第5話 囁き声

その夜も、十二時を過ぎると建物は息を潜めた。

 昼間は聞こえていた冷蔵庫の音も、水道の滴りも、まるで存在しないように止まっている。

 静寂というより、何かに耳を塞がれているような“圧”があった。


 眠れなかった。

 頭の中では田島の顔が何度も浮かんでは消える。

 あの行方不明者の記事の写真が、本当に彼だったのか確かめる勇気もない。

 布団をかぶって、時計の針の音だけを数えていた。


 十二時を五分過ぎたころだった。


 ――コン、コン。


 昨夜よりも、ずっと近い。

 壁の向こうから響くようなその音に、心臓が跳ねる。


 “また来た”


 息を止めたまま耳を澄ますと、廊下にかすかな擦過音が混じった。

 床を何かが引きずっている。裸足のような音。


 そして、声がした。


 「……あけて」


 血の気が引いた。

 声は小さく、くぐもっていて、それでも間違いなく聞き覚えがある。


 田島の声だった。


 「ねえ……寒いの。入れてよ……」


 思わず口を押さえる。

 涙が勝手に滲む。体が勝手に震えている。


 扉の向こうで、ノックの音が柔らかく変わった。

 ――コン、コン、コン。

 最初よりも軽く、まるで田島が優しく叩いているみたいだった。


 「……いるんでしょう? ねえ、いるんでしょう?」


 声は次第に掠れ、ひび割れ、やがて呻き声に変わっていった。

 ガリッ、ガリッ、と何かが木を削るような音。

 ドアの下の隙間から、黒い影が滲む。


 耐えきれず、目をぎゅっと閉じた。

 その瞬間、頭の中に別の声が響いた。


 ――「返事をしてはいけません」


 佐伯の声だった。

 あの無機質な笑みを浮かべたまま、淡々と告げていた言葉が蘇る。


 その声を最後に、すべての音が消えた。

 ノックも、声も、静寂に吸い込まれるように消えていった。


 朝になって目を覚ますと、ドアの下に何かが挟まっていた。

 拾い上げると、それは黒く焦げた名札だった。


 ――「Tajima」


 裏側には、焼け焦げた跡で数字が浮かび上がっていた。

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