第01話:魔王より、老王へ

玉座は、あまりに広く、冷たい。

かつて仲間たちの笑い声が響いたこの謁見室に、今は己の衣擦れの音と、遠い風の音しか聞こえない。

磨き上げられた床に映るのは、皺の刻まれた見知らぬ老人の顔だった。


前王は、四十年前、魔王を討ち取った勇者パーティーの一員だった。

若き日の彼は、自らの剣の腕こそが世界を救ったのだと信じて疑わなかった。

その誇りを胸に、彼は国を治め、民に慕われ、英雄として生きてきた。

数年前に王位を娘に譲った今も、その誇りは揺らいでいない。


だが、心のどこかで、ずっと一つの染みが消えずにいた。

共に戦った僧侶であり、最愛の妻。

彼女は、魔王を討った数年後、若くしてこの世を去った。

思い出そうとする妻の顔は、いつも悲しげに微笑んでいる。


そして、今の女王である娘。

妻の面影を宿す娘は、父とは正反対のやり方で国を治めようとしていた。

「力ではなく、慈愛こそが国を守るのです」

前王は、その言葉を若さゆえの理想論だと、心の内でせせら笑っていた。


「お前は、本当に幸せだったのだろうか……」

答えのない問いが、彼の心を四十年間、苛み続けていた。



風が、崩れた大広間を吹き抜けていく。

四十年前、魔王が世界を睥睨した城は、今や風と塵の住処だった。砕けた柱の瓦礫に、名も知らぬ蔦が絡みついている。


「……で、本当にこんな場所に『優しい唄』なんざあんのかよ」

リコの肩で、クロが疑わしげに呟いた。先ほどの彼の驚きは、目の前の荒廃した光景を前に、いつもの悪態へと変わっていた。


リコは答えず、ただじっと、大広間の中央に突き刺さる一本の古びた魔剣を見つめている。

彼女の「目」には、常人には視えぬものが視えていた。

四十年の時を経てもなお消えぬ、魂の「残滓(ざんし)」。

強い、あまりにも強い想いの痕跡が、その剣から陽炎のように立ち上っていた。


「……聴こえる」

か細い声が、リコの唇から漏れた。

クロが、心得たとばかりに身じろぎする。

彼女の耳は、生者が決して知ることのできない、死者の最後の声を聴き取るのだ。


リコはゆっくりと立ち上がると、その魔剣へと歩み寄った。

そして、何もない空間にそっと手を差し伸べる。

『伝えられなかった……我が生涯、唯一の悔い……』


憎悪ではない。絶望でもない。

四十年の時を超えてこの場に留まる魔王の魂。

その最後の想いは、驚くほど静かな、慈むような響きを持っていた。


『あの戦いのさなか……勇者一行の僧侶……あの女の腹には……新しい命が……あった……』

『そして……あの命は……無事に生まれたのだろうか……それだけが……心残り……』


それは、あまりに哀しい響きだった。

リコは、自分でも気づかぬうちに、その魂のために一筋の涙をこぼしていた。


『我は……その命の輝きに……剣を……鈍らせた……それだけが……真実……』


「……クロ」

リコが相棒の名を呼ぶ。

クロは翼を広げ、リコの腕に舞い降りた。


「へっ、高くつくぜ、この羽根も。さっさと届けて、元を取らねえとな」

憎まれ口を叩きながらも、クロの目は真剣だった。

クロはそう言うと、自らの胸から漆黒の羽根を一枚、くちばしで引き抜いた。

そして、それをリコの前に差し出す。


リコが、残滓に触れていた指先で、そっと羽根に触れる。

すると、魔王の魂が放っていた淡い光が、糸のようにリコの指先から羽根へと吸い込まれていった。

漆黒の羽根は、瞬く間に白く、硬質な羊皮紙へと姿を変える。

そこには、魂の記憶がそのまま転写された、インクの文字が浮かび上がっていた。



王都は、四十年間という月日が生んだ活気と喧騒に満ちていた。

その喧騒を遥か眼下に、一羽のカラスが城の尖塔で息を整えていた。


「ちっ、警備ばっかり増やしやがって。王様ってのは、一息つく暇もねえのかよ」

クロは、くちばしに咥えた羊皮紙の手紙を汚さぬよう、慎重に悪態をついた。


リコが待つ城壁の下からここまで、衛兵の目を盗み、城の飼いならされた鷹の縄張りを避け、ようやくたどり着いたのだ。目指すは、あの窓。前王の私室だという、塔の一室。


風を読み、一気に滑空する。音もなく窓枠に着地すると、彼はそっと羊皮紙を部屋の内側に置いた。そして、誰に気づかれるでもなく、再び空へと舞い上がる。


部屋の主、前王は、その時も一人、玉座に座していた。窓の外の喧騒など耳に入らない。彼の心は、四十年前の、あの最後の戦いと、妻の悲しげな笑顔の間を、ただ行き来していた。


「わしは、どこで間違えた……」

絞り出すような声が、誰に届くでもなく、虚空に消える。


その、答えのない問いに心が沈みきった、まさにその瞬間だった。ふと、開け放たれた窓枠に、一通の、あるはずのない羊皮紙が置かれていることに、彼の目が留まった。


差出人の名はない。だが、封蝋に刻まれた紋様を見て、前王は息をのんだ。

四十年前に滅びたはずの、魔王の魔力の紋様だった。


震える手で封を切り、そこに綴られた短い文章に目を通す。

そこに記されていたのは、四十年前に葬り去ったはずの、最後の戦いの真実だった。

己の力だけで掴んだと思っていた勝利は、敵の情けによって与えられたものだった。


「弱さだと……愚かだと、罵り続けてきた、あの『慈愛』に。わし自身が、そしてこの国そのものが、四十年間、生かされてきたというのか……」


前王の目から、涙が溢れて止まらなかった。

妻がいつも悲しげに微笑んでいた理由が、今、ようやく分かったのだ。

彼女は、夫の誇りを守るために、この真実を生涯胸に秘めていたのだ。


嗚咽が、静かな私室に響き渡る。

四十年分の後悔と、四十年分の感謝が、涙となって溢れ出す。


やがて、前王は震える手で、その羊皮紙を丁寧に折りたたむと、まるで最愛の妻からの最後の手紙のように、大切に胸元へとしまった。



城壁の下、リコは空を見上げていた。

すると、彼女の足元に、陽光の粒子がきらきらと集まり始めた。

役目を終えた魔王の魂が、最後の感謝を伝えにきたのだ。


光の粒子は、やがて一つの囁きを紡ぐ。

『……そうか、光は、繋がれておったか……礼を言う……』


魂が満足げに頷くと、光はリコの胸に下げられた、銀のペンダントにすっと吸い込まれていった。

ペンダントが、淡い光を放ち、温かくなる。

表面に刻まれた古代エルフの文字が、ゆっくりと形を変え、一つの矢印となって、遥か北の方角を指し示した。



町を離れる道すがら、クロが、どこか腑に落ちないといった様子でリコに話しかけた。

「なあ、リコ。結局、魔王は甘っちょろかったから負けたってことだろ。やっぱり、最後に勝つのは『力』だってことじゃねえか?」


その、いつもの彼らしい問いに、リコはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、涙の痕ではなく、何か大切なものを見つけたかのような、澄んだ光が宿っていた。


「……違うよ、クロ」

彼女は、静かに、しかしはっきりと答えた。

「力だけじゃ、守れないものもあるんだって、分かったから」


「……へっ。言うようになったじゃねえか」

クロはぶっきらぼうに言うと、リコの頬をそっと羽根で撫でた。


リコは立ち上がり、ボロ布の毛布をかけ直した。

視線の先、北の空に、一番星が瞬いている。

その顔に浮かんだのは、小さな、本当に小さな微笑みだった。


滅びゆく世界で、彼女の旅は続く。

「最期の唄」が、まだ見ぬ同胞の唄と重なり合う、その日を信じて。

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