第26話

 ダニエルの部屋に足を踏み入れた瞬間、レイラは少し落胆した。

 警察署に届いた手紙。あの気味の悪さから頭のイカれた男の乱雑な部屋を想像していたが、綺麗に整頓されている。


「半月前のアリバイ? ん~……お兄ちゃん、大体いつも家にいるからなぁ」


 兄の誤解を解くチャンスだというのに、悠長に構えているクロエのペースに乗せられて堪るものかと気を引き締めた。


「だいたいその頃だそうよ、四人目が殺されたのは。まぁそれも、腐敗が始まる前に埋められてたらの話だけどね」


 遺体の状態について、今朝ウォルターに改めて詳しく訊いた。

 署長の話では、一週間前に遺体を掘り起こした時、白骨化していない四人目も死後四、五日経過していた。

 キャビネットや机の引き出しを片っ端から探り、クローゼットを開ける。

 クロエは気にする様子もなく、壁掛けカレンダーを見ていた。


「半月前……店が休みの日があるけど、私その日はバイトとレッスンで一日出てたんだよね。帰ってきた時お兄ちゃんいなかったけど、たぶんいつも通り失踪者家族の会に行ってたんだと思う」

「つまり、証明はできないってことね」

「まぁそうなっちゃうんだけど……ねぇレイラ、ちょっと休憩してお茶でも飲まない?」

「そんなのんびりできるわけないでしょ。いつ本人が来るかわからないのに」

「今施術中だから、しばらくは大丈夫だよ」


 急いで部屋を漁っていたが、物が少なくてあっという間に終わってしまった。

 趣味嗜好が見えてこない。異常性が垣間見えるものや、証拠になりそうなものはなにも見つからなかった。


「ずっと気になってたんだけど、この匂いなに?」


 二階に上がってから、シンナーのような刺激臭がする。

 匂いの元を探そうとダニエルの部屋を出て、目に入った向かいの部屋のドアを開けた。


「ああ、そこはお父さんのアトリエだよ」


 イーゼルと椅子が中央にある室内は殆ど家具がなく、代わりに壁や床がキャンバスで埋まっている。匂いの正体は油絵の具のようだった。


 イーゼルに立て掛けられた、高さが100センチ近くありそうな縦長のキャンバス。そこに描かれた絵が目に飛び込んできた瞬間、嫌悪感が湧き上がってきた。

 不快な気持ちとは裏腹に、足は絵の前へと向かう。


 霧が漂う森の中に、白いコートを着た少女が立っている。

 その傍らには、一頭の雄ジカ。

 森はどこか幻想的で、少女の周りには真っ黒なブルーベリーのような、見たことのない植物が描かれている。繊細で綺麗な絵だ。だが、気味の悪さが勝る。


「この子、レイラに似てるよね」


 いつの間にか隣に立っていたクロエが、馴れ馴れしく肩を寄せてきた。

 うっとりとした目でキャンバスを眺める。


「……この子どもが、私に?」

「なんとなく顔立ちとか、彩度の低いブロンドの髪とか、この綺麗な目とか。この辺りじゃ、こんな綺麗な色をした目の人いないもん。ねぇ、なんでサングラスで隠しちゃうの?」


 キャンバスの中央で、少女はこちらに視線を向けている。

 その瞳は、鮮やかなエメラルドグリーンで塗られている。

 もしもこの絵を描いたのが、八年前に見たあのオオカミだとしたら。


(私のことなんて気にしてないと思ってた……)


 殺人現場で出会った少女を、忘れるどころか絵のモデルにした。

 だとすると、一緒に描かれている雄ジカも不気味だ。

 墓標に被せられていた、四つの獣のマスク。

 最初に身元が判明した、クマのタトゥーの男。タトゥースタジオの従業員だった、ウサギのタトゥーの男、タトゥーがなかった学者。

 全く身元が分かっていない最後のひとりの首には、立派な角をもった雄ジカが刻まれていたのかもしれない。


「……レイラ、大丈夫?」


 珍しく重々しい口調だった。

 絵から視線を逸らせずに黙り込んでいる様子が、よっぽど変だったのだろうか。


(大丈夫なわけない……なんで、こんな絵……)


 ふと視線を落とすと、出しっぱなしのパレットの上に、いろんなグリーンが並んでいた。

 クロエは、失踪した父親のアトリエだと言っていたが……。


「この部屋、まだ使ってるの?」

「……いいえ。時々、私がここに座って懐かしんだりするだけ」


 部屋を見回すと、森を描いた絵がいくつもある。

 スマホを取り出して、歩き回りながら写真を撮る。その間ずっと付き纏う視線が鬱陶しくて、振り返りざまに思わず声を上げた。


「あんたさ、どうして私に執着するのっ?」

 クロエは大きな目を一瞬見開き、すぐに細めて微笑んだ。


「執着って……ふふっ、もうちょっとロマンチックな言い方してほしかったな」


 どう感じてほしいのか知らないが、レイラの価値観では執着と言うのがしっくりくるのだから仕方がない。


「ねぇ、レイラは森の神様を信じてる?」

 再び森の絵に目を向けて、唐突に尋ねてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る