月の道 香に託せし 君の声 夜風を裂きて 駆けるはひとつ

夜の静けさに紛れて、微かな香が鼻を掠める


夕顔様にお仕えして来て、今まで夕顔様が焚かれた事のない香に違和感を覚える


何故急に…このような香を…


でも、これは知っている

薬草のような重く湿った香り

この匂いは…


鬱金ウコン…」


私は几帳の奥に視線を向け、静かに頭を垂れた後、香炉から立ち昇る煙に目を開く


なんと…黄色い香煙が…

これは、いかなる業…?


夕顔様は時々、不思議なことを言ったり、なさる


『ケセラセラー!ケセラセラー!』


『温かいうどんが食べたいわ』


『もし、右近が違う世界に生まれたとして…』


だからこれは、夕顔様なりの、何か…

でも、何…

そこで瞬いた


「鬱金…右近…」


名の響きが、香と重なる

それは偶然ではない

夕顔様が、わざわざこの香を選ばれた理由…


これは…私への文に代えて、御心の訴え

夕顔様が、危うきご様子にて!


すぐさま文机に向かい、筆を取る


私が出れば、夕顔様の名が傷つく

目の前の中将殿は高位の貴人

夕顔様をお守りするには、あの方しかいない…

宛ては、暁様


筆先が震える

焦りを抑えながら、言葉を選ぶ


「この世にて、夕顔様をお救い申し上げる御方は、暁殿をおいて他にあらず 今宵、夕顔様は普段なら焚かれぬ鬱金の香を、中将殿に選ばれました

これは夕顔様よりの御合図にて候

右近、忠義をもってこれを受け取り、急ぎ参上仕る所存にて――」


夕顔様の思いを託したこの一筆――暁様に届かねば、すべてが水泡に帰す


『右大臣家に代々伝わる香木と聞き及びます

それを夕顔様に託すとは…ただの贈り物ではございません』


暁様なら、すべてを守ってくださる…!


文をしたため終え、封を確かめるように指先で撫でた

裳裾を翻し、文を握りしめて廊を駆ける


「急がねば…」


邸の外へと駆け出す

夜の風が裳裾を巻き上げる

門番に声をかけ、馬を借り受ける


「急ぎ、暁様の御邸へ参上仕る

馬を一頭、貸していただきたい」


門番は驚いたように目を見開いたが、すぐに馬を引き出した


「どうぞ…お気をつけて」


私は文を胸に抱き、馬に飛び乗る

馬は驚いたように鼻を鳴らしたが、私の手綱に従い、すぐさま走り出す

夜の道を駆け抜ける蹄の音が、静けさを破り、月明かりに響いた


暁様に、この文を届けねば

夕顔様の御身を守るために


月の光が道を照らす

五条の町並みを抜け、宮廷へと向かう道は静かで、そして遠い


『迷惑など、まことに』


『それでは、今宵は香を焚きましょう

少しばかり、趣を添えて…』


『今宵は中将様との再会を祝して、特別な香です』


几帳の奥で、香を焚きながら微笑んでいた夕顔様の姿

その笑みの奥にあるものが、言葉にならぬ不安と祈りなら…


「どうか…暁様が、お気づきくださいますように」


馬の蹄が夜道を打つ音が、焦りを刻むように響いていた

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