第10話 丘の上の風

朝の光が庭石を照らし、風が頬をくすぐった。


イレーナは、昨日レオンから贈られた乗馬服を身につけ、馬場へ向かった。

革の手袋を締めると、掌に小さな緊張が走る。


「イレーナ様……まさか、馬に?」

ミーナが不安そうに声をかけてくる。


「大丈夫よ。昔、父に特別に教えてもらっていたの。私、馬が好きだったから」


「でも……怪我をされたら……」


イレーナは軽く笑って言った。


「大丈夫。この服をくれたのは、レオン様よ。多少の怪我は承知の上よ」


「イレーナ様。お待たせしました」


ロッツォが、昨日イレーナが選んだ馬を連れてやってきた。


「この馬、レオン様ではなくイレーナ様が選ばれたと聞いて驚きました。この馬の親は二頭とも名馬です。この子はまだ子どもですが、これから育てがいがあると思っていました」


「……そんないい子を私がもらってもいいのかしら」


「もちろんです!」


ロッツォは微笑んだ。

その笑顔にホッとする。


この家の人達は、まだイレーナにも怯え、侍女の二人さえも心からの笑顔を見せてくれない。


ロッツォは騎士でもあるらしいが、『馬好き』『馬マニア』ということで、軍馬の管理を任されていた。


「しかも、この馬の兄馬は、レオン様の愛馬ですからね! この子、最近少し元気がなかったけど、レオン様の馬と一緒にしたら喜んでましたよ」


そう言って、馬の首をなでる。


「それは良かったわ!」

イレーナは馬の目を見つめて、しっかり心を通わせる。


「名前をつけてやってください」


「毛並みが灰色だから……グレイ。安易かしら?」

少し恥ずかしそうに言うと、ロッツォは声を出して笑った。


「レオン様の馬はブラックですよ。毛が黒いからと」


イレーナも思わず吹き出した。

「ふふっ……意外と単純なのね」


馬上に上がると、体が自然に馴染む。

風を切る音、蹄の響き。


――ああ、生きているって、こういうことだった。


「おお!」


ロッツォは、イレーナの乗馬に感激した。


イレーナが馬場を一周したその時、後ろから蹄の音が重なった。


イレーナが振り返ると、レオンがいた。

黒い馬に跨がり、風の中に立つ姿。


「随分と楽しそうだな」


イレーナの胸が高鳴る。


「レオン様……」


ロッツォが慌てて敬礼する。

「イレーナ様の乗馬は、見事です!」


レオンは頷き、イレーナの方を見て言った。

「本来なら、女は男の前に座らせるものだ。だが――お前は違うようだ」


「え?」


「お前は、俺について来られるだろう」


その言葉と共に、レオンの馬が疾走した。

イレーナは迷わずグレイの腹を蹴る。


風が頬を打ち、髪がなびく。

レオンの背中を追いながら、胸の中で何かが弾けた。


気持ちがいい!


風が顔を打ち、淡金色の髪が陽光を受けて揺れる。

イレーナは手綱を握り、馬の鼓動に呼吸を合わせる。


前を駆ける彼の体温がわずかに伝わり、無言のまま速度が上がる。

空気を裂くように蹄が響き、風の中に二人の影が並んで伸びていく。


林を抜けると、視界が開けた。


青空が広がり、草原を渡る風が花々を揺らす。

その先に、白い皇居の塔が遠くに見えた。


「……ここは?」


レオンが手綱を引き、馬を止める。

二人とも馬から降り、景色を見た。


「ここは、俺が昔から好きな場所だ」


その言葉が、なぜか胸に響いた。

昔から――。


イレーナは、周りを見た後、空を見上げる。

光が眩しくて、涙があふれた。


この場所は……。

セレスと銀目の鬼が、よく来ていた場所だった。


休戦の最中は、訓練と称して二人で抜け出して、ここに来ていた。


レオンは、泣いているイレーナを見て少しだけ動揺している。


この人は、記憶がなくてもこの場所が好きだと言った。

それが私には苦しくもあり、嬉しくもあり、どうしようもない感情になる。


レオンはイレーナを見て、小さく言った。

「……笑え」


ハッとして彼を見る。


その声が、あの“鬼”と重なって聞こえた。





あの夜、血の匂いが漂っていた。


前線から戻ったばかりで、皆が疲れ果てていて、セレスはひとり、帳の中で地図を広げていた。

その時、外から布の擦れる音がした。


振り返る間もなく、誰かがセレスを押し倒した。

甲冑の金具がぶつかる音。

荒い息。

人間の騎士だった。

酒臭い息を吐きながら、セレスの腕を押さえつけた。


セレスはたしかに強かったが、騎士として鍛え上げられた男の力には敵わなかった。


しかしその時、叫ぶより早く、炎が爆ぜた。

鬼が飛び込んできた。

焚き火の光が、その灰銀の目に反射していた。


次の瞬間、男の身体が宙を舞い、火の中に叩き込まれた。

骨が砕ける音が、夜気を裂いた。

誰かの悲鳴。血の匂い。


――鬼は、セレスを見た。


翌日、彼は別の場所に連れて行かれ、鎖に繋がれた。

味方の人間を殺した罰。

広場で数日もの間、鞭で打たれていた。

背中が裂け、血が地面を濡らした。

それでも一度も声を上げなかった。


セレスは抗議をしてなんとか助けようとしたが、近づく事さえ許されなかった。

銀目の鬼は、戦争には役立っていたので殺す事はないと言われていたが、その拷問をセレスは見ていられなかった。


彼が許された日、セレスはようやくその体に触れることができた。


彼は地に伏し、血まみれの背中で動く事ができなくなっていた。


「どうして……あんなこと、したの……!」

声が震えた。

怒りでも、恐怖でもなく、ただ胸が痛かった。


水を飲ませ、血を洗い、傷に良く効く薬をたくさん使った。

いくら鬼の治癒力が高くても、痛いものは痛い。

セレスは、震える手で彼の背に包帯を巻いた。


そうしながら、セレスは泣いていた。


大きな体が、微かに息をしていた。


彼はセレスを見上げて、かすれた声で言った。

「セレス……わらえ……わらえ」


拙い言葉だった。

それが慰めだとわかって、胸が詰まった。





「……私が泣いていると、嫌ですか?」

と、イレーナは聞いた。


「……女の涙なんか見ても今まで何も思わなかったが、お前の涙はだめだ……」


イレーナは涙を拭い、微笑んだ。

「……もう、大丈夫です」


レオンはイレーナを見つめていたが、そっと手を伸ばす。

「少しだけ、触ってもいいか?」


イレーナが躊躇いながらも頷くと、頬にレオンの指が触れる。

レオンが涙をそっと拭いた。


レオンの体の変化は何もない。


「今は……大丈夫そうですね」


イレーナがそう言うと、レオンはその体を抱きしめた。


「えっ、ちょ、ちょっとレオン様……?」


レオンの胸に顔をうずめる形になり、彼の鼓動が聞こえる。


何より、抱きしられるそのこと自体が嫌ではないということに、イレーナは自分自身驚いた。


「またこの前みたいになったら……」


「今は誰もいない。もし鬼のような姿になっても……お前しかいないから、いい」


耳元で、彼の声がする。

イレーナは静かに頷き、その腕の中に身を委ねた。


怖くなかった。

むしろ、心が静かに満たされていく。


そのぬくもりを感じた時、ふとテッサの事を思い出す。


テッサはどうしているだろう……。

あの家で、きっとこき使われているだろう。

私の婚姻資金の一部をテッサに渡すように言ったが、それが果たして守られているだろうか。


テッサは、私に悲しいことがある度に抱きしめて慰めてくれた。


本当はここに一緒に来てほしかった。

でも、私はいずれ出て行く身だ。

その時にもしここにテッサが残っていたら……、それこそ心配になってしまう。


「……レオン様。お願いがあります」


イレーナは体を一度離す。


「なんだ。望みなら、屋敷を一棟買ってやるくらいはできるぞ」


ものすごく……機嫌がいいようだ。

なんてわかりやすい……。

……よし。


イレーナは、レオンの顔を見て、言葉を選びながら話す。


「あの……、私の家の老女中覚えていますか?あなたの部下が突き飛ばした……」


「ああ、部下にはきつく指導した」


「それはどうも……。あの……、彼女、もうかなりの歳で私の家で今どんな扱いをされているのか気になっていて……」


「……なんだ。言おうと思っていたが、あの女中はもういない」


「……えっ? どういうことですか!?」


テッサに何かあったの?

いないってどういうこと……?


「ギルベルトがお前の金を適正に使用しているかを部下に確認させていたが、あの女中に金が支払われていなかった」

レオンは、淡々と話し始めた。


「お前はあの女中にも金を渡すように言っていたし、あの女はお前が大事に思っている存在だと理解していた。だから、金三百枚を渡すようにギルベルトに言ってやった」


「……誰が言ったんですか?」


「俺が。昨日、直々にヴァンデール家に行ったら、驚いて震えていたぞ」


わざわざヴァンデール家に行ってくれたの!?

……それは、びびるだろうな……。


「あの女中には、騎士が手荒なまねをしたということで、慰謝料として、さらに金三百枚を追加して渡した」


えっ……?


使用人の月の給料の相場は金一枚と言われている。


ヴァンデール家はそれよりも少なかったはずだから、合計六百枚の金貨をもらったテッサはさぞ驚いたことだろう。


「金貨をもらって、その場で、今日で使用人をやめますと言って出ていったぞ」


「そうですか。あの家を出られて良かったです」


イレーナは、心の底からホッとした。


「お前が会いたがると思っていたから連れてこようかと思ったが、今度自分から会いに来ると言っていた」


「……そうですか。本当に良かった」


テッサが無事で良かった。

きっとテッサは近いうちに会いに来てくれるだろう。


それにしても……。


私はレオンに対して誤解をしていたかもしれない。

私の意思をこんなに尊重してくれるなんて、思いもしなかった。


「……レオン様」


「なんだ」


「ありがとうございます」


そう言ってイレーナ微笑むと、無言で頷くレオンだったが、少しだけ頬に赤みが差した。




実は、イレーナはテッサには大切な物を預かってもらっていた。


外見がものすごく高価なものに見えるので、イレーナが持っていると家族に取られてしまう可能性があった。


それは、イレーナの父の形見だった。


薬を作ろうとしている今、あれが必要になるかもしれない……。

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