香に映す 涙の影は 消えやらず 鶯の声に 心は翔ける

その夜、源氏の君は急ぎ二条院へ戻られた

衣の裾にはまだ外の風が残り、落ち着かぬ面持ちにて几帳の内へ入られる姿を見て、私の胸はひややかに凍る


なにゆえ、かくも慌ただしく戻られるのか

まるで何かを隠しているかのように…


君の背に、見えぬはずの女の影がちらつく

声を発することもできず、ただ胸の奥に重き思いを抱えた


私は、ないがしろにされているのではないか…


その疑いがひそやかに広がり、頬を涙が濡らす

几帳の内に身を隠し、心を閉ざす

忘れようとしても、君の背にちらついた影は消えず、胸の奥に沈みゆく


濡れる頬を袖に拭いながら、慰めはただ香を焚くことのみ


香箱に手を伸ばし、蓋を開けたとき、ふと漂う香


『菫が咲いているような…香りですね』


その匂いは、夕顔様の言葉を思い出させた


そうだ…香は心を映す鏡

誰かのために整えるものではなく、己が何を感じ、何を望むか、それが香となる…


袖で涙を拭い、香を香炉にくべる

細き煙はゆらめき、部屋を満たす

息を深く吸い込むと、再び夕顔様の響きが胸に広がった


『私は…蹴鞠を男性のように自由に蹴り、あの鶯のように、空を飛び回る人生も素敵だと思いますよ』


その言葉と香が心を静かに揺らす


慰めではない

私は、私であるのだ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る