みずき
「…… 俺、仕事辞めようかな。」
食卓で、翔吾がぽつりと呟いた。
ブブ、ブブ、ブブ……。
メッセージ通知が鳴り続けている。
「翔吾、それ誰?」
流石におかしい。夕月にもわかった。
「預かってる子の保護者。……多分、ストーカーって奴。」
憔悴した目で翔吾はスマホを見た。
「認知してって、どう言う事。」
「やっぱ見てたか。」
「ごめん。」
「……昔の遊び相手だった。2年生の子がいる、シンママ。」
彼が若い頃遊び歩いていたのは、夕月も知っている。
今までずっとこんなトラブルが無かったから、すっかり忘れていた。
「本当に翔吾の子どもなの。」
「わかんねぇ。でも、多分違うと思う。」
「……わかった。」
既読も付けないのに、翔吾のスマホは鳴り続ける。
どう考えてもまともな相手ではなかった。
翔吾が、違うと言ったら違う。
夕月はそう決めた。
「鮎川先生、今いないから出て大丈夫だよ。」
同僚の保育士が外を確認して手招いてくれる。
まるでパパラッチに狙われる芸能人の気分だった。別に気取っている訳ではなくて、毎日うんざりしている。
「いつもすいません。お疲れさまっした。」
「気をつけてね。」
「待って鮎川くん。私も帰るから、一緒に行こう。」
荷物を取り上げた翔吾の隣に、上司の藤岡が並んだ。
「……主任、すいません。」
「いや、本当に帰るから。でも、困った事になったよね。」
出待ちされた夜のことを防犯カメラで確認した藤岡は、すぐに対策を打ってくれた。
翔吾が勤務中1人にならないようにシフトを組み替え、鍵当番を外し、帰る時は誰かと同時に門を出るように同僚に呼びかけた。
「赤根さん、もうウチ遠慮して貰うしかないかな。課長に言っとくよ。」
「そしたら、珠里ちゃんは、どうなるんすか。」
「珠里ちゃんは……、」
「翔吾先生、藤岡先生。」
職員用の自動ドアを出る直前。小さな足音が追いかけて来た。
「珠里ちゃん?」
「どうしたの?」
2人を呼び止めたのは、話題の中心にいた珠里本人だった。
「……翔吾先生、先生が珠里にバイバイしてくれないの、ママのせい?」
「違うよ。鮎川先生は、たまたま、別の仕事してるだけ。」
真っ直ぐ見上げてくる珠里に、藤岡が答える。
「珠里ちゃん、お家でちゃんとご飯食べてる?怖いこととか無い?」
珠里なんかどうでもいいと言うみずきの声が頭に過ぎって、翔吾は聞かずに居られなかった。
「鮎川くん、その聞き方は……。」
「食べてる。」
渋い声が聞こえたが、珠里は素直に頷いた。
「でも、転校する度、ママが新しいパパが出来るよって言うの。パパいるのに。」
「え?」
「珠里ちゃんパパいるの?」
翔吾と同時に藤岡も声を上げた。
「うん。毎日は会えないけど、たまにお出かけするよ。」
「そうなんだ。パパ優しい?」
「お菓子とか、玩具とか買ってくれる。」
「そうなんだね。じゃあ、先生たち帰る所だから、また明日遊ぼうね。」
はい、タッチ、と手を出すと、僅かに湿った手が叩きつけられて珠里が走り去っていく。
「主任、俺、みず…赤根さんに、珠里ちゃんは俺の子だって言われたんすけど。」
「それ、私も聞いてた。……私も後でもう少し調べとくよ。」
もし、珠里に本当の父親がいるのなら、みずきと対峙しても揺らがずに済む。
完全に疑惑が晴れた訳ではないが、安心感が押し寄せてきた。
「牛乳ってこれ?」
「そっちじゃ無い、『牛乳』て書いてあるのにして。」
「壮良のヨーグルトも買う?」
「うん。りんごとニンジンのやつ。」
「みりん置いて無いけど。」
「お酒の所だってば。」
たまに家族でスーパーに来ると、いかに妻に家事を任せてしまっているか思い知る。
何せ「乳飲料」と「牛乳」の違いもわからないのだ。
ちゃんと表面に書いてあるのに、毎回同じ事を言われる。学生時代からずっと。
「荷物、俺持つって。」
「いいから、壮良抱っこしてて。」
荷物を持ちたがる夕月は、壮良が元気な事もあって、肩の力が抜けて来たと思う。ベビーフードも試す、と幾つか買っていた。
寄り添って歩く、日曜日の黄昏時。
自家用車の陰に、人影が蹲っていた。
「その人、翔吾の奥さん?」
しばらく聞いていなかった声に鳥肌が立った。
また1人きりで、赤根みずきが立ち上がる。
「赤ちゃんもいるんだ……、珠里だっているのに。幸せそうだね?」
粘っこく纏わりつく声を夕月の声が断ち切った。
「どちら様ですか。」
「翔吾、みずきのこと奥さんに言ってないの?信用されてなくて可哀想ー。」
わかりやすい挑発に、夕月は乗らなかった。
腕の中でむずがる声が上がって、翔吾は壮良を抱いた手に力が籠っていた事に気付いた。
「あっ……ごめんな……。」
慌てて抱き直して宥めるように背中を叩いていると、夕月が一度荷物を置いて抱き取ってくれた。
「……ちょっと、無視しないでよ。わかってる?翔吾だって、みずきのこと好きって言ってくれたんだから。この前だって、抱きしめてくれたんだから。」
「みずきさん。」
壮良を抱いた夕月が、一歩進み出る。
「翔吾は私の夫です。あなたには、渡しません。」
「夕月、あんま前に」
出るな。そう言いかけた時。
「何でよ……!!ズルいじゃん……!!!」
みずきが叫び、何かが西陽を弾いて光った。
反射的に身体が動いた。
夕月を引き寄せ、手を伸ばす。
掴んだ手には黄色い柄のハサミ。持ち手にぶら下がった小さな名札に『しゅり』と名前が入っていた。
「ズルいよ……!!幸せなんでしょ!?男くらいくれたって良いじゃん!!」
「みずき、いい加減にしろ……!」
女の細い手首に信じられない程強い力が込められていた。
ハサミの刃は開いていて、振り切られれば切られる。
どうにかハサミをむしり取ると、みずきはアスファルトに倒れた。そのまま、ズルい、死んじゃえ、と呻くように呪いの言葉を続ける。
いつのまにか周りに人が集まっていて、警備員がみずきを抱え起こしていた。
「翔吾、大丈夫だった?」
案じる夕月の声がざわめきを縫って届いた。
「夕月……、壮良……。」
「ごめん。ちょっとむかついちゃって、考えなしだったよね。」
ムカつくなんて似合わない言葉とは裏腹に、夕月は泣きそうな顔をしていた。
「……俺は、大丈夫。2人とも、怪我しなかったか。」
「うん。」
夕月の腕には、無邪気な顔をした壮良がいた。
2人を抱きしめようとした手に、珠里のハサミが残っていた。
とりあえずポケットに突っ込んだ時、気が付いた。
──母さんに似てたんだ。
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