第27話 アークライトの罠

翌朝、イレーナは、いつもより静かな朝食を済ませ、陛下への訪問着に着替えた。


一体何の用だろう。

レオンだけならまだしも、私まで。


レオンの体が回復したら、陛下の元には家族みんなで行こうと思っていた。

でも、こんな早くに呼出されるなんて……。


皇帝陛下からの召し出し――二人で皇居へ。


皇居へ向かう車輪の音も、回廊の靴音も、ひとつひとつが澄んでよく響いた。


謁見の間ではなく、陽当たりの柔らかな小広間に通される。

窓から入る光が絹の帳を透かし、金糸の刺繍が柔らかくきらめいている。陛下は卓上の薄い茶を手に、二人を迎えた。


「先日は大儀であったな。……まずは、良き婚礼であった」


レオンが一歩前に出て頭を垂れる。

「身に余るお言葉。ご臨席、痛み入ります」


イレーナも続いて、裾を整えながら頭を下げた。

「陛下には、心より御礼申し上げます」


陛下の目は穏やかで、しかし底に澄んだ硬さがある。


「先日は騒擾もあったが、夫婦の誓いは確かに成った。これからは二人、帝国のため、民のため、力を尽くせ」


「はっ」


「はい」


二人は同時に答えた。


「さて――」


陛下が軽く視線を流す。


「実は、少しおかしな話を耳にした……。 続きは宰相から話がある。別室で聞いてやってくれ」


なんだろう……。


イレーナには、陛下の言葉がなんだか歯切れ悪く感じられた。

しかも、アークライトと話となると、良い話であるはずがない。


促されて移されたのは、簡素な会議の間だった。


壁には地図、卓には封筒と羊皮紙。


整然と整った空間の中央に、アークライト宰相が立っていた。彼の笑みは柔らかく、声は絹のように滑らかだ。


「お時間を頂戴し、恐れ入ります。……先日の件、確認したいことがございます」


椅子を勧められたが、レオンは立ったまま答える姿勢を選んだ。

イレーナもその隣に立ち、呼吸を合わせる。


アークライトは扇を畳み、机上の一枚を指先で軽く押さえた。


「実は――“あの折、レオン騎士団長に角が生えていた”と証言する者がおりまして。もちろん、混乱時の目撃は錯誤を生みます。……ですが、念のため。何かご記憶は?」


喉がぴくりと鳴りそうになる。

イレーナは腹の底に力を入れた。


――見られてた?

……いや、でも私は見えないようにしっかり隠していた。


レオンの声が、イレーナのかわりに静かに落ちる。


「何の冗談でしょうか。あの時、頭痛があり頭を押さえました。だが、角などという事実はありません」


イレーナも、すぐに頷いて口を開いた。


「私もすぐそばで見ていました。――そのようなことは、ありませんでした」


「左様ですか」


アークライトは目を細め、瞬きひとつ分の沈黙を置いた。笑みは崩さず、言葉にだけ芯を通す。


「鬼は二十五年前に殲滅されました。公爵家の嫡男であられるレオン騎士団長のご出自も、清らかに確認されております。すなわち、鬼であるはずがない」


「無論です」


レオンは淡々と返す。


宰相は軽く頷き、扇を開閉して空気を撫でた。


「もっとも、古い記録の中には、稀に――その力の“片鱗”を、人に託すことができた鬼がいた、という伝聞がございます。真偽は定かではありませんが」


「申し訳ないが」


レオンがきっぱりと言う。


「私にはまったく興味のない話です。鬼は二十五年前にいなくなった存在。私が生まれる前の話だ。関係がない」


「ご尤も」


アークライトは微笑を保ったまま、ちらりとイレーナを見る。視線は優しい、けれど底が深い。


「荒唐無稽な噂が立っては困ります。ここで上がった話は、私どもで留め置きます。――ですから、どうかご安心を。先日の“揺れ”は、自然の徒花。婚礼の緊張に、皆が敏感になっていただけのことでしょう」


「ご配慮、感謝いたします」


レオンが礼を取る。イレーナも頭を下げた。


その瞬間だった。


イレーナの左の薬指が、じくり、と熱を持った。


皮膚の下で、脈が一本、勝手に走る。イレーナは無意識に指先を押さえ、呼吸を浅くする。――痛い。


小さく、しかし確かな警告のように。


「どうかなさいましたか」


アークライトの声が遠くに聞こえた。


「少し、指輪がきついだけです」


イレーナは微笑の形を作る。


彼は「それは大変」と穏やかに笑い、差し出された水差しから杯へ水を注いだ。


丁寧な所作。しみひとつない言葉遣い。

だからこそ、イレーナの心の襟元は冷える。


イレーナは、その水を飲まなかった。


会談はそこで区切られた。


退出の折、宰相は廊下の光を背に受けて、満ち足りたように目を細めた。


「新しいご夫婦に、天の加護があらんことを」


「……ありがとうございます」


レオンが答える。


廊下に出ると、イレーナは指の痛みを確かめた。

もう、治まりつつある。


レオンがすぐに声を落とす。


「イレーナ。指が痛むのか?」


「大丈夫です……」


なんだろう。

嫌な予感がする。


◇◇◇


アークライト宰相は、ひとり会議室に残っていた。


彼は机の上の書類をゆっくりとめくりながら、淡い笑みを浮かべる。


『力の“片鱗”を、人に託すことができた鬼がいた、と伝聞がある』というのは嘘だった。

それどころか、レオンに角が生えていたという証言も一つもなかった。


「……カマをかけてみたが、かわされましたね。焦りでもしてくれたら追求しようと思いましたが……」


アークライトは細い指で眼鏡の端を押し上げる。


「あの時、妻イレーナはレオン・ヴァルトハイトを大きなクロスで隠していた……」


アークライトの頭の中で、すでに点が線になっていた。


“結婚式中に起きた地震”、“地震が極めて局所的”、

“レオン・ヴァルトハイトを隠すイレーナ”。

そして、サミュエル軍事長が語った――“炎の幻覚”。


地を裂く力。

炎。

それらは、異能を使う鬼の力。


そして、それらの中心にいたレオン騎士団長と、その妻イレーナ。


「あの二人は何かを隠しているが、明らかな証拠はない……」


アークライトは、目を瞑り考えていたが、口角を上げ小さく首を振る。


「証拠はいりませんね。重要なのは、“事実”として、何かが起こっているということです」


彼は深く息を吐き、椅子にもたれかかった。


「レオン・ヴァルトハイトは非常に優秀な騎士でしたが……」


アークライトは、ニヤリと笑った。


「――もう私は警戒されたな……。殺すか」

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