嘘吐き勇者よ。死んではならない。▼
フグが美味しい
第1部 星空の牢獄
第1章 出会い
第1話 予期せぬ目覚め
「俺、名前すら聞かなかった」
それはちっぽけなプライドと、あの日の後ろめたさのせいだ。
今ならわかる。神力を初めて見せてくれたあの時、本当はどれだけ怖かったのか。勇気を出していたのか。
檻の外から、望んでも手に入らないものを持っている少年を、どんな目で見ていたのだろう。
名前ひとつ、少年は残してやらなかった。
「だから、お前の『
***
目が覚めると、見知らぬ天井が少年を出迎えた。
「……え? ……っ」
まるで叩き起こされたかのような、頭痛と不快感に顔が歪む。穏やかな覚醒とは程遠い、そんな目覚めだった。
暗い。灯りが、どこにも見えない。
古い埃と湿気の混じった、酷い匂いがした。僅かにごわついたシーツが手のひらに触れる。いつもなら母の声が聞こえるはずなのに、秒針の音すら聞こえてこない。
明らかにおかしい。少年は人の気配がないことを慎重に確かめてから、そっと体を起こした。
「っぅ゛……!?」
瞬間、鉛のような全身の重さに息を詰める。関節という関節が、長く眠り続けた後のように鈍く軋んでいた。
(〜〜ッ! なにこれ、どうなってんの!?)
暗闇に馴染んでいく目に、うっすらと室内の輪郭が映りだす。
部屋には家具も窓もなかった。天井からは数本の鎖が垂れ下がり、正面には規則正しく並んだ『なにか』がある。
あれはなんだろうか。裸足に石畳の冷たさを感じつつも、金具の音を引き摺りながら近寄っていく。
「……檻?」
そこには部屋を二つに分断する『奇妙な檻』があった。繊細な金属細工の施された柱が、端から端まで綺麗に整列している。
ただ、そのどこにも『出入口』がない。檻の中に少年はいるのに、その際使われたはずの……入口がなかった。
「えぇ……俺、もしかしてまだ夢見てる?」
ためしに柱を引いてみるが、当然そんな簡単に開くはずもなく。ジャラジャラと金属同士が擦れ合う、けたたましい音が響いただけだった。
まったくもって現実味がない。
なのに触れた質感や鼻を通る空気はやたらとリアルで、心臓が少し速くなった。
「……え」
うっすらと視界に映った、自分の腕に目を見開く。
「これ、俺の手……?」
記憶にあるよりも幼く、折れそうな腕が見えていた。痩せただけではない。十歳にも届かない、子供の腕だ。
「……待て、俺もう十六だったよな? なんでこんなに小さいんだ!?」
驚いて慌てて全身を確認しだす。はっきりとは見えなくても、触れてみればある程度はわかる。
痩せ細った手足、薄い胴体。それから何故か両手にはめられた手枷と、首輪の拘束具。枷から伸びる鎖は天井へと繋がれていて、体を動かすたびにジャラジャラと煩い音を立てた。
「嘘だろ……? これじゃ五、六歳くらいだぞ……!?」
牢屋に閉じ込められただけでなく、体まで幼児化している。そんなあり得ないことが、一度に起きていた。
混乱する思考がここは夢か、別の世界ではないかと暴走し始める。自分に起きたことが信じられず、少年はあちこちを調べてまわった。
――ギィ。
「――……」
正面の暗がりから音がして、息を呑む。
先程まで見えなかった正面に、青白い光が漏れていた。
奥には石造りの階段があったらしい。その先の僅かに開かれた扉から、ぼんやりとした光が滲み出している。
『誰か』が、こちらに降りてこようとしていた。
(まずい……誰か、くる……ッ!)
狭く急な石段を、一段、また一段と光が下り出す。心臓はそれに合わせて胸を突き破りそうになるのに、足が一歩も動かない。
やがてそれは、薄闇の奥から姿を現した。
「…………」
現れたのは、『真っ白』な子供だった。
歳は同じくらいだろうか。
似たような体格の子供が最後の段を踏み降りる。青白い光を放つランタンを目の高さに掲げて、静かにその目は少年を見た。
息を呑むほどに、美しい顔立ちをした子供だった。
青い光源しか存在しないのに、その凛とした白銀の瞳には色とりどりの光の欠片が宿っている。膝下まで流れる純白の髪は、薄暗い部屋でさえ神秘的に輝いて見えた。
――異世界に転生する。
そんな、物語で何度も見た展開を思い出していた。
この存在そのものが、ここが少年の知る世界ではないという現実を突きつけてくる。突きつけずにはいられないほど異質で、ゾッとするほど完成された美貌だった。
「…………きみ、だれ?」
少女なのか少年なのか判断つかない、高い声に背筋が総毛立つ。袖口に隠れていた手が、掲げていたランタンを静かに下ろした。キン、と小さな金属音が響いて、精巧な銀細工のランタンが光と共に揺れる。
相手の言葉が、理解できる。それに少し安心する。
しかし口は開けない。
これほど身なりの違う相手を、無警戒にはいられなかった。
埃の匂いがする部屋で、枷をはめられ拘束された自分。それに対して目の前の子供は、まるで別世界の住人だ。聖職者のような美しい白の衣装に、首元を飾る銀の装身具。何より決定的なのは檻の向こう側にいて、自由に歩き回れる立場にいるということ。
ここに閉じ込めた者の関係者ではないかと、少年は疑っていた。何を仕掛けてくるかわからず、自然と目の前の子供を睨みつける。
「………………」
「………………どうしてここにいるの?」
ほんの少し首を傾げた相手の、癖のない髪が揺れた。
目的がわからない。その質問は、少年がここにいることを知らなかったように聞こえる。それならなぜこんな何もないところに来たのか。看守のように檻の外から話しかけているくせに、何も知らなそうな態度が心を波立たせる。
白い素足が檻との距離を縮めると、途端に緊張が走った。数歩進んでまた立ち止まったが、その目は逸らされることなくこちらを見続けている。
「…………名前、ある?」
また問いかけられる。どうしてそんなことを聞くのだろうか。もしや、名前すらない奴隷か何かだとでも思っているのか。
この状況で、得体の知れない人物に情報を教えるはずもない。恐怖心を表に出さないよう、少年は淡々と言葉を返そうとした。
「――……」
しかし口を僅かに開いたところで、少年はその言葉を無くしてしまう。
(……俺の、『名前』…………?)
名前が、出てこなかった。
一文字すら頭に浮かんでこない。母や兄に何度も呼ばれてきたはずの、自分の名前が。
まるでそんなもの初めからなかったかのように、記憶から抜け落ちていた。
(え、名前だぞ……? ずっと使ってきたハズだろ?)
動揺を悟られないように必死に記憶を漁りだす。しかしそれでわかったのは、名前ではなかった。
家族や友人の名前や顔も思い出せない。いたことは覚えている。否、……いた筈だ。
好きなもの、毎日の習慣、最近ハマった作品……どれもこれもあった筈なのに。それが霞がかって、記憶に穴を空けていた。
「……――っ」
わけがわからない。
恐怖と混乱が、胸の内で膨れ上がる。
抑えきれない感情は衝動になって、喉を上り、唇を叩いた。
気がつくと、それは言葉に変わっていた。
「……なんでそんなこと、お前に教えなくちゃいけないんだよ」
攻撃的な刺々しい声が、静寂を破って響く。
はっと我に返った時にはもう遅かった。
目の前の子供に、それはどう伝わったのか。
僅かに目を見開いただけで、その顔には怒りも悲しみも浮かんでいなかった。
こちらを見つめたまま、ランタンをかすかに揺らしただけだ。
(今のは……ただの八つ当たりだ)
正気を保とうと、幼い相手に感情をぶつけた。その自己嫌悪が急速に冷静さを取り戻させていく。
じわりと胸に広がる気まずい気持ち。それでも謝罪の言葉を口にするのは何か違う気がして、結局口を噤んでしまう。
子供は、何も言わなかった。
やがてくるりと背を向け、一房だけ結い上げられた後ろ髪の銀飾りを揺らす。そして子供には少し高い石段を、ゆっくりと登って去っていった。
***
それからというもの、部屋は静かに時を刻み続けていた。
「あいつ……報告とかしなかったのか?」
誰かしらに報告くらいはするだろうと少年は考えていた。見知らぬ人間を見つけたのだから、少なくとも周囲の大人には話すだろうと。しかしどれだけ警戒していても扉は開かれず、一度眠りについても部屋は静かなまま。
キュルキュルと泣き言を言い出した腹を抱えて、少年は呟いた。
「腹、減ったな……」
光に照らされた時にわかった黒髪を、鬱陶しげに後ろに流す。膝まで伸びる荒れた髪は、脂ぎってベタりとした感触があった。うげっと、指先に残った気持ち悪さを服の裾に拭いつける。
(俺……ガクセイ、……高校生だったっけ。普通の学生に、どうやって檻から脱獄しろって?)
この部屋には何もない。武器も、食料も、たった一杯の水さえも。
転生したばかりだが、このままでは飢えて死ぬ未来が見える。
「す、……ステータス、オープン……」
転生チートの一つでもないかと、それっぽい単語を呟いてみるが反応なし。無性に恥ずかしくなって、じわじわと頬が熱くなるだけだった。
いったん記憶については後回しにし、とりあえず抜け出せないかとあれこれ模索する。けれど、何の成果も出せないまま、時間だけが過ぎていった。
――ガタリ。
扉の先から聞こえた音に、反射的に正面を見る。
石段の奥に、また青白い光が覗いていた。
誰がくるかもわからず慌てて寝台裏に身を潜める。そっと、陰から石段の様子を伺った。
「あれは……」
降りてきたのは、あの白い子供だった。
けれどその足取りは前回よりも慎重で、どこか躊躇いがちに見える。同じランタンを掲げた子供は、石段の最下段で降りるのをやめた。
そしてそこから、こちらの様子をじっと窺っている。
いったい、何をしているのだろうか。
その様子は、明らかに前とは違っていた。
表情こそ変わらないものの、恐る恐るといった雰囲気が漂っている。最後の一段も降りず距離も縮めてこない。やがて、ぱちりと宝石のような瞳と目が合ってしまう。
銀のランタンが、小さな音を立てて揺れた。
しばらく、無言の時間が流れる。
子供は石段に立ち尽くしたまま、動こうとしなかった。
(何がしたいんだ……?)
柱の向こうから一方的に見つめられるのは、檻の中の動物にでもなったようで気分が悪かった。こちらに危害を加えてくることはないが、話しかけてくることもない。大きな瞳がじっと鑑賞しているだけ。……まるで見せ物のようだ。
相手が全く動かないのを見て、少年は目を逸らした。顔を見なくてすむように、背を向けて寝台にどさりと寄りかかる。
無視を決め込めば、そのうち飽きて帰っていくだろうと思ったのだ。
耳だけ澄ませて動向を探る。何の物音もしないということは、まだこちらを見続けているのだろう。何がそれほど興味深いのかと、イライラしながら腕を組む。
息が詰まる、そんな静寂が生まれていた。どちらかが動くまで重さを増していく空気に、少年は目を閉じてじっと耐える。
やがて――カチャリと、小さな音が響いた。
(なんだ……?)
室内の明かりが一度揺れて、そっと後ろを覗き見る。
石段の一番下、そこにランタンがあった。さっきまで子供が持っていたものだ。それが持ち主の手を離れて、冷たい石畳にぽつりと置き去りにされている。
なぜあんなところに。
子供はどこに行ったのかと、少年の瞳が動く。
石段に目を向けると、そこに幼い足が見えた。
数段上を、暗い足元を確認しながら壁に手をつき、慎重に登っていく。
その姿に、思わず声が出た。
「――!? ッおい! 灯りがないと危ないだろ!?」
大声に驚いたのか、子供の身体が大きく跳ねあがった。
話しかけられるとは露程も思っていなかったのか、壁に手を添えたまま、ゆっくりとこちらを振り返る。
「なんで置いていってるんだよ!? ちゃんと持っていけ! 落ちたらどうするんだ!!」
白銀の目が、驚きに見開かれていた。
相手が何者かはまだわからないが、小さな子供が暗い石段を登っていくのはどうしても見過ごせなかった。段差はそれなりに高く、手探りで登る姿はハラハラするほどに危なっかしい。
無視を決め込むつもりだったのも忘れて、身を乗り出して叫ぶ。
「それ!」
柱の間からランタンを指差す。
子供はしばしその場で固まっていた。けれど、おずおずとその足は石段を下り始める。何で置いてくんだよ、と声をかけると遠慮がちにランタンを拾い上げた。
キン、と音を立てて揺れた銀細工に、室内の青が合わせて揺れる。
白い手に光が戻ったのを見て、少年はようやく胸を撫で下ろした。
「…………」
「…………ん?」
そのまま背を向けようとすると、子供がまだ立ち尽くしていることに気がつく。表情はそのままに、こちらを気にしているのがどことなく伝わってくる。
「もう帰っていいよ」
何を考えているのかは知らないが、少年はしっしっと追い払うような手振りをして見せた。早く行け、そんな態度をとってやる。
そうしてやっと、子供は石段を登り直していった。
「俺、何やってんだろ。……敵かもしれないのに」
扉の向こうに消えていく姿を見て、思わず苦笑が漏れる。
なぜだか、一仕事でも終えたかのような気持ちだった。
ただその扉は、閉じられることはなかった。
「…………?」
微かに開かれたまま、淡い光を漏らしている。あの子供は閉め忘れていったのかと、少年はその光を眺めていた。
だが、それほど経たずに再び扉が開く。いつもよりも明るい、眩い光が降りてきて、少年は目を細めた。
「…………え?」
白い子供が、二つのランタンを抱えていた。
ヒヤヒヤする足取りで、再び一段ずつ降りてくる。今度は最下段まで降り立った子供は、落としそうになった片方のランタンを抱え直した。同じく青い光を宿すそれは、デザインは異なるものの精巧な銀細工をしている。
視線が合うと、そろりと一歩を踏み出す。
前と同じように警戒するべきなのに、なぜかそんな気持ちになれなくて、少年は呆然としたまま近寄るのを眺めていた。
檻に手が届く距離までやって来ると、その手がもう一つのランタンを差し出す。
(まさか……)
部屋を照らす青い光が、ゆらゆらと小さく揺らめいていた。
「…………くれるの?」
僅かに、首が縦に振られる。
檻に寄ると、少年は隙間から手を差し出した。手渡されたランタンは、炎のような熱を持っていない。代わりに時々小さな青い宝石を光の中に浮かび上がらせ、煌めきを見せていた。幻想的で、でもどう見ても普通のランタンではない。
ほんの数秒のやり取りだった。
指先が触れた瞬間、子供の手が僅かに震えていることに気がつく。室内の光が揺れて見えたのは、この子が緊張していたからなのだと、少年はその指から知った。
「………………」
かすかに人の温もりが残るランタンを、柱を越えてこちら側に招く。
無事に隙間を通り抜けたのを見て、子供はどこかほっとしているように見えた。間近で見ると一層現実味のない瞳が、黄金や菫色などのここにはない光の粒を宿している。
「あ、ありがとう」
ランタンを手に、自然とその言葉が口から溢れていた。
(こいつ、実は良い子なのか……?)
予想していなかった優しさに触れて、不覚にも感動してしまう。たった一つ灯りを分けてもらった、それだけなのに。
ただそれだけの行為が、子供に対する警戒を緩ませていた。
……ぐるるるる。
そのせいなのだろうか。
少年の腹から、随分と間の抜けた音が響く。
「……は!?」
「…………」
長い睫毛に縁取られた瞳がパチリと瞬いた。下へと下がっていく視線が、音を漏らした自分の腹部へ向けられたのに気がついて急激に頬が熱くなっていく。
どうして、何故このタイミングなのか。
自分がどれだけ視線を逸らしても、相手は視線を逸らしてくれない。あまりの空気の読めなさと恥ずかしさに、今すぐどこかへ隠れたい気持ちでいっぱいだった。
しかし、よくよく考えてみれば当然のことだ。この世界で目覚めてから、一度も食事をとっていない。
いっそのこと。そう思って、勢いのまま口を開いた。
「……何か……食べ物、ない……?」
相手はきょろきょろと周囲を見回す。
寝台を見て、吊り下がった鎖を見て、何もない床を見る。
このままでは、少年は飢えて終わるだけだと気がついたのかもしれない。その足はそのまま、ぱたぱたと部屋を去っていった。
「ご飯、持ってきてくれるのかな」
少年はそれを見送りながら、そっと息を吐く。
これが『あの手のひらに収まる食事』になろうとは、この時の少年は予想もしていなかった。
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