第5話「昼下がりの陰謀は、出汁で剥がす」

 朝の仕込みを終え、学園の食堂が“カリ、ふう、コト”の三拍子で目を覚ます頃。

 私は配膳台に小さな張り紙を出した。


〈本日の朝:五分で起きる匂いII(柑橘+白胡椒の“遅れてくる覚醒”)〉

〈本日の昼:五分で荷造りできる弁当(噛むおにぎり+反逆サラダ・携帯版)〉


「お嬢さま、弁当の“噛むおにぎり”、どうして角が丸いんです?」ミナが首を傾げる。


「角ばったおにぎりは、角ばった言い合いを呼ぶ。角は噛んで丸くしておくのが礼儀だよ」


「むずかしい……でも可愛いです」


 ブラークは“胃袋の図書室”の黒板に、栄養書士のコメントを挟む。「本日のタンパク:豆と卵。午睡防止にカフェイン控えめ」


「控えめ大事。午後に反逆はサラダの役目だから」



 王宮。

 総料理長ゲルナーの顔色はよく、カイ・レンストの足取りは昨日より半拍速い。厨房の香りの矢印も、すでに議場の方向に揃っていた。


「今日は?」カイ。


「眠らない午後セット。

 一、金糸卵の薄焼き“折り本”(読むみたいに噛める)

 二、白いラグーの小さな器(眠気を起こす脂を“影”に)

 三、会議机の上で音がしない果物(切り方は“囁き”で)」


 ゲルナーが背中で笑う。「音がしない果物?」


「梨。刃の角度を少し寝かせて、切断音を“ほとんど過去形”にします」


 仕込みは淡々と進む——はずだった。

 鍋に火を入れた瞬間、私の鼻がぴり、と警告した。香りの矢印が一つ、逆向きだ。甘さの芯にえぐみが混じる。

 私は〈台所見取り〉を強め、蒸気の流れを目で追う。換気口の手前に、見慣れない薄布。魔法陣の一部に小さなズレ。〈香り誘導〉の線が、半度だけねじれている。


 ——誰かが、細工した。


「カイ、換気口の前、薄布を誰が?」


「薄布?」彼が覗き込み——眉が動いた。「見覚えがない。誰が……」


 ちょうどその時、香りが跳ねた。ねじれた風が、ラグーの鍋の蓋を撫で、香りの“背骨”を折りかける。味は背骨が折れると駄目だ。


 私は鍋の前に立ち、〈香り骨格矯正〉をかける。折れた背をやさしく起こし、蒸気の軌跡を人の顔の高さへ戻す。

 同時に布を外し、魔法陣の線を一筆だけ書き直す。半度のズレは、会議を半時間迷子にさせる。


「誰がやった?」ゲルナーの声が低い。厨房の空気が、金属の音を飲み込む。


 私は“匂いのゆりかご”を手繰る。〈匂跡追尾〉。

 布に残った香りは——獣脂の影、それと古胡椒。王宮の標準調味庫の胡椒ではない。粗悪な外部品。

 目を上げると、扉の向こうに納入業者の腰巾着がちらりと顔を見せ、すぐ引っ込んだ。

 ——王宮の味が“平穏”に寄ると困る勢力。利権の匂いは、たいてい古い油の匂いと似ている。


「証拠は?」カイが短く問う。


「味で剥がします」


 私は急いで小鍋を出し、透明ブイヨン審問の支度をした。

 骨と香味野菜だけの澄んだ出汁。そこに、問題の布を上にかざす。布目から落ちる微細な粉が、湯面に黒い星のように広がる。

 次に、業者が納めた胡椒と、王宮標準の胡椒を一粒ずつ砕いて落とす。

 湯気の匂いが二股に分かれた。片方は細く長く、片方は短く刺す。

 私は見学に集まった調理人たちの鼻へ、順番に湯気の矢印を送った。「どちらが長く座れる匂い?」


「……こっち」「長く座れる」「刺さらない」


 声が揃う。

 私は布を持ち上げ、衛生監察官イラの昨日の検査票の写しを、布の上にそっと載せた。「布がある限り、数値は悪化します。書面にも鼻にも、ウソはつけない」


 納入側の男が蒼白になり、逃げ腰になった。

 カイの足が一歩。彼は無駄な言葉を使わない。「出入り停止。調査」


 ゲルナーが短く頷く。「味で剥がすのは、気持ちがいいな」


「悪い匂いは、出汁に勝てません」私は鍋を戻し、調理を続けた。「続けましょう。会議は拍で待ってくれない」



 昼議の間。

 “金糸卵の折り本”は、読むみたいに噛める。紙の端をめくる癖がある文官ほど、噛む回数が一回増える。

 白いラグーは、脂を〈影化〉して、舌の上に跡を残さない。

 梨は、音がしない。


「今日の議論、棒読みが減った」王太子が横目で笑う。


「棒読みは、眠気の方言です」私。


 参事官は、悔しいけれど納得顔でうなずく。「昼下がりの沈没率、確実に下がっている。机の下の足踏み回数もだ」


「足踏み?」カイが視写器板をめくる。


「会議の忍耐を測る隠し指標だ。机の陰は嘘をつかない」


 王太子はさらりとサインを入れ、紙を返した。「七日目に“公開の昼”をやろう。議員と厨房、学園の寮長も呼んで、油と平穏の関係を口で説明してもらう」


「公開?」私は息を整える。「条件が一つ」


「また条件か。どうぞ」


「揚げ物は出さない。公開の場で“音の派手さ”に頼るのは、議論の足場を滑らせる」


「承知した。うまい地味で勝つ」



 学園に戻ると、昼の弁当配布は小さな列ができていた。

 “噛むおにぎり”は、中身が“議題”だ。昆布の“待つ旨味”、鰹の**“すぐ結果”、梅の“方向転換”**。学生たちは三種を選び、午後の講義の性格に合わせて噛む。


「五分で荷造りできた!」

「噛んだらやる気が出るのズルい」


 ミナが頬を緩ませる。ブラークは「午後の居眠り横断、昨日比で半分」と静かに記録した。


 ——が、一点の曇り。

 配膳台の隅で、お嬢さま風の生徒が三人、口を尖らせている。「寮母見習いが人気取り」「王宮に色目」「庶の匂いがする」

 言葉の“脂”が古い。古油は匂いでわかる。


 私は近づいて、丁寧に一礼した。「ご意見、ありがたく。午後のおやつで、匂いの好み診断を出します。庶と貴、どちらの匂いが勉強の敵か、鼻に聞いてみましょう」


 彼女たちは面食らい、扇子を閉じた。「……勝負、ということ?」


「鼻の公正に委ねます。香りは階級に従わないので」



 夕刻、差配官エイドルが弁当を取りに来た。彼の手帳には、笑顔の棒グラフが三本。王宮、学園、役所。微細な揺らぎが、今日の陰謀の小波でぴくりと動いている。


「利権の布、押さえたと聞いた」

「出汁で剥がせました」


「政治的にも剥がれやすい相手だ。六日目の再評価、王宮側からも“笑顔指標”のヒアリングを入れる。君の“厨房KPI”が、財務の言葉に翻訳される初日になる」


「翻訳、好きです。味⇄数字の往復は、平穏の橋になる」


 エイドルは弁当の梨を一片摘んで、音のしない咀嚼を試し、満足げに頷いた。「議会の床が静かなのは、清掃部と君の功績だな」



 夜。

 私は“おやつ実験”の準備をした。名付けて**「庶と貴の嗅覚問答」。

 皿A:庶の匂い——焼いた味噌の端、出汁でのばした醤、炒めた葱の元気**。

皿B:貴の匂い——白胡椒の薄影、軽くまとった柑橘の皮、澄ましたバターの礼儀。

 どちらも攻撃性ゼロで構成し、脳の疲労がどちらに寄るかを見せる。

 お嬢さまたちは、半信半疑で鼻を近づけた。

 Aを嗅ぐ——目の焦点が近くなる。

Bを嗅ぐ——目の焦点が遠くなる。

 私は静かに言う。「近くに焦点が合う日はAを。遠くに合わせたい日はBを。階級ではなく、用途で選ぶのが台所の作法です」


 沈黙が一拍。やがて扇子の子が、そっと笑った。「……鼻は階級に従わない。覚えておくわ」


「ついでに一口どうぞ」私は**“角のないおにぎり”**を差し出す。「二回だけ目を閉じて」


 彼女たちが噛む。カリ、ふう、コト。

 言葉の脂が、少し落ちた。



 片付けのあと、私は地下貯蔵の見回りへ。昨夜の黴退治は効いている。空気の重しが取れ、樽の風通しが良い。

 隅に一つ、古い木箱。蓋を開けると——家紋入りの古い皿が出てきた。縁の銀が薄く黒い。

 〈銀磨き〉で柔らかく撫でると、家紋が現れた。ステンマイア家。

 私は皿を抱え、台所の明かりに戻る。差し押さえの影の中でも、この皿は使われるのを待っていたのだろう。


「お嬢さま、それ……?」


「家の拍だよ。ここから黒字化の器にする」


 私は壁の余白に、今日もチョークを滑らせる。


〈今日の家政Tips:悪い匂いは出汁で剥がす。鼻は階級に従わない。角のないおにぎりは、角のない午後を連れてくる。〉


 明日、王宮は**“公開の昼”の段取り固め**。学園は**“試験前の舌”の準備**。

 六日目の再評価まで、あと二拍。

 平穏は、毎日二勝一敗の積み上げ。たまに三タテ。

 そして、台所は——次の拍のために、静かに呼吸を整えた。

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