逃げない選択
2148年7月19日 18時40分
冴木市 白桜大学 冴木キャンパス 大サークル棟 旧文化研究会 部室
部室に静けさが落ちていた。
大学連盟文化協議会からの通達を読み終えた後、誰もすぐには口を開かなかった。
紙面には「全国大学対抗・旧文化研究会グルメバトル開催」と大きく記されている。
和食・洋食・スイーツの3部門で、各大学が旧文化の再現料理を競い合う大舞台。
「……俺は、出るべきだと思う」
沈黙を破ったのは、3回生の佐伯だった。
普段は温厚で冗談を交える彼が、珍しく真剣な眼差しをしている。
「この大会は、俺たちが積み重ねてきた文化復元の成果を社会に示す機会だ。
怖いけど、逃げていては何も変わらない」
その言葉に、数人が顔を上げた。
「でも、全国だぞ。他大学は相当な準備をしてくるはずだ」
「失敗したら、研究会そのものの評価が落ちるかもしれない」
不安の声が続く。
市民は旧文化に憧れを抱く一方で、
再現に失敗すれば「やはり幻だった」と冷笑されることもある。
「評価が怖いから挑まないのか?」
佐伯の問いかけに、誰も言い返せなかった。
旧文化研究会の存在意義は、まさに「失われた文化を現代に接続する」ことにある。
その役割を放棄すれば、研究会はただの懐古趣味に堕してしまう。
篠森悠真が腕を組み、飄々とした声で言った。
「まあ、確かに。大会に出るかどうかで、俺たちの本気度が試されてる気はするな」
彼は異能 《パーフェクト・パレット》で味の記録を担う冷徹な監査役だが、
その言葉には妙な説得力があった。
香坂璃音は冷静に付け加える。
「審査基準は“再現度”、“創意工夫”、“文化的意義”、“味の完成度”だったわね。
派手さだけで勝てる大会じゃない。私たちの研究姿勢を見せられるなら、十分戦える」
水無瀬湊が柔らかく笑った。
「それに、他大学の料理を実際に味わえるのも楽しみだよ。
僕らだけじゃ見えなかった“本物らしさ”に触れられるかもしれない」
議論は少しずつ熱を帯びていく。出場すれば責任は重い。
だが挑戦しなければ何も証明できない。
旧文化の復元は資料の模倣にとどまらず、
「今を生きる人々が納得できる形」を示す営みだと、皆が理解していた。
宮本は拳を握りしめていた。
彼女の胸には、初めてプリンを口にしたときの疑問が残っている。
あの揺れる黄色を「これこそプリンだ」と全員で言える日が来るのか。
――その答えを探すためにも、逃げるわけにはいかない。
「出場しよう」
最後に牧田教授が静かに告げた。
「文化復元は学内の遊戯ではない。市民に示してこそ意味を持つ。
恐れるな。失敗すれば学びになり、成功すれば歴史になる」
その言葉で結論は固まった。研究会は全員一致で大会への参加を決めた。
重苦しかった空気は一転し、部室には新たな熱気が満ちていった。
宮本の胸は高鳴っていた。
未知の舞台に挑む不安と同時に、「逃げなかった」ことへの小さな誇りが心を満たしていた。
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