第38話 火山への道
今回の遠征は二十人ほどで行われる。
選ばれたのは、帝国でも指折りの騎士たちだった。
彼らの鎧は磨かれ、動きに一分の隙もない。
見ているだけで、イレーナの背筋も自然と伸びる。
イレーナはその中に、治療係という名目で同行することになっていた。
一応、彼女が弱くはないことは証明されたが、ユーリックは呆れたようにため息をつく。
「言っておきますがイレーナ様……お風呂はありませんし、寝るのは固い地面の上。天幕の中なんて、女性が落ち着ける場所じゃありませんからね」
まるで、最後の良心で止めようとしているような声音だった。
だが、イレーナは笑って首を振る。
「ユーリック卿、心配してくれてありがとう。でもね、この前は洞窟の岩の上で寝たし、お風呂なくても川で体を洗えば大丈夫よ」
そう口にしてから、イレーナははっと気づいた。
……あ。言い方、完全に“貴族の令嬢”としておかしい。
案の定、ユーリックは苦い顔をしていた。
「……もう、言葉が出ませんよ」
けれど彼はすぐに、小さく笑って首を横に振る。
「レオン様があなたを妻にすると聞いた時は、正直どうなるかと思ってましたが……。今では納得です。あなた方、本当にお似合いですよ」
「似合っているなんて……」
イレーナが戸惑いながら否定すると、ユーリックはにっこり笑った。
「レオン様に合う女性なんて現れないと思ってましたが、世の中にはいるんですね。運命の相手って」
運命……。
その言葉に、イレーナは胸の奥でそっと繰り返す。
本当に、この運命はどこに向かうのが正解なんだろう。
「あの、団長。イレーナ様、強すぎませんか?」
少し離れたところでは、剣部隊隊長のガルドが、レオンにそう話しかけているのが聞こえた。
「いや、本当に! 女性にしてはとかではなく、訓練してないのにあの動き、本当に第一騎士団に入れると思いましたよ」
ロッツォも感心したように言う。
ロッツォは盾部隊隊長らしく、かなり強い騎士だ。
剣の訓練ではレオンにやられているが、ロッツォが盾を持てば隊の防御力が爆上がる、と皆が噂している。
第一騎士団の“守り人”と呼ばれている。
レオンは淡々と答えた。
「俺の妻だから強いに決まってるだろう」
いや、それは回答になってない……。
イレーナは思わず吹き出しそうになり、口元を押さえた。
ふと、彼女はユーリックに向き直って尋ねる。
「ところで、どこに何しに行くの?」
その何気ない一言に、隣のユーリックが口をあんぐり開けた。
「……それすら聞かないでついてきたんですか!?」
「だって、“遠征”ってだけで……」
イレーナがそう言うと、ユーリックは額を押さえる。
「というか、レオン様……教えてあげたらいいのに。今回は、火山付近の魔物の討伐です」
そう言われた瞬間、イレーナの心臓がどくんと跳ねた。
なんですって……?
「昔から禁足地とされていたあの辺りに、最近魔物が現れて、人の住む場所まで出てきているんです。放っておけば村が襲われかねない」
「火山……」
イレーナは小さく呟いた。
胸の奥が、すとんと冷たく沈む。
まさか、行き先が――あの場所だなんて。
……鬼が住んでいた地。
そして、イレーナ自身も一時期そこにいた。
熱と硫黄の匂い。
灰の舞う夜空。
銀の瞳。
記憶が、喉の奥を締め付ける。
レオンの中の“鬼”が、あの地に反応するかもしれない――。
正直なところ、レオンの中の鬼がこれからどうなっていくのか、イレーナにはまったく読めない。
鬼化したままレオンの意識が保てたり、鬼だった頃の記憶が断片的に戻ったりしている。
何がトリガーになるのか、誰にもわからない。
あの時のように暴走したら――。
一瞬だけ、「火山に行くなら、同行はやめようか」と考えがよぎる。
だが、レオンの暴走の可能性が少しでもあるなら、止められるイレーナがいた方がいい。
そう思い直す。
……それに、火山付近には貴重な薬草が多かった。
毒を中和する“フィアノ草”。
胃腸系に抜群に作用する“サリュの実”。
麻酔薬になる“黒睡草”。
父が苦労して採取していた薬草たち。
イレーナはその辺りの地形を知っている。
もしそれが今も残っているなら――手に入れたい。
「魔獣って、人を嫌うはずなのに……なんで人里に?」
思わず問いが漏れる。
「それが、わからないんです」
ユーリックの表情が険しくなった。
「ただ、実際に何人か食われてます。痕跡も残ってた。だから、退治の要請が来たんですよ」
「……そう」
イレーナはそれ以上、何も言えなかった。
焚き火の中で、ぱちんと弾けた火の粉が、まるで“予兆”のように見える。
火山……あの地に、まだ何かが残っているのかもしれない。
イレーナは黙って、馬の鞍を撫でた。
冷たい革の感触が、少しだけ現実に引き戻してくれる。
◇◇◇
日が傾き始めたころ、行軍はようやく一度止まった。
長い一日だった。
朝から馬に揺られ、昼もろくに休まず進んだせいで、イレーナの全身の骨は軋んでいる気がする。
火山付近に近づき、独特のにおいが鼻についた。
「ここを今夜の野営地とする」
レオンの声が響く。
彼のその一言だけで、騎士たちは一斉に動き出した。
天幕を張る者、馬をつなぐ者、焚き木を集める者――誰も無駄口を叩かない。
規律の整った動きが美しくて、イレーナはしばらく見惚れていた。
さすが、第一騎士団……。
イレーナは、ハンスに持たせてもらった食材を調理していた。
薬草スープ。
体を動かす皆のために、少し濃い味付けにしようと考える。
調味料は、ハンスがたっぷり持たせてくれていた。
野営の準備が整う頃には、空は群青に染まり始めていた。
火山地帯の夜は冷える。
昼の熱が嘘のように、風が頬を切るように冷たい。
「焚き火を囲め。各班、交代で見張りを立てろ」
レオンが命じ、火の粉がぱちぱちと弾ける。
イレーナは、湯気の立つ薬壺を抱えていた。
湯に溶ける香草の匂いが、ほんの少しだけ安らぎを与えてくれる。
「どうぞ。お腹が空いたでしょ」
カップに入れてスープを渡すと、騎士たちは笑顔になった。
「いつもは干し肉噛じるしかないのに、ありがたいです!」
口々に礼を言われ、イレーナも思わず笑みを返す。
レオンもスープを受け取り、口に運んだ。
「どうですか?」
「悪くない」
「うまいっすよ!!」
ロッツォが間髪入れず声を上げたので、またレオンに鋭く睨まれていた。
◇◇◇
イレーナは少し離れた場所に腰を下ろしていた。
風の音が妙だった。
森のざわめきとも違う、遠くから低く響くような――地鳴り。
火山の呼吸。
「……懐かしい」
思わず呟いたその時、すぐ近くから声がした。
「何が懐かしい?」
「っ……! レオン」
振り向くと、すぐそばまで来ていたレオンが、焚き火越しにイレーナを見下ろしていた。
「……火山に行くことを黙っていて悪かったな」
「……わざと言わなかったんですか?」
「言ったら来ないだろ」
そう言って、彼はイレーナの隣に腰を降ろした。
「最低」
イレーナはそっぽを向きながら、ぽつりとこぼす。
だが、その言葉の後、ふと不思議に思った。
「どうして……私が火山に来たがらないと、思ったの?」
レオンは焚き火の向こう、黒く沈む火山の影を見つめたまま口を開く。
「実は、最近鬼の記憶が少し増えている」
「……え?」
イレーナは息を呑んだ。
一体、どこまで――。
「何を……思い出したの?」
「小さいセレスと一緒に火山に住んでいたとか、お前と一緒に戦っていたとか……断片的な記憶だ。……火山に来たら、もしかすると鬼が暴れるかもしれないな。 そしたら止めろ」
レオンは、いつも通り淡々とした口調で言う。
イレーナの胸の奥に、じわりと怒りが湧いた。
「……でも、それ要員で妻を危険な場所につれてくるなんて、やっぱり最低」
利用されているようで、少し腹が立った。
さっきまで、レオンが鬼化したら自分がいた方がいい、なんて真剣に考えていた自分がばかみたいだ、とイレーナは思った。
レオンは初めからそのつもりで、私を連れてきたのか。
なんて奴!
イレーナがぷいとそっぽを向いていると、顎を掴まれて顔をレオンの方に向かされる。
「勘違いするな。そんな要員で連れてきていない」
「何が違うんですか」
「今回は、軽い仕事だったから、単純にお前がいた方が退屈しない」
……絶句。
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