シロネコ

市原たすき

第1話

 リョウは、ひたすら時間が過ぎるのを待った。

 自室のベッドで布団にもぐり、当直のユキコ先生が最後の見回りに来るのを待った。

 午後11時過ぎ、誰かが廊下を近づいて来る気配を感じた。

 ひと部屋ずつドアを開け、中の様子を窺っている。

 その足音やドアの開け方からユキ子先生だと分る。

 病気や新しく入園した子供がいると中まで入って来ることもあるが、それ以外は見るだけで通り過ぎることが多い。

 今夜もいつも通り、ドアを少し開けただけで隣の部屋へ移動した。


 廊下に先生の気配が無くなると、リョウは静かにベッドを出た。

 既に着込んでいた灰色のパーカーとジーパンに青色のジャンパーを羽織る。

 ベッドの下から、黒いバッグを引っ張り出して背中に背負うと、履き慣れたスニーカーを履いた。

 そして、使っていた毛布を丸めて抱えると、他の2人に気付かれないように素早く部屋を出た。

 明かりの消えた廊下を奥へ進む。

 バッグの中に懐中電灯を入れてあったが、目が良いから問題は無い。

 足音を忍ばせながらしばらく行くと、シロネコの部屋の前にたどり着いた。

 そっとドアを開けると、ほとんど同時に一番手前のベッドの子供が勢いよく起き上がった。

 リョウは慌てて他のベッドを見回し、誰も起きていないことを確認すると、人差し指を口の前に立てながらシロネコに手招きした。

 ベッドから這い出てきた彼女は、赤いトレーナーにジーパンを履き、既に白いコートを着込んでいた。

 リョウは、シロネコの全身を確認した後、近くにあった白いキャップを被せ、お気に入りの赤いスニーカーを履かせると、後をついて来るように耳打ちした。

 廊下に出た二人は、裏の非常口から外へ出て、一旦、物置の陰に身を隠したが、周囲に人の気配は無い。

 ここまでは上手く行った。しかし、ここからが問題だ。

 施設の周囲には、侵入防止用のセンサーが設置されていて、何かが出入りすると当直の先生がいる職員室の警報が鳴るようになっている。

 しかし、北側の畑に面した1ヶ所だけは、猫に感知することが多いため普段からスイッチを切っていることを知っていた。

 その場所まで行くと、フェンスの下に枯れ草が積まれたところがあった。あらかじめ作っておいた抜け道だった。

 念のためセンサーが感知する位置に手をかざし、職員室の方に耳を澄まして鳴らないことを確認した。

 枯れ草を除き、シロネコから毛布を受け取って地面に敷くと、リョウは仰向けに寝そべって器用に外へ滑り出た。

 それに倣ってシロネコが毛布に横たわると、毛布ごとフェンスの外に引っ張り出した。

「にいちゃん……」

 シロネコは不安な顔でリョウを見上げた。

 リョウは周囲を確認し、また人差し指を口の前に立てた。

 しかし、シロネコの目はすぐにリョウから逸れ、笑顔になった。

 その視線をたどって見上げると、夜空には、今まで見たことも無いほどの星々が輝いていた。

 

 リョウは、ここへ来た日からいつでも逃げ出せるよう人知れず準備をしていた。

 抜け道だけではない。施設の構造や職員の行動、最適な時間、抜け出た後の経路など、周到な脱獄囚のように、入所したその日から1年間計画を練り続けてきた。

 そこに1年という時間があったのは、ここを抜け出すことにそれほど緊急性を感じなかったからだ。

 施設や職員も、ほかの子供たちも気にはならなかった。

 小学校でも、養護施設の児童だからといって危害を加えてくる者はいなかった。

 大人びた顔つきに短めの髪。悟ったような二重の目。5年生で身長が160センチ以上あり、ずば抜けた運動神経を持つリョウは、畏怖されることはあっても、いじめの対象になることはなかった。

 だからこの計画を、今夜、実行することになるとは予想外のことだった。


 二人は、フェンスの外で服の埃を払い、衣服を整えると、毛布をシロネコの肩に掛けて歩き出した。

 途中、大きな通りを避け、あえて住宅地を歩いた。

 経験上、大きな施設や店にはカメラがあり、道路を走る自動車にもカメラがついていることを知っていた。


 リョウは、幼いころ両親が離婚し、母の実家で暮らしたが、7歳のころ母が病気で死んだ。

 その後、祖母と二人で暮らしていたが、生活は貧しく、学校へも行かずに家出を繰り返した。

 何度も見つかっては連れ戻されるうちに、自販機や車から小銭を盗むことや、ただで電車に乗る方法などを会得した。

 もっとも、見つかることは何も怖くなかった。祖母の家に戻るだけだからだ。

 ただ、少しでも遠くの知らないところへ行きたいという欲求に駆られ、家出を繰り返していた。

 ある日、たまたま2週間経っても捕まらなかったとき、逆に心配になって自分から交番に行ったことがあった。

 そのときは、リョウが家を出た直後に祖母が布団の中で病死していたため、捜索願いが出されていなかった。

 役場の人が火葬の手続きを進め、遺骨は祖父や母が納まる古い墓に埋められた。

 リョウは完全な一人となり、児童養護施設のひかり学園に連れて来られた。

 特に悲しくもなく、どちらかといえば清々せいせいとした気持ちだった。

 これからは何も気にせずもっと遠くへ行くことができる。

 祖母を嫌いなわけではなかったが、いろいろな病気を抱えて苦しそうに生きている姿を見るのは辛かった。


 シロネコは「佐藤マリア」という名の5歳の女の子だ。

 色が白いから、園の子供たちは、皆、シロネコと呼んでいる。

 肌が白く、目鼻立ちがはっきりして、瞳も髪も茶色。まるでフランス人形のようにきれいな子供だった。

 また、彼女が発見された際、今でも大事にしている白い猫のぬいぐるみと一緒だったことも、そう呼ばれている理由らしい。

 ユキ子先生の話によると、シロネコは5年前の冬、へその緒がついたまま毛布とバスタオルにくるまれ、市内の動物病院の前に捨てられていたという。

 そのときは大きなニュースになったということで、保管してあった新聞の切り抜きも見せてもらったが、幸い獣医師が発見し、すぐに措置されたことで命が繋がった。

 警察は嬰児遺棄事件として捜査したが、結局、何も判らなかったらしい。

 保護された後、シロネコは市長から名前を付けられ、ひかり学園に併設された乳児院に収用されたという。

 リョウが1年前にひかり学園に来たときから、シロネコはリョウになつき、今では「にいちゃん」と呼んでいる。

 家族のいないリョウも悪い気はせず、そのときからずっと妹のように可愛がっていた。


 リョウはシロネコの手を引いた。

 2人は線路まで来ると、線路沿いに、駅とは反対の方向に向かった。

 この街の駅は小さいが、駅員が常駐している。ホームもカメラで見られているから、早いうちに捕まる可能性が高い。

 隣の駅は無人だから切符も不要だ。カメラはあるだろうが、映ってもすぐに確保されることはないだろう。

 子供だけで家出をするのはとても難しい。

 大人なら大人たちの中に紛れることが可能だが、子供だけでいると、それだけで不自然に見られる。

 どこへ行っても、何をしてても、必ず「ひとり?」とか「お母さんか、お父さんは?」と聞かれる。

 だから、大人たちの目から完全に見えなくなるか、意識されないようにする必要があるが、今回はシロネコがいる。彼女の顔立ちや髪の色はとても目立つし、印象に残る。カメラの映像でも探しやすいだろう。

 そのため、長期間の家出はほとんど不可能に近いといえる。


 3か月前、学校が休みの日、リョウが部屋で本を読んでいるとシロネコが猫のぬいぐるみを持って部屋へ来た。

 彼女は、折り畳まれた封筒を見せながら、

「ミーちゃんのお腹からこれが出てきた」

 と言った。

 封筒を受け取って中を見ると、古い5千円札1枚とメモ用紙が入っていた。

 メモ用紙を開くと、黒色のペンで、

「Tut mir leid(ドイツ語で「ごめんなさい」の意)」

 と書かれ、紙の下の方には

「みなと旅館」

 と印刷されていた。

 リョウには、それが重要な物だということがすぐに分かった。

 走って園長先生に見せに行くと、数時間後には警察らしき人たちがやって来た。


 10日ほど経った頃、リョウとシロネコはユキ子先生に連れられて園長室へ行った。

 園長先生は、言葉を選びながらゆっくりと話した。

「猫ちゃんのお腹から出て来たのは、マリアちゃんのお母さんが書いた手紙と分かりました。お母さんは、ドイツという国から日本の大学にお勉強に来てたんだけど、マリアちゃんを生んだ後、何か用事ができてどこかへ行ってしまいました。だから、今、警察の人たちが、お母さんを探しています。でも、ドイツにはお母さんのお父さんとお母さん、つまり、マリアちゃんのお祖父じいさんとお祖母ばあさんが住んでいることが分りました。お二人にマリアちゃんのことを知らせたら、大喜びされて、今度、会いに来られるそうです。それまで、良い子で待っていてください」


 話はそれだけ。

 それ以上の説明は一切なかった。

 二人は、一旦園長室から出されたが、リョウだけが呼び戻された。

 到底納得できないという顔つきの彼に、園長先生はもう少し詳しい説明をしてくれた。

 あの後、封筒は警察が押収し、メモ用紙の指紋と中綿に混入していた微物のDNAから、5年前に捜索願いが出ているドイツ人女性が浮かび上がって来た。

 その女性は、ドイツ人の父と日本人の母の元に生まれ、横浜の大学に留学していた22歳の学生だったが、別の大学の留学生と称するロシア人男性と恋に落ち、アパートで同棲していた。

 しかし、暮らし始めて1年ほど経った頃、警察はその男性を盗難車の買い取りと不

法入国の罪で逮捕し、ロシアへ強制送還した。

 彼の正体は、偽造の旅券を使って入国した密航者で、留学の事実など無く、盗難車などを扱うヤード(中古車を買い付け、解体処理などをして海外へ輸出する事業所。中には盗難車等を安く買い取り、分解して輸出する「不法ヤード」と呼ばれるものもある)という場所で働いていたらしい。

 警察がそのことを女性に伝えたところ、しばらくの間、男性のことを聞きに警察に来ていたというが、そのうち所在が分からなくなってしまったらしい。

 その2か月後、ドイツから女性の父母が神奈川県警察本部に来て、捜索願いを提出した。

 警察では、犯罪に巻き込まれた可能性があるとして徹底した捜索を行ったが、所在は現在まで分かっていないということだった。

 今後、シロネコは祖父母に引き取られ、ドイツで暮らすことになるが、リョウには、彼女を穏便おんびんに祖父母の元に送り出せるよう協力して欲しいと頼まれた。

 リョウは思いつくままにいろいろな質問をぶつけて食い下がったが、最後は納得せざるを得なかった。


 リョウとユキコ先生が園長室を出て、廊下を歩いて行くと、食堂にシロネコが座っていた。

 窓側の席で一人、小さな背中が寂しそうだった。

「大丈夫か?」

 リョウが声をかけると、シロネコは振り向いた。

「アタシにも、ママ、いたんだね!」

 その表情は明るく、とても嬉しそうな声だった。

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