未来変え 悩む心も 香とともに 希望の花を 咲かせんとす 2

冬が過ぎ、空気は柔らかくなった

春の陽射しが庭に差し込み、二条院では花見の宴が華やかに催されていた

桜の花が風に揺れ、薄紅の花びらが舞い落ちる

雅楽の音が遠くから聞こえ、貴族たちの笑い声が庭に響いている


そんな宴に、香を焚く役目として招かれた私は、春の気配を混ぜた香を調合し、静かに焚いていた

梅と沈香を重ね、ほんのりと桜の花の香りを添える

春の空気に溶け込むような、淡く、優しい香り


その時、蹴鞠がふいに私の足元へ転がってきた

拾い上げようとした瞬間、一人の少女が近づいてくる

紫の着物を纏い、まだ年端もいかぬ幼い面差し

艶のある黒髪が風に揺れ、あどけなさの中に、どこか気品を感じさせた


「若紫様」


侍女がそう呼ぶのを聞いて、私はもう一度少女の顔を見つめる


若紫…


その名に胸がざわめく


もしかして、彼女が…紫の上?


「芳しい香りがする香ですね

初めて感じる匂いで、心が華やかな気持ちになります」


少女は目を輝かせたように言った


「身に余るお言葉…

香にご興味がおありですか?」


「香は宮廷の貴族にとって教養の一つと聞きました

宮廷で貴族として生きるならば、必要な知識と思います」


私は蹴鞠を彼女に手渡しながら、ふと思った事が口から漏れ出る


「私は…蹴鞠を男性のように自由に蹴り、あの鶯のように、空を飛び回る人生も素敵だと思いますよ」


言った瞬間、紫の上は驚いたように私を見つめた


しまった、余計なことを口走ってしまったかもしれない…


「空を飛び回る人生…そんなふうに考えたこと、ございませんでした」


彼女はそっと手元の蹴鞠を見つめ、ぽつりと呟いた


「夕顔様、失礼しました

お怪我はございませんか?」


侍女が慌てて近づいてきて、私に軽く会釈する


「いえ、大丈夫です」


私は微笑みながら答えた

紫の上は侍女に連れられて去っていく

けれど振り返って私を見て、ふわりと笑顔を浮かべた


「夕顔様のお香、私にも今度教えてください」


その笑顔は、春の陽射しのように柔らかく、私の胸に小さな灯をともした



それから幾度か、紫の上は香を学びに私のもとを訪れた

二条院の奥、静かな香の間…障子越しに庭の桜が揺れるその部屋で…

彼女は香の調合に興味を持ち、香りの奥にある心の動きに敏感だった

その繊細さに、彼女の複雑な心境を垣間見る


「源氏の理想の女性」

その重さに、彼女が押し潰されることのないように…


春の終わり、庭の藤が静かに揺れていた

香を焚く部屋の障子を少し開けると、淡い紫が風にそよぎ、ほのかに甘い香りが漂ってくる

私は香炉の前に座り、紫の上が来るのを待っていた


やがて、足音も静かに、紫の上が現れた

絹の衣をまとい、まだ幼さの残る面差しに、どこか憂いを帯びた瞳

彼女は私の隣に座ると、香炉を見つめて言った


「今日は、藤の香りを混ぜているのですね

藤壺様の御前で感じた香りに、少し似ています」


私は頷いた


「藤壺様は、香にとても敏感な方です

香りの調合にも深い理解をお持ちですから」


紫の上は、少しだけ目を伏せた


「源氏様は、藤壺様のような女性を理想としているのでしょうか」


ぽつりと漏らすように、ため息を溢すように、小さな声で言った言葉


「源氏様の目には…

ううん、お心には

私ではなく…

藤壺様しか、映っていないのでしょうか…」


震えるような声で、俯いたままの彼女から視線が外せなくなる


「私は、源氏様の望むように生きなければならないのでしょうか…?」


顔を上げた紫の上と目が合う

その瞳は揺れているように見えた

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