第6話 最下位

暗闇。まず聞こえてきたのは、スマホが机上で震える、不快な通知音の連続だった。次いで、無数の人間が一斉にキーボードを叩く、乾いた打鍵音。その音が空間を埋め尽くし、俺は身動き一つ取れないまま、その中心にいた。

 目の前には、虚空に浮かぶ無数のコメント。


『どうせ天神の金だろ。パトロン見つけてよかったなw』

『信者も教祖もキモすぎ。早く捕まれよ犯罪者』

『こいつのせいで俺の推しがオーディション落ちた。マジ許さん』

『ポッと出が調子乗んな』


 文字が、じわりと滲むように実体化し、冷たい指となって俺の肌を撫でていく。息が詰まる。耳元では嘲笑う今宮の声、蔑む佐々木の視線。そして、その全てを操る、顔のない黒い影が、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。


「――ッ!!」

 俺は息を吸い込むこともできず、ベッドから跳ね起きた。

 心臓が肋骨の内側を滅多打ちにしている。悪夢の残響が、スイートルームの静寂に溶けていく。

 その時、軽やかなノックが扉を叩いた。「おはようございます、神谷様。朝食をお持ちいたしました」

 ワゴンに並ぶのは、完璧な半熟のエッグベネディクト、色鮮やかなアサイーボウル、そして絞りたてのオレンジジュース。ホテルマンは、俺が「一般人ですから」と呟いても、完璧な笑顔で「滅相もございません」と返すだけ。そして、深々と一礼し、音もなく部屋を退室していった。ここは、居心地のいい金色の鳥籠だ。


 クローゼットには、俺のものではない、ハイブランドの服がずらりと並んでいた。黒を基調とした、ミニマルなデザインのジャケットを手に取り、鏡の前で身体に当てる。

「…微妙だな」

 独り言が漏れた。

「俺なんかが、モデルでいいもんかねえ…」


【展開①:日常への逃避と光の影】

 ロビーに降りると、折り目正しいホテルマンが深々と頭を下げた。

「神谷様、お出かけでございますか。お車の手配をいたします。どちらまで?」

「いや、いい。電車で行く」

「しかし、神谷様のお立場では…」

「いいから。そういうの、まだ慣れないんでね。SPもつけなくていい」

「…承知いたしました。ですが、何かございましたら、すぐにこちらの番号までご連絡を」

 差し出された名刺を、俺は無言で受け取った。逃げるように回転扉を抜ける。駅の改札でICカードをタッチすると、無情な電子音と共にゲートが閉まる。残高不足だった。舌打ちしながらチャージ機に向かう。高級ホテルでの豪勢な朝食と、数千円のチャージ。そのギャップが、今の俺のちぐはぐな立ち位置を物語っていた。


 撮影スタジオの眩いライトが、俺を現実から切り離していく。

「神谷さん、もう少し肩の力抜いていきましょうか。リラックスして…そう、あ、今のいい!最高です!」

 男性カメラマンが興奮気味にシャッターを切り続ける。俺は言われた通りに少し体を傾けただけなのに、何がいいのかさっぱりわからない。

 撮影が終わり、スタジオを後にする。帰り際の廊下で、すらりとしたモデルの女性とすれ違う。彼女は俺の目の前でわざと立ち止まり、吐き捨てるように、冷たい声で言い放った。

「邪魔」

 スタジオを出たところで、スマホが震えた。画面には、相沢詩織からのメッセージが表示されていた。

『相沢詩織:お疲れ様です。神谷さん。』

『相沢詩織:昨日の件で、至急お話したいことがあります。お昼はいかがですか?』

『相沢詩織:お店は予約しておきます。』

 ビジネスライクな文面に、有無を言わせない意志の強さが滲んでいた。


【展開②:密室の契約】

 指定されたのは、全室個室の和食店だった。洗練された私服姿の彼女は、俺を静かな個室に促した。

「オーディションでの神谷くん、素敵だったわ」

 詩織の口から語られたのは、佐々木が時折口にしていたという、**「私たちをバックアップしてくれる、もっと上の人がいる」**という不気味な言葉。

「これは、単なる復讐じゃない。『戦争』よ。あなたには、信頼できる『剣』と、正確な『情報』が必要になる。私を、あなたの情報源として使って。でも、私一人じゃ足りない」

 詩織はそこで言葉を切り、俺の目をまっすぐに見つめた。

「あなたを裏切った男…今宮という男がいるわね?」

「冗談じゃない!」俺は思わず声を荒らげた。「あいつとのコラボ配信、あんただって見ただろ! 俺を笑ってたんだぞ!」

「ええ、見たわ。だからこそ、使えるのよ」

 詩織は、全く動じることなく言い放った。

「彼は、利益のためなら魂すら売る男。そして、ITの天才。敵の懐に潜り込むには、彼のような『毒』が必要不可欠よ。信用なんてしなくていい。利用するの。そして…」

 彼女は、冷たい目で俺を見据えた。

「使えないなら、捨てればいいじゃない」

 彼女の瞳は、ファンや恋人を求めるものではなく、信頼できる「共犯者」を求めるものだった。


【クライマックス:事務所と、共犯者の流儀】

 その日の夕方。俺は一人で、湾岸エリアにそびえ立つタワーマンションの最上階、新たな事務所を訪れていた。

「待たせたわね」

 現れたのは玲奈だった。彼女が纏うのは、権力そのものを仕立てたような、黒のパンツスーツ。インナーのシルクブラウスの深い光沢が、彼女の冷徹な美しさを際立たせていた。

 しかし、彼女は一人ではなかった。その後ろから、派手な柄シャツに色付きメガネをかけた、チャラついた男――今宮が、ひょこりと顔を覗かせた。


 脳裏に、悪夢がフラッシュバックする。嘲笑う今宮。血が頭に上り、全身の筋肉が硬直する。殺意。純粋な殺意が、俺の思考を塗り潰そうとする。だが、その瞬間、詩織の『利用するのよ』という冷たい声が、頭の中で響いた。俺は、奥歯を強く噛み締め、燃え盛る怒りを理性の檻に押し込めた。


「圭佑。感情的になるのはやめて。彼は使えるわ。…あなたも、もう分かっているはずよ。私はこれから、佐々木の件で警察関係者と後処理があるから、後のことは任せるわ」

 玲奈はそう言い残し、ヒールの音を響かせて部屋を出て行った。残されたのは、俺と、俺の人生を滅茶苦茶にした男。


 今宮は、悪びれる様子もなく、懐から取り出した扇子をパチンと広げた。

「で、早速なんすけど、手土産ありやすぜ。あんたを掲示板で誹謗中傷したアンチ、一人特定完了。この都内の大学生」

 彼はそう言うと、自分のスマホを取り出し、慣れた手つきで電話をかけ始めた。

「もしもし? 神谷圭佑さんのファンなんですけどぉ」

 今宮は猫なで声で相手を油断させ、一瞬で用件を済ませると、通話状態のままのスマホを俺に差し出した。

「ほら、どうぞ。ご本人登場っす」

 俺はスマホを受け取り、耳に当てる。電話の向こうで、相手が息を呑むのが分かった。

「神谷圭佑だ。掲示板で俺を誹謗中傷したな?」

「……はっ、番号が割れたからって、何ができんだよ?」

 強がる相手に、俺は静かに告げた。

「別に。ただ、一つだけ言っておく。今夜、お前の人生の全てを懸けて、必ず、お前の元へ辿り着いてやるからな」

 俺は一方的に電話を切り、スマホを今宮に投げ返した。

「行くぞ」

「りょーかい」

 今宮は、楽しそうに扇子をパタパタと仰ぎながら、俺の後に続いた。


【ラスト:王の策略と、聖女の祈り】

 その夜。俺は今宮が運転する車の助手席に座り、大学生のバイト先であるコンビニの前で張り込んでいた。

 バイトを終え、疲れきった顔で出てきた大学生の前に俺が降り立つと、彼は絶叫し、全力で逃げ出した。

「――逃がすかよ!」

 今宮がアクセルを踏み、車が後を追う。俺はポケットからスマホジンバルを取り出し、配信を開始した。

『【神谷圭佑・緊急生放送】リアル鬼ごっこ、始めます。』


 大学生は路地裏で転倒し、車がその行く手を塞ぐ。俺は車から降り、泣きながら命乞いをする彼に、冷徹な尋問を始めた。

「おい。お前、田中って男と繋がってるか? とぼけるな。お前らみたいな奴らが集まる、アンチコミュニティがあるだろ?」


 俺が、さらに問い詰めようとした、その瞬間だった。

「――やめて、圭佑くんっ!!」

 甲高いブレーキ音と共に、タクシーから莉愛が飛び出してきた。

「掲示板を見たの! 『神谷圭佑から電話きた』って書き込みがあって、まさかって思ったら配信が始まって…!」

 彼女は、俺と大学生の間に、震える足で立ちはだかった。

「お願い、圭佑くん…! こんな、こんな悲しい顔、見たくなかった…!」

 莉愛の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちる。


 その涙が、俺の頭に上っていた血を、一気に冷ましていく。

 俺はゆっくりとジンバルを下ろし、配信を停止した。そして、地面にへたり込む大学生を一瞥し、絶対零度の声で宣告する。

「…お前の犯した罪は、必ず法の下で償ってもらう。だが、今は莉愛の顔を立ててやる。――失せろ」

 大学生は、震えながら闇の中へと消えていった。


 俺は莉愛の肩に手を置き、その瞳を真っ直гуに見つめた。

「…泣かせて、ごめんな。莉愛」

「…圭佑くんの、バカ…っ」

 莉愛は、そう言って俺の胸に顔を埋めた。

「車に、戻るぞ」

 俺は彼女の肩を抱き、今宮が待つ車へと向かった。


 車に戻ると、後部座席の莉愛は、ただ静かに泣き続けていた。重い沈黙の中、運転席の今宮がバックミラー越しに俺を見て、軽口を叩いた。

「玲奈さんには、今日の件、言ってなかったんすか?」

「……あいつにやらせる仕事じゃない」

 俺が吐き捨てるように言うと、今宮は楽しそうに口笛を吹いた。

「へえ。妹さんも守って、お姉さんの手も汚させない、と。さすが兄貴っすね」

「…その言い方、やめろ」

 俺の苛立ちを乗せて、車は東京の夜を滑るように進んでいく。王として悪を裁く道を選んだ俺と、ただ一人の人間として俺を案じる莉愛。そして、その全てを面白がる共犯者。

 俺たちの歪な関係が、今、確かに始まってしまったことを、莉愛の涙が何よりも雄弁に物語っていた。

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