薄ら暮れ
第10話
「木下、入ってくれ」
石上の後輩らしい男が、一人、卓を囲んだ俺たちのもとに寄ってきた。
「さて、枇杷島さん。この店卓の特殊ルールはご存じですね?」
「理解はしている…が、レートの変更によって生じた支払はどうなるのか、そこのところだけ分からない」
「良い質問ですね…丁度私が説明しようと思っていたことですよ。例えば、子のAがBから跳満を和了ったとします。このとき、点棒の移動は一万二千点のみで大丈夫です。しかし、その時のレートで六千点分の金額は、負債として積もり、半荘終了時に清算します。卓の側面を見て下さい…点棒入れの他に、三つ引き出しがあるでしょう。それぞれ、下家、上家、対面と書いてあります。そこに、この黒い点棒を入れて下さい…終了後、支払う負債のメモのようなものです。さっきの例えで言うところの、AとBが対面なら、対面と書かれた引き出しに、Bがこの黒い点棒を六千点入れる。こと黒い点棒は勝ち負けに一切関係しません。が、勝負には関係します…フフ、ここのところがこの店卓の面白いところなのですが…私が前もって言ってしまうのも興醒めでしょう。どうせたどり着く展開です。それと、ツモ和了ではどれだけ高い手でも黒点は発生しませんのでご了承を」
それだけ言うと、親決めが始まった。東南西北を伏せて混ぜ、めくるのだ。石上が三枚目をめくったところで、「席順は決まりましたね」と、牌を再び伏せてしまった。決めた通りに、枇杷島さんと石上、木下というやつが椅子に座っていく。
「あれ…麻雀って、三人でもできるんですか?」
石上が、犬歯まで見える笑いを俺に向ける。
「何言ってるんですか…四人目は貴方でしょ」
突然のことに、俺は言葉を失う。
「悪いな、俺が決めた」
「はぁ!?」
「そう怒るな。騙されたにしろ、四億いくらの損害を出したのはお前だ。実力で取り替えすっきゃないだろ」
初めて枇杷島さんの顔に、冗談めいた顔色を見た。俺は初心者なのに、だとか、残りの一人は親なのに、だとか…言えることは山ほどあったが、言わないことにした。枇杷島さんのことだ、何か策があっての事に違いない。
俺は渋々椅子に座り、右隣の枇杷島さんに教わりながら、必死に牌山を積んでいく。途中、何度か牌を崩しながらもやっと局の始まりまでこぎつけた。
そうして、配牌を開こうとした瞬間、俺はふと重大な事実を確認し忘れていたことに気が付いた。
「待ってください、俺の分の点は誰が支払うんすか。俺、財布に一万円もないですよ」
同じく配牌を開こうとしていた卓の視線が、俺に集まる。口を開いたのは、またしても石上だった。
「誰がが何も…私は貴方が勝負するんですから、貴方が払うんでしょう…?」
嫌味の色のないその一言が、俺にはむしろ突き刺さる。
「ま、待てよ…!」
机に手をついて立ち上がる俺の目の前に、すっと腕が伸びてくる。枇杷島さんだ。俺はつい、押し黙る。
「…少し待ってくれ。話を付けてくる」
そう言うと、枇杷島さんは席を立った。俺も慌てて、枇杷島さんに付いていく。
「この辺でいいだろう…互いに見張れる」
枇杷島さんは、声が聞こえない程度には遠く、しかし万が一にでも手牌に仕込みをされない程度には近い辺りで足を止めた。
「枇杷島さん…俺は正直、貴方のことを結構すごいと思ってますよ。それでも、俺という足枷を付けて何がしたいのか…説明してもらわないと困ります!」
枇杷島さんは、俺の問いには答えずに、ただ黙って紙を一枚渡してきた。
「まだ開くな。そこにお前にしてほしいことが全て書いてある…対局が始まってから開くんだ」
「じゃ、じゃあ作戦はちゃんとあるんですね!?」
「ああ…」
そう言われて、俺は一旦紙をポケットに突っ込む。
「それで、結局点数は…枇杷島さん?ちょっと!」
まだ話は終わっていないというのに…!勝手な人だ、もう話す気はないらしい。
すでに、枇杷島さんは石上達に声が届くほど進んでしまっていた。
引きずってもう一度話をしようにも、きっと応じないだろう。やるしかない、打つしかないのだ。俺のポケットで開かれるのを待っている、紙一枚を頼りにして…!
卓についたら、枇杷島さんは手短に、まるで話し合いの結果を伝えるように言い放った。
「こいつの点数の分も、俺が持とう。マイナスも黒点も、俺につけてくれて構わない」
「ええっ!?」
「どうした?」
「いや…えっと…何でもないです…」
枇杷島さんは、あくまで事前に相談したという体らしかった。それなら、ここで余り俺がとやかく言うとマズいかもしれない。手遅れかも知れないが…一旦黙りこくることにした。
誤魔化すように、枇杷島さんが手牌を開く。それに続いて、俺とディーラーも手牌を開いた。理牌…バラバラの手牌を、数牌は子ごとにまとめたり、字牌は端に寄せたりする。俺もディーラーも、しばらく理牌をしていた。
違和感に気づいたのは、やっと手牌を分類しきってからだった。枇杷島さんが、理牌をしていないのだ。手牌を開いてから、ずっと両手を膝の上においている。俺は直感的にその意味を理解し
それほどに恐ろしい相手なのか…!
理牌というのは、少なからず相手に情報を与える行為だ。ある程度の法則性をもって、牌を移動させるのだから、数牌が、三種類の子の内、どれかに偏っていれば、どの子かは分からないにしても重大な情報になる。また、逆さまになっている牌をひっくり返すことも、情報になる。麻雀の牌の絵柄には、上下対称牌があるのだ。白なんかは当たり前にそうだし、四・五・六・八・九の索子や、二、四、五、八、九の筒子は上下対称になっている。ひっくり返すという行為は、それだけで牌を絞り込ませてしまう。しかし、しかしだ…普通、そんな情報、まともに活用できない。第一、自分の十四牌に加えて、他人の十四牌を…それも、一牌一牌がそれぞれ五、六牌の分岐を持っている十四牌を覚えるなんて、普通出来ない。理牌をしなければ、待ちを勘違いしたり手の進みを正しく認識できないかもしれないのだ。そのリスクと、リターンは釣り合っているのだろうか…釣り合っているのだろう。だから枇杷島さんはただそこに座っているのだ。つまり、石上か木下。もしくはその両方が、そんな僅かな情報すら確実に管理できる、すさまじい打ち手と言うことになる。
戦々恐々としながら、俺は理牌を終える。そして、第一打牌を選ぶのだ。俺は無難に、一枚しかない字牌を切る。対局開始というわけだ。となると…他の三人が牌を捨てる間に、ポケットの中の紙を、言われた通り確かめてしまいたい。こっそりと、太ももに手を伸ばす。柔らかい布地の中に、鋭く角ばった紙を探りあて、取り出し、開く。
長々書いてあればどうしようという俺の心配は、杞憂だった。しかしそれは決して良い意味ではなかった
『真っ直ぐ打て』
まるで活字のような、折り目正しい筆跡で、そうとだけ綴られていたのだ。
「おい」
枇杷島さんが、横から俺に声をかける。俺がツモって、捨てる番らしい。山に手を伸ばして、牌を手牌に引き込む。
三萬五萬七萬七萬 三筒五筒六筒七筒 六索六索九索 東中 四筒
東を捨てる。本来、五六七で面子が完成していて、浮いていた三筒は切ろうと考えていたのだが、四が入ってくると話は変わる。三と四で、面子になる牌が二つある優秀な待ちになったからだ。受け入れられる五筒は一枚自分で抱えているとはいえ、優秀には変わりない…いや、それだけじゃない。五六七が既にあったところに、四が飛び込んできたので認識できなかったが、三四五と六七という分け方もできるのだ。この場合、待ちは五と八。三四と五六七という分け方の待ちである、二と五もそこに加わる。五は重複しているから、三筒四筒五筒六筒七筒という形は、三つもの牌を待つ、二つの面子を生み出せる優秀な待ちだったのだ。一瞬ではあるが、俺は金がかかっているというプレッシャーを忘れて、麻雀というゲームの持つ奥深さに、楽しさを感じることができた。巡目が来るたび字牌を捨てて行き、俺はついに数牌に手を掛けた。と、言ってもそれほど難しい取捨選択じゃない。未だに浮いている九索を選んで、二索と交換する。どちらも浮いているのには変わりないが、二の方が九よりも未来があるだろう。そう思って九索を打つと、枇杷島さんが手牌を倒す。
「ポン…」
中々、癖のある倒し方だった。かなり離れた別々の二牌を、順に倒していったのだ。理牌をしていないからだと、すぐに分かった。理牌を枇杷島さんがしていないということは、他人の理牌をねめつけるやつがいるということ。そして、枇杷島さんのこの行動でそいつは判明した。向かい側、対面している木下が、枇杷島さんの異様な行動に、明らかに反応したのだ。手牌と枇杷島さんとの顔を幾度も見比べる。他人の理牌に気を配るということは、枇杷島さんが理牌していないことなど百も承知。枇杷島さんが警戒している強者は俺を騙した男、石上ということになる…!
やっと平静を取り戻した木下が自分の番を終えると、石上の番だ。石上は、思考するときの癖なのか、ツモってきた牌なんかを、卓にぶつけてコン、コンと鳴らす。枇杷島さんの顔をちらりと見ると、一の筒子を切り出した。特に攻めた打牌には思えないが、上級者ならではの闘いにおける機微があるのだろう。俺はとにかく、枇杷島さんに伝えられた言葉…「真っ直ぐ打て」!それを遂行していた。と、いうよりそうするほかなかったのだ。もう少し知識があれば、プレッシャーに負けて弱い選択肢を取っていたかもしれない。枇杷島さんは、俺にそういう選択肢を取るなと言いたいのだろう。しかし…俺はどういう風にしたら危険で、どういう風にしたら安全なのか、どういう打牌が危険なのか。そういう事が分からないからだ。頭を掻いて悩みつつも、とりあえず四面子一雀頭。それと、聴牌したら立直。それくらいしか結局頭には無い。それでも、俺の打牌はなんだかんだと裏目に出ず、八巡目、聴牌…!
三萬四萬五萬七萬七萬七萬 一筒三筒四筒五筒六筒七筒八筒 二索六索六索 四索
一筒を捨てて立直をかけることにした。ここでもない、あそこでもないと点棒入れを探り、千点棒を出す。
「立直!」
枇杷島さんは、黙って山から牌を取る。この僅か数巡の間に、枇杷島さんは俺から三度捨て牌を取った。結果として、晒されていない牌は四つしかないという状況である。その四つを除いた枇杷島さんの手牌はこうだ。
一萬一萬一萬 九萬九萬九萬 九索九索九索
そして、枇杷島さんは六の索子を捨てる。枇杷島さんからは上がらないと決めていたとはいえ、ちょっぴり緊張した。後は、木下か石上が捨ててくれれば良いわけだが、木下は恐らく石上に劣るとはいえ俺よりは麻雀巧者。容易には出てこないだろう。
しばし悩んだのちに、木下が手から牌を捨てる。三索…!
「ロ、ロン!」
見よう見まね、手牌を倒す。木下の顔が強張るのを尻目に、俺は枇杷島さんの方を見る。点数が分からないのだ。
「立直のみに一発、ドラが一つと…僥倖だな、表示が六萬、裏三つだ。満貫だな。八千点」 枇杷島さんが言い終わるより先に、木下が腹立たし気にややぶっきらぼうに八千点分と思われる点棒をよこした。千点棒が赤丸一個と言うことしか知らない俺は、救いを求めて再び枇杷島さんの方を見る。静かに頷いたので、八千点あるのだと思って、点棒入れに八千点を収めた。
「さて、次の局…と行きたいところですが、そちらの初心者さんに、もう少しルールを教える時間を取るのはどうでしょうか?こちらといたしましても、大金がかかった勝負は心労があります。休憩が欲しい」
石上の提案に、枇杷島さんは頷いて答えた。
卓には、俺と枇杷島さん、二人だけが残された。
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