第48話
「そんなもの、もういらないでしょ?」
レイラが店長の銃を奪ってきたことを、クロエは不思議がった。
「……随分楽観的なのね」
霧の中ではぐれないようにと手を引かれながら、レイラは後悔していた。
誘拐される時はサングラスをかける余裕もなく、状況的にないほうが都合がいいと思ったが、やっぱりどうにかして持ってくればよかった。
「あんた、どうしてここに?」
「レイラが失踪したって警察から聞いたの」
「失踪者だから森にって……これは劇じゃないのよ」
「ふふ、でも当たったでしょ?」
すたすたと歩くクロエに掴まれている手を振り払って、レイラ足を止めた。
「どうしたの? 一応逃げないと、追いかけてくるかも。これじゃレイラのほうが楽観的……」
言葉が途切れた気配のあと、強い視線を感じた。
「綺麗な瞳。やっぱりレイラは、サングラスなんてないほうがいいよ」
レイラの頭の中に、一枚の絵が浮かぶ。
アトリエの中央に置かれた大きなキャンバス。霧が漂う森に佇む、白いコートを着た少女と一頭の雄ジカ。
少女を取り囲むように、黒い実をつけた植物が生えている。
あの部屋にあった殆どの絵が森を描いたものだったが、あの絵だけはタッチや色使いが違った。どこか現実離れした幻想的な世界観。
(あの少女は、八年前の私。トビーを殺した奴が描いたとしか思えない)
八年前も今日のように霧が濃くて、オオカミ男とは距離もあった。
(この町に来てから私は奴と、瞳の色がわかる距離で会ってる)
パレットに出しっぱなしのエメラルドグリーンの絵の具は、まだ乾ききっていなかった。
今になって少女の目を塗り足し絵を仕上げたのは、ダニエルだと思っていた。
サングラスを外してタトゥースタジオに入った時に見られたからだと……。
(あの時私は、できるだけ目を合わさないようにしてた……でも結局、共感が不快で思わず店を飛び出した)
「ねぇ、レイラ。どこ見てるの?」
あの時の、ウォルターに向けられたものだと思っていた〝感情〟が、今ははっきりと自分に向けられているとわかる。
(そうだ。この女もいたんだ)
クロエが階段から下りてきて、つい目をやった直後、流れ込んできた。
(ああ、最悪……声だけでも鬱陶しい)
「お兄さん、大丈夫? 昨日の夜、警察が事情聴取しに行ったはずなんだけど」
警察に毒の植物のことを通報した時、ダニエルの遺体については触れなかった。
クロエが〝悲しくない〟のは知らないから。それとも……。
「そうなの? じゃあ、昨日から帰ってきてないのって、ずっと警察署にいるから? もう、お兄ちゃんったら、ちゃんと連絡くれないと困るよね」
「……駄目だ。あんたって、なにが本音でなにが嘘かわかりにくい……」
「なにそれ。ミステリアスってこと?」
確信にはまだ足りない。だが……。
レイラは数歩後退りながら、そこにいる〝はず〟のクロエに銃を向けた。
無言のクロエからは感情を読み取れない。
「店長は私を恐れて、私を誘拐するために銃を用意した。でもあんたは、なんでスタンガンを持ってきたの? 失踪した私を捜しにきただけなら、そんな物騒なもの必要ないでしょ」
誘拐とは知らないはずなのに、すぐに店長を攻撃した。
椅子に縛られていたレイラは大柄な店長で隠れてよく見えなかったはずだ。
そもそも、獣道を通らないと辿り着けない小屋に現れたのが引っかかる。
「昨日、あんたはドレスを着替えてた。なんでわざわざ、似たようなドレスに?」
「言ったでしょ? 私もレイラと同じドレスを着てみたくなったの」
ようやく聞こえた声はさっきまでと変わらない調子で、動揺は感じられない。
「この森の土で、汚れたからなんじゃないの?」
「……レイラ、なにか誤解があるみたいね。怖い顔しないで。私たち、もっと分かり合えるはずよ。同じ呪いをかけられた者同士――」
分かりやすい嘘に、思わず声を出して笑った。
「あんたって、本当に嘘ばっかり」
「ねぇ、どうしちゃったの? 怖いよレイラ」
「あんた、見えてないよね。この黒い霧。見えてたら、そんな風に普通に歩けるわけない」
少し前から、レイラの視界は薄闇に包まれている。
クロエの姿はシルエットが分かる程度にしか見えていない。
おかげで、サングラスが無くてもなんとか耐えられる。
「そっかぁ……うっかりしちゃったな」
呪われた者だけが見える黒い霧。だが、クロエの視界に映るのは白い霧の世界だ。
自分に向けられた銃口が見えているはずなのに、まるでスリルを楽しんでいるようで気味が悪い。
黒い霧が徐々に薄まっていく。灰色の視界の中、想像通りのクロエの表情がそこにあった。
思い出したかのように殺意の衝動がレイラを支配しようとするが、不思議とコントロールできている。
銃を構え直しながら、自分の心に問いかける。
(私は、どうしたい……?)
「〝なぁ、知ってるか? 悪人は守り神に裁かれて、地獄へ落ちるんだ〟……覚えてる?」
オオカミ男の言葉だと思っていた。
広場でマスクを被った大人たちに囲まれた時に、真実の記憶がよみがえるまでは――
「あれは、トビーがオオカミ男……いや、クロエ。あんたに向けて言った言葉」
犯人の声だと勘違いした少女は、オオカミマスクの人物を男だと思い込んだ。
記憶の中のオオカミ男はクロエよりずっと背が高い。
これまでレイラは、書き換えられた記憶を思い返していた。
だがその目には、薄ぼんやりとだがちゃんと真実が映っていた。
犯人を睨みつけるトビーの目、薄く開いた唇――
(私はきっと、思い出したくなかったんだ……)
殺意は、微笑むクロエの感情を薄めてくれる。
「やっぱりレイラは私を見つけてくれた。やっと出会えた、運命の人」
まっすぐ見つめてくる視線から、思わず目を逸らす。
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