第21話 本当の地獄

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。


 とにかく、この地獄は痛かった。


「か、は……」


 声すら発せず、喉を空気が通り抜ける感覚が意識を保つための唯一の命綱だった。


 既に両目は取られ、片目はビンの中で、もう片方は既に代償として支払われ、もうこの世には残っていなかった。


 歯も数本持っていかれた。片腕も失った。腹を開かれ、臓腑も使われた。


 麻酔なしの手術をされているような、そんな感覚だった。なら何故、今ミトが生きているのかと言うと、


「『気後れ』という呪術があってね。本来は相手の意識を肉体と少しづつズレさせて、いつの間にか深手を負ってるなって驚かせる嫌がらせなんだけど」


 シュガーはこの『気後れ』を、精神と肉体ではなく、ミトの命と肉体に適用した。


 命はその源流を失い続けても、それに気づくのが遅れれば、死ぬまでの時間を引き伸ばせるということだ。


 本来、命という概念に干渉する呪術は、かなりの代償を必要とする。この方法を使えるのは、それこそ命を代償にした呪術のみだ。


 自らの命を犠牲に、他人の命を奪う。『道ずれ』という原初の呪いに最も近い呪術が、その最たる例だ。


 だが、シュガーはそんな大層な代償を支払ってはいない。なら、何故ミトがこの呪術を受けているのか。


 それは、術者がシュガーでないことに起因している。


「君にまさか、呪術の才能があるとは思わなかったよミト君。僕のトラップに今までかからなかったのは、君の審美眼のおかげかな?」


 そう、ミトには呪術の才能があった。彼の体は呪術の影響を受けやすく、彼は呪術そのものへとセンスが飛び抜けていたのだ。


 『唆し』という呪術を用いれば、ミトに自らの命を犠牲に『気後れ』を発動させることは容易だった。シュガーにとって、ミトは最高の呪術の実験体であったのだ。


「僕のために来てくれたのってくらい、君は僕が求めていた宝物だよ」

「────ッッ!!」


 血塗れの手袋で、ミトの開かれた腹の中へ手を滑り込ませるシュガー。体内を弄られる不快感と、内側を掻き回される痛みに絶叫するミト。


 既に声帯も取られているから息が吐き出されるだけ。舌も亡くしたので発音もできない。瓶の中に残った眼球から体内を好き勝手に蹂躙される自分を見せつけられて、ミトは精神と肉体、両方を蝕まれていた。


「次は、何を使おうか」


 次は、次は次は次は次は


「次は、何を起こそうか」


 探求に終わりはない。満足いくまで、ミトの苦痛は終わらない。


「もう使えるものが少ないなぁ……それじゃあ、最後にしよう」


 最後、最後だ。そう、最後だ。最後なんだ。これで、全て終わるのだ。


 もう正常な判断もできない。痛みに支配された脳は腐っているも同然。メロのことも、ライラのことも、ナナメのことも、何もかも忘れて、今はただ、この地獄から抜け出すことしか、願えなかった。


 だから───


「まぁ、ここまで、かな」


 ズタボロの体へ、死に向かう体へ、それでも尚健気に血を送り続けていた心の臓が引きちぎられた。


「この心臓を捧げよう。僕が作りあげた最高の呪術は、騎士団長すらも凌駕する。そのはずなんだ」


 愛おしそうにミトの心臓を手で包み、シュガーは血を吐き続けるそれを片手で天へと掲げた。


「『神封じ』」


 その瞬間、とある呪術がサイドレン領全ての範囲で発動した。


 呪術の開花に静かに浸っているシュガーを置き去りに、ミトは果てしない喪失感とゆっくりと遅れてやってくる奈落の予感に、ミトは安堵してしまった。


 空っぽの内側を晒し、自慢の喉も、男としての尊厳も、生き物として必要な器官も、ほとんどを失ったミトは、瓶の中から自分の無様な姿を見下ろして───


「──あ、死んだね」


 命を、落とした。


~~~


「はぁ、はぁ、はぁ……!!」


 走って息を切らすことなんて久しぶりだ。それほどまでに今は焦っていて、逼迫していて、動悸が激しくて、罪悪感に苛まれて、心が苦しくて───こんな思いは初めてだ。


「ミト、ちゃん……さぁ……!!」


 殺し屋として凍てついていた心が、生温い陽光で溶けかけてしまっていた。


「ッ、あれは……!?」


 走り抜ける森の中、夜空を駆ける炎の馬を目にしたナナメが歯噛みする。ナナメも相当な速度で走っているのに、頭上の炎は流星の如くアプルーラへと飛んでいく。


 やがて、背後に沢山の敵の気配を感じ取り、ナナメは迷う。


 ここで敵を攻撃するか、走って街へ行くか。


 ───街へ行って、どうする?


「あれ……ボク……なんで……」


 どうして、走っている?どうしたくて、息を切らしている?どうなって欲しくて、こんなにも泣きそうになっている?


 答えの出ない疑念が頭の中を駆け巡り、それに反して足は動く動く動く。


「なんで、なんでなんでなんで……!!」


 悩んで、苦しんで、悶えて、やけくそになって刀を振るう。


 『天命』が発動し、木々が根こそぎ切り飛ばされ、轟音を立てて森を荒らしていく。


 胸の内に広がるモヤモヤした熱情が、冷静でいようとするナナメの思考を掻き乱していく。結われて絡まった精神は、解けて真っ直ぐに戻ることなく、状況は悪化していく。


 初めてすぎて分からない。どうすればいいのか分からない。誰を殺せばいいのか分からない。ミトにまた止められないようにするには、どうすれば。


「絶対、見捨てていいのに……助けるとかどうでもいいのに……『魅惑』に、場所を、言えば……」


 ただそれだけでいい。そうする自分が一番の正解の世界線。だが今、ナナメは正解を引くために走ってない。


 理解、出来ない。出来ない出来ない出来ない出来ない出来ない。理解が理解が理解が理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解理解────


「──理解、出来ない、なら──」


 足は止まらない。変わらず状況は動き続ける。


 ならば───正解に徹してきたナナメの心だって動き変わる。


「──納得、できれば、いい」


 『へレディック』には居られなくなるかもしれないが、納得ではなく理解を優先することを体が拒否した今、殺戮兵器でしかないナナメには理性という安全装置は意味を成さない。


 やることは、そう───


「ミトちゃんを……助ける!!」


 目的と行動意欲の方向性が一致した。この時、推進力はその他の心構えの時の能力を凌駕する。


 地面が抉れるほど強く踏み込み、横に流れていく景色の速度が上がり、邪魔が木々を片っ端から切り飛ばして、求めるものへ一直線に迫る。


「は───」


 突如、森を抜けて眼前に拡がったのは、窪んだ土地に設立された、サイドレン領の中で最も大きな街、アプルーラ。


 その四分の一が、『へレディック』により既に壊滅状態にあった。


 その壊滅の元凶であるその女は、一番目立つ場所で、まるでナナメが来ることが分かっていたみたいに仁王立ちしていた。


 一段階上の階級の仮面越しにナナメを視線で撃ち抜き、それだけでナナメへと司令を伝えた。


 ───どうして欲しいか、言え。


「ッ、メロォォォオオッッ!!!!」


 ナナメは、人生で一番の大声を張り上げて、


「ボク達を、助けてよ───ッッ!!!」


 ナナメの目に映る、夜の闇と月光。その狭間に、紫電が閃いた。


~~~


「さてさて、自由にいじりまくっちゃったからなぁ。片付けがすごく大変だ」


 血塗れの鎖を解き、器具を拭き取りながら、シュガーはそう呟いた。


「まぁ、色々やりたかった呪術も出来たし、『神封じ』はアルゲータ達の助けになるはずだ。片付けを終えたら、援護にでも──」


 そう先を見据えたシュガー。彼は違和感に声を上げる。


「───ん?」


 その違和感は、段々とシュガーの五感を刺激し、現実味を帯びてくる。


 ──彼の背後に、人の気配が突如として出現した。


「ッ」


 咄嗟に身構えて勢いよく振り返ったシュガー。肝が据わっていて、普段驚くことが少ないシュガーでさえも、眼前の光景には流石に目を疑った。


 そこには、そこにいたのは───


「ぁ、あれ……あぇ……ぼ、僕……」


 切り開かれた死体の更に先、全くの健康体であるミトが、困惑した表情で地面に凹んでいた。


 ミトが、あの最高の実験体が、シュガーの前に再び現れてくれたのだ。


 そして、シュガーの『真実』が、ミトの『天命』を映し出した。


 『真実』は、相手の『天命』とその内容をシュガーへ教えてくれる能力。この上なく便利な『天命』であるのだが、一つだけ欠点がある。


 それは、相手が『天命』を持っていなかった場合、生涯を通して無能力なのか、未発現なのかが見分けられないという点だ。


 『天命』の発現率から考えて、そこまでミトを気にしていなかった。だが、こうなっては話が変わる。


 ミトの『天命』は、『へレディック』の一員として放っておいていいものではない。


 その『天命』に与えられた名前は───


「『死に狂ひ』」


 そうそれは、無限の残機という最強の手札。


 しかし、この場面ではそうではなかった。


 ミトの本当の地獄は、ここから始まるのだ。


「ぃ、ぃや……」


 逃げ出すことも出来ず、ミトの体が鎖に縛り上げられる。


 そこへ、鈍い光を跳ね返す刃物が降りてくる。


「ミト君、君が僕の前に現れてくれて……本当に良かったよ」


 痛みが、頭蓋を揺らした。

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