第42話 継ぎ目の限界

巨躯が、ぎしりと音を立てて動いた。


大地が震え、細かな砂がぱらぱらと降ってくる。

レオンは反射的にイレーナを庇い、肩を抱き寄せた。


イレーナは、目の前の存在から視線を離せなかった。


……これも、鬼……?


角。

人の形。

けれど、レオンや銀目の鬼とも違う。


もっと古くて、揺るぎない何か――山そのものが意思を持ったような“重さ”があった。


「怯える必要はない」


声ではない“声”が、イレーナとレオンの頭の中に直接響いた。


「ここはすでに、外界から切り離された“内側”だ。お前たちは、つぶて一つ動かさずとも、無事に戻ることはできる」


「……そうは思えないな」


レオンが低く吐き捨てた。

イレーナの肩を抱く腕には、さりげなく力がこもっている。


「まずは名乗れ。お前は何者だ」


巨躯は、ゆっくりと首を傾けた。

岩の軋むような音が、静かな世界にこだまする。


「名か……。もはや呼び名など、とうに忘れた。昔、人間たちは我を鬼と呼んでいたが」


灰の瞳が、初めてイレーナに焦点を結んだ。

その視線が触れた瞬間、背骨の奥を氷の指でなぞられたような感覚が走る。


「火山の下に流れる“火”。山を貫く“力の筋”。それらを押さえつけ、この大地を繋ぎとめている杭――それが、かつての我ら“鬼”だ」


「鬼が……、地震や噴火を抑えていたってこと……?」


「理解が早いな、女」


くくくっと、それは笑った。


イレーナは唇を噛みしめた。

レオンがちらりと彼女を見るが、すぐに視線を巨躯に戻す。


「質問に答えろ。ここの瘴気の源はお前か」


レオンの問いに、巨躯は「半分正解だ」とでも言うように、わずかに笑った。


「ここから漏れ出しているものは、鬼の死骸、封じられた魂、呪い、人の欲、神々の残滓――それらが幾重にも堆積し、腐りきった“濁流”だ。それを瘴気だと言うならそうだろう」


イレーナは、思わず喉に手を当てた。


そんなものが、山の中を流れている……?


「それを抑え込んでいるのは、今は我だ。お前たちを呼び寄せるために抑える力を弱めた」


私達がここに来たのは、必然だったということ?


「その瘴気の濁流防ぐ役割は、まだ我が保っている。――ただし、限界は近い」


灰の視線が、ゆっくりとレオンに向けられた。


「鬼の残響を持つ人間よ」


レオンの背筋が、わずかに強張った。


「……俺のことか」


「他に誰がいる」


巨躯は、器用に肩をすくめたように見えた。

岩の塊が軋み、砂がぱらぱらと落ちる。


「お前の角は、まだ“途中”だ。片足は人の世に、片足は鬼の残響に。中途半端なまま、よくもここまで辿り着いたものだ」


「中途半端、ね」


レオンは鼻で笑った。


「それでも、お前の瘴気とやらには平然としている。騎士たちは倒れたが、俺とイレーナは平気だ」


「そうだ。お前は“ここに来るために”生かされた」


イレーナの心臓が、ずきりと痛む。


「……生かされた?」


「女よ」


今度は、はっきりとイレーナに向かって、その名が呼ばれた。


「お前は、最後まで鬼の力を使い潰し、鬼の王の魂を断ち切った。その代償として、“継ぎ目”は一つ失われた。何とか持ち堪えていたが――世界そのものが軋み始めている」


「鬼の王……?」


イレーナは息を呑んだ。


「つまり、お前はこう言いたいのか。俺の前世の鬼が鬼の王で、それがいなくなったから世界の均衡が崩れている」


レオンが淡々と続ける。


「“穴埋めが必要だ”と」


「理解が早くて助かる」


巨躯は、今度はわかりやすく笑った。


「ここでお前が完全に“鬼”として目覚めれば、瘴気の流れを押さえ込む新たな杭となれるだろう。そうなれば、安泰だ」


イレーナの血の気が引いた。


「ちょっと待って。それって――」


「要するに、俺をこの山に縫い付けて、動けない鬼にするって話だな」


レオンが、巨躯の言葉を切り捨てるように言った。

レオンの横顔は驚くほど冷静で、むしろ薄く笑ってさえいた。


「……レオン」


「やっと本題が見えてきた。つまり、お前は俺に“死ぬまでここで杭をやれ”と言いに来たわけだ」


「死ぬ、などという概念は曖昧になるだろうがな」


巨躯は、あくまで淡々としていた。


「お前の“人”としての時間は終わる。家族も仲間も帝国も、全て手放す代わりに――ここで“世界”を支える役目を担う。それこそが、鬼という種に課せられた本来の役目だ」


「ふざけないで」


怒りを含んだ声が、思わずイレーナの口から飛び出した。


「勝手に課さないで。前世で、彼はもう十分すぎるほど世界のために戦ったわ。これ以上、何を奪うつもり?」


灰の瞳が、興味深そうに瞬きをした。


「お前の罪はないと言うのか。お前が鬼の王を使い捨てたのだろう。そして、お前が力を受け継いだせいで亀裂が入っているというのに」


「……っ」


胸の奥で、古い傷がじわりと疼く。


レオンが、イレーナの肩をぐっと抱き寄せた。


「勘違いするな」


低く、冷たい声。


「こいつは俺を縫い付けたいだけだ。世界のためとか、大層な言葉を並べてな」


「事実を言っているだけだ」


「そうか」


レオンは、あくまで静かだった。


「だが、俺は“鬼”じゃない。第一騎士団長レオン・ヴァルトハイトだ。帝国の将であり、イレーナの夫だ。お前に命を預けるつもりはない」


その言葉に、イレーナの胸が震えた。


巨躯は、しばし黙り込んだ。

やがて、諦めでも落胆でもない、奇妙な感情の混じった気配が漂う。


「……お前たちは、面白い選択をする」


「選択……?」


イレーナが問い返すと、巨躯の灰色の瞳が二人を順に見つめた。


「人間が鬼を殺した。だが今、その人間が“鬼を人として扱おうとしている”。愚かで、矛盾に満ちているとは思わないか」


足元の大地が、ほんの少しだけ震えた。


「いいだろう。今ここで、誰かを杭にするつもりはない」


「……本当か?」


レオンが訝しむように目を細める。


「我も、好きでここに縫い付けられているわけではない。新たな杭が立てば、我はようやく解放される。だが、選ばれた者の意思なくして、それは成り立たぬ」


一拍置き、巨躯は淡々と告げた。


「選ぶのは、お前たちだ。今すぐではない。この山は、まだ少しだけ保つ。だが、いずれ再び――“継ぎ目”は軋むだろう」


イレーナは、堪えきれずに叫んだ。


「なら、別の方法はないの?鬼を犠牲にしないで、この瘴気を抑える方法は……!」


「ない」


あまりにもあっさりと返されて、イレーナは言葉を失った。


「……ない……?」


「鬼が完全に滅びれば、瘴気の濁流が起き、悪魔が人間を支配するだけだ」


「悪魔って……、どういうこと!?」


「お前たち、どうしてこの人間の世界に鬼と悪魔がいるのか、それは理解しているのか?」


その言葉に、イレーナとレオンは顔を見合わせる。


深く考えたことはなかった。


レオンは帝国で歴史を学んでいたが、それについては知らないようで首少し振る。


「知らない。どうしてなの?」


巨躯は静かに頷くと、イレーナとレオンにある映像を見せた。


世界が揺らぐ。



それは、昔々のお話。

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