳を傾けた。


「っほんとは、キョウヤと一緒にいたいっ……! ずっとキョウヤと一緒にいたいの……! だけど、スペラーレは、わたしが死んだら死んじゃうから……キョウヤを、死なせたくなかったの……! 生きててほしかったの……! ごめん、なさい……ごめんなさいっ……!!」


 何度も何度も謝罪の言葉を口にするハルを、キョウヤはきつく抱きしめた。


「ありがと……! ありがとな、ハル」

「っごめ、なさっ……!!」

「お前は悪くない。だからもう謝んな」

「だ、けど……!!」


 いまだ泣きやまないハルの頬に、キョウヤはそっと両手を添えた。

 互いを映す潤んだ瞳が、宝石のように輝いて見えた。


「お前が望むなら、俺の命はハルにやる。だから……ずっとそばにいてくれ」


 まっすぐに向けられた想いが、ハルの心を優しいぬくもりで包み込む。


「い、いの……? わたしなんかで……」

「ハルがいいんだよ。お前じゃなきゃダメなんだ」


 キョウヤはハルの頬を流れる涙をそっと親指でぬぐった。


「ハル、俺、うぬぼれてもいい?」


 揺れる瞳をまっすぐに見つめ、キョウヤはやわらかい笑みを浮かべる。


「お前に愛されてるって、うぬぼれていい?」


 ハルが小さくこくりとうなずいたのを確認すると、キョウヤはゆっくりと顔を近づけた。

 しゃくりあげ浅い呼吸を繰り返す彼女の唇を、自身のそれで優しくふさぐ。

 はじめて交わした唇は、少しだけ涙の味がした。



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