第5話 花瓶とコンビニ


琴音は、立てかけられていた木蓮の枝を水切りし、花瓶に挿した。


 挿した木蓮の枝を見ながらカレーを食べ、野菜ジュースを飲む。

 野菜ジュースはまだ冷たくて、ガラスの向こうにいた男の気遣いが、体にゆっくり染み渡るような気がした。


 彼女は、チャイムが鳴ってからの一連の出来事を思い返していた。

 あの葉山と名乗る男は、何歳位なのだろう。


 声は少し低めだったが、あまり大人の世界に馴染んでいるような口調には感じなかった。

 まだ学生なのかな、バイトって言ってたし大学生なのかもしれない。男の子なのにすごく気遣いのできる人だな。


 ──どんな人だったんだろう?

 戸を開ければよかったかな。

 でも、すっぴんだったし、Tシャツの首のところちょっと伸びてるし、ジャージ履いてるし。

 玄関まで行って、戸を閉めたまま話すって変な人って思われたかな。


 塀からはみ出た枝、切らないとな。

 今切りにいってわたしの姿を見られるのも嫌だから、明日の朝に切ることにしよう。


 色々考えながら部屋でごろごろとしていた。

 気が付くと、レースのカーテン越しに、赤い、この一日も終わりそうな空を見つけて起き上がり、厚手のカーテンをピシャっと閉めた。


 ──拓海と別れてから、もうすぐ二年経つ。

 琴音は、たまに掃除をしたり、洗濯したり必要な身の周りのことはしているが、それ以外はしてもしなくてもどちらでもいいことをして毎日過ごしている。

 ただ生きるという事を繋げているだけ、彼女にとっては生きている意識もなく、今はこの日常が当たり前に過ぎていった。


 そろそろ生活を切り替えないといけない事はわかっているが、なかなか体が動かない。

 まぁ、それはおいおい考えるとして、一つ困ったことができた。


 今日の昼間に来た、あの葉山と言う男のことが頭から離れない。

 彼はどんな顔して、あのガラス戸の向こうにいたのか。

 どんな表情で、わたしに向かって話していたんだろう。


 枝を折ってから、わざわざ野菜ジュース買いに行ったのかな。

 枝なんか誰が折ったかバレないのに、ちゃんと挨拶に来るとか若そうなのに偉い。そもそも、枝が塀から出てる時点でこっちが悪いのに。


 次から次へと湧き出てくる思いを抑えるように、琴音は、今日の1日を終わるための瞼を閉じた。


 ……あ、また考えちゃった。


 そして、意識は遠のいていった──。



 琴音は、数日経っても葉山というガラス越しの男のことが、頭から離れなかった。

 あんな、野菜ジュースまで持って、謝りに来た男はどんな人なんだろう。

 わたしの家からわずかな距離の、ちょっと覗けば目に入るコンビニに、あの人がいると思うとなんとなく、そわそわした。


 ちょっと見に行ってみようかな。

 でも、わたしってバレたらどうしよう。


 この家にきてからは、ほとんど外に出ていない。

 母が5年前に再婚した相手は、個人経営の不動産の会社をやっている。 

 毎月一度、15万入った封筒と一緒に母親がこの家に来て、「あんたはいつまでこんなことしてんの」とか、「毎日何やってんの?お気楽でいいねぇ」とか、一通りの文句と嫌味を琴音にぶつけてから帰る。


 義父はこの先、自分に子供はできないと思っていたらしく、ひょんな事で結婚することになり、急に二人の娘ができた。女の子ということもあり琴音と姉には相当甘い。

 母親は、早く仕事を探せと言ってくるが、義父はまあまあとなだめて15万を母に持たせてくれる。

 母は娘が引きこもっている事に、いい顔はしていないが、再婚相手が自分の娘にも優しいところは嬉しそうだ。


 この生活になってから出掛けることはほとんどないし、特に他にお金を使うこともないから、出前とネットショッピングで生活の大半は賄える。


 そんな甘えた生活を送っているので、髪はぼさぼさで、メイクもしばらくしていない。

 最後にしたのは、たしかメイクのやり方を忘れそうだから半年前にやろうと思ったのが最後だったっけ──。


 この家の入り口を左に出て、2軒先にある角を左に曲がって3軒分歩けば、向かいにコンビニがある。


 そこに「野菜ジュースの人」がいると思うと、琴音は見たくて見たくてたまらなくなった。

 わたしは恋してるのか?

 顔も知らないのに?

 いやいや、そんなことは無い。


 ただ、男という生き物との接触がしばらくなかったから浮かれてるだけだ。

 それなら見たら気が済むんじゃないの?

 と、話は行き着いた。


 ──よし、「野菜ジュースの人」を見にいこう!


 琴音は近々、「野菜ジュースの人」をコンビニまで見に行くことにした。



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