029 銀狐と運命の一戦

 「モフさま即席肉球サイン会」で、心身ともに充実した疲労感を味わった俺は、昨晩はぐっすりと眠りについた。目覚めると『疲労度(0/10)』の表示があり、すっかり回復していた。


 それでも今日は公約通り、日向ぼっこでもしてまったり過ごすことにしよう。日向ぼっこなんてナンボあってもいいですからね。


 俺はガランとミーナの家の屋根へと飛び乗り、最高の場所を探す。朝方の少し冷たさが残る石屋根のひんやりとした感触と、あたたかい陽光、そして穏やかな風が俺の毛並みを優しく揺らす。


 隣のパン屋から、焼きたてのパンの甘く香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。それは、俺の鼻をくすぐり、食欲を刺激する。その直後、パン屋のティナが焼きたてのバタークロワッサンを片手に俺のいる屋根を見上げていた。


「モフさま、できたてだよ!」


 ティナの言葉を聞き、《ロックオン(食)》を発動しバタークロワッサンに意識を集中させた。そして、俺は迷わず屋根の上から《にゃんぱらり》を発動し、ひらりと軽やかに着地した。無駄に感じるかもしれないが、俺にとっては最高の使い方だ。


 ティナからクロワッサンを受け取ると、俺は感謝を伝え、すぐさまそれを頬張る。サクッとした食感の後に広がるバターの風味と、ほんのりとした塩味がたまらない。やっぱりこれですよ。


 パンを食べ終わる頃、村の広場から甲高い声が聞こえてきた。双子のミミとロッコが、俺を探しに来たようだ。


「モフさま!」

 

「だっこ~」


 俺を見つけると、二人は満面の笑みで駆け寄ってきて、いつものように思う存分モフモフしてきた。その小さな腕に抱きしめられると、俺の心は温かくなる。その後、俺は二人と少しだけ追いかけっこをした。


 再びガランの家に戻ると、ガランとミーナが優しく俺を撫でてくれる。


「今日はゆっくりしておきなさい。手伝いは必要ないわよ」


「そうじゃ。今日はごろごろ過ごすといい」


 俺は二人から大切にされていることを実感し、幸せな気持ちになった。


 お昼頃になり、俺はガランの家の隣にある井戸付近に移動した。


 最近作ってもらったエプマントを広げ、日向ぼっこ用のマット代わりにする。翡翠色の布は、太陽の光を受けてあたたかく心地よい。


 井戸のおかげで適度な湿度があり、ここも日向ぼっこスポットとして優秀だと、俺は新たな発見に満足していた。


 太陽の温かさと穏やかな風に包まれ、俺はいつの間にかうとうとと眠りについた。俺の脳内では、通知音が空気を読んで、静かに鳴った。




経験値獲得!

・日向ぼっこ 15EXP







「だれか! たすけて! まものが、まものがでた!」


 それは空気を切り裂くような、痛ましい叫び声だった。


 《感覚強化(視・聴)》が発動する。耳がキーンと鳴り、その声が、誰のものか瞬時に理解できた。パンのことも、昼寝のことも、一瞬で頭から吹き飛んだ。


「えっ? ミミっ!?」


 俺はすぐさま体を起こし、悲鳴が聞こえた村の北の方へと視線を向ける。昨日の会話を思い出し、状況を瞬時に把握する。今日は村長のセイルや狩人のラオなど、戦える大人は森の南西部に出払っている。


(このあたたかい日常が壊されるのはごめんだぞ! でも今動けるのはもしかして俺だけなんじゃ……?)


 俺は本能的にそう確信し、体が勝手に駆け出していた。足元の土を蹴り、乾いた砂埃が宙に舞う。枝が顔に当たり、葉がざわめく。


 すると村の中心広場には、泣いているロッコの姿が。


「ひっぐ。モフさま~。ミミが……もりに。ひとりで。バタースライム」


 ロッコの言葉から、どうやらミミがバタースライムを取りに、一人で森に入っていったようだ。


(……俺が……俺が、やるしかないんだな)


「……分かった! ロッコは危ないから家に帰っておくんだ! それから親御さんに伝えて! ミミは俺が助けに行くから!」


 そう俺が手早く伝えると、ロッコは首肯し走っていくのが見えた。そして俺は走る速度をさらに上げて森へ急いだ。







 森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 さっきまで聞こえていた鳥のさえずりも、虫の羽音も、すべてが一瞬で遠のく。音が消えたのではなく、「音がするはずの層」がまるごと抜け落ちたような静寂。あまりに静かで、逆に耳が軋むほどだ。


 その静けさの中で、鼻先にひっかかる匂いがある。発酵途中のパン生地をうっかり高温のオーブンに突っ込んでしまった時の、あの独特の焦げ臭さ──そこに、湿った石と夜露のような冷たさが混じっている。


(……嫌な匂いだ)


 森の北側入口の近く、わずかに開けた場所で俺は立ち止まった。高い樫の木の枝の上で、ミミが小さく身を縮こまらせているのが見える。その指は幹にしがみつき、節くれだった木肌に食い込むほど震えていた。


 そして、その真下には──


 夜霧が毛皮をまとって獣の形を取ったかのような何かがいた。


 体長は三メートル近い。全身を覆う毛は銀色を基調としているが、よく見ればそれは銀ではなく、細かい灰を塗り重ねたような銀灰色だ。毛並みの隙間では、ひび割れのような筋が淡く光り、光の角度によって黒や青紫の影がちらちらと踊る。


 まるで水面に映る月影を、炭の上に無理やり焼き付けたかのようなゆらめき。その輪郭は霧と影の境界で、常に微かにぶれている。


 細く鋭い瞳だけが淡い月光色の残照を宿し、こちらを静かに見据えていた。冷たい、けれど完全な敵意とは言い切れない、何かを探るような視線。


(……なんだ、アイツは)







 ――戦うのって、やっぱりだるい。


 それが真っ先に浮かんだ本音だ。


 だが、守りたい子がいるなら、話は別だ。


 ひとつ深く息を吸う。相手はなぜだか、俺が準備を整えるのを待っているように見える。動く気配はあるのに、一線を越えてはこない。


(……時間をくれるのか? それとも、他に理由が……?)


 考えても答えは出ない。ならばその猶予、遠慮なく使わせてもらおう。


 手持ちのを確認する。


 レベルは12。戦闘経験はほぼゼロ──これまで積み重ねてきたのは、パンの食レポで得た経験値だけだ。猫獣人ゆえ筋力は低い。でも敏捷性と感覚は高め。この長所を最大限に活かすしかない。


 戦闘に使えそうなスキルは四つ。


 《臨戦態勢(常時)》で集中力を底上げし、《にゃんぱらり》で回避。《やんのかステップ》で牽制とフェイント。《感覚強化(視・聴)》で命中率アップ。


 現在のMPは55。これらをすべて使えば45消費。ギリギリだが──


(時間を稼いで、隙を突く! それしかない!)


「……よし、行くぞ!」


 小さく気合を吐き出した声を合図に、銀灰の毛並みが月の波紋のように揺らめいた。淡く光る瞳が、わずかに細められる。


 気配が掴めない。息をしているのかどうかさえ分からない。そこにいるはずなのに、存在の輪郭だけがスルリと抜け落ちているような違和感。


 俺は銀狐──いや、ガランの魔物図鑑の特別なページで目にした名前を記憶の底から引き上げる。


(特別な魔物で、何かを、だったか?……確か名前は──)


「……ギンコ・カゲユラ」


 その名を口にした瞬間、銀灰の影が、はじめて明確な動きを見せた。


 音もなく、迷いなく、一直線にこちらへ!


「チッ……来やがったか!」







「《臨戦態勢(常時)》!」(MP55→45)


 視界の輪郭が、ぐんと鮮明になる。狐の毛先一本一本の震え、霧のように揺れる尾の軌道、わずかな土の沈みまでが手に取るように分かる。


 銀灰の影が、押し寄せる波のように迫る。速い。だが──


「《やんのかステップ》!」(MP45→40)


 左右に小刻みなステップを踏む。足の裏で土の弾力を感じながら、リズムをずらし、間合いを乱す。


 淡い月光色の瞳が、わずかに揺れた。


(効いてる!)


 一瞬の隙を見逃さず、横へ大きく跳躍!


 六本──に見える尾のうち一本が、死神の鎌のような軌跡を描き、鼻先を掠める。空気が、その尾の通り道だけごっそり抜けたような冷たさを残した。


「……あっぶねぇッ!」


(STM35……まだいける!)


 着地と同時に、ミミのいる樫の木の真下へ滑り込む。ギンコのヘイトがミミに向かないように。

 

 ミミを背中に隠すように立ち、前足を踏みしめる。


 ギンコの六本の尾が「ぶんっ」と一斉に広がった。だが数を数える間もなく、尾はゆらりと形を崩し、三本に見え、また六本に戻り、さらには八本にすら見える。


 尾の輪郭は霧のように不安定で、しかし中心だけは不気味なほど整っている。そしてその尾が、不規則なリズムで回転し始めた。風も起こらないのに、風切り音のようなものが遅れて耳に届く。霧がすれる音とも、焼けたパンの端がぱちっと弾ける音ともつかない、不思議な音色。


(……なんだよ、この動き……怖いな)

 

 でも、どこか喜んでいるようにも見える──そんな気配も感じた。







 再びギンコが低い姿勢で構える。今度はさっきよりわずかに重心が低い。霧のような毛並みの内側で、ひび割れた光がゆらりと揺れた。


 にらみ合い。一秒、二秒──永遠に続くような沈黙。


(尾の位置……前足の向き……肩の沈み方…………来る!)


 巨大な尾の一本が、鞭のようにしなり、地面を薙ぎ払う軌道で襲いかかる!


「読めた!」


 背後の樫の木の幹に前足をかけ、全身をバネのようにしならせて空中へ跳ぶ!


《にゃんぱらり》(MP40→25)


 空中で一回転。耳が風を切り、視界が一瞬逆さになる。だが四肢は、着地地点を正確に捉えていた。猫の本能が、体の制御を奪っていく。


(STM25……まだ回避できる!)


 身を翻し、最適な位置に着地──するはずだった。


 だが、着地点に、ぬるりと苔が広がっていた。


「くっ……!」


 足が滑り、体勢が崩れる。咄嗟に膝を折り、衝撃を吸収する。地面の湿り気と冷たさが、骨まで染み込んできた。


(STM15……限界が近い。ここからは、避けるだけじゃ持たない……!)







 ミミを背に、俺は再びギンコと向き合う。距離、およそ三メートル。もう退く場所も逃げ道もない。


 銀灰の毛並みの下で、ひび割れた光がまたひとつ灯る。狐の瞳が獲物を値踏みするように、いや、それ以上に何かを探るように細められた。


(ここで決めないと!)


《感覚強化(視・聴)》(MP25→10)


 世界の解像度がさらに跳ね上がる。土の粒ひとつ、風に紛れた焦げた匂いの層、ギンコの足元でわずかに舞う粉のきらめき──すべてがまざまざと焼き付く。


 右前足を振り上げた瞬間、指先に電流のような熱が走った。


 肉球の奥で、何かがチリチリと静電気のように鳴る。本能が、いや俺の魂の根源が叫んでいる!


(……この力を、解き放て!)


「──くらえッ!!」


 爪が鈍い鉛色に煌めいた、次の瞬間。


 ザシュッ!


 銀灰の毛皮を引き裂く──はずだった。だが、爪が触れた感触は、肉でも毛でもない。影と粉をまぜこぜにしたような妙な手応え。


 ギンコの体から、黒と銀のあいだの影の飛沫が宙に散る。飛沫の中で、粉のような微かな光がぱちんと弾けた。血ではない。そこにあるのは傷ついた影そのものだ。


 飛沫は、空中でゆっくりと形を失い、霧とともに森の闇へ溶けていく。


(浅い! でも──!)


 銀狐──ギンコが大きくのけぞる。動きが完全に止まったわけではないが、その輪郭が一瞬だけ、はっきりと個体として結ばれる。


「……どうだッ!」


 俺は体勢を整え、いつでも飛び出せるよう構えを取る。追撃が来ると身構えるが──ギンコはすぐには動かなかった。


(……なぜだ!? こちらはもう限界で、畳み掛ける好機だろうに……)


 銀灰の毛並みを揺らしながら、ギンコはしばらく俺を見つめていた。その月光色の瞳には獲物を仕留めるあの冷たい光だけでなく、どこか確かめるような色が混じっている。


 やがて、低くかすかな唸り声が喉を震わせた。それは怒りとも安堵ともつかない不思議な響き。


 次の瞬間には、銀灰の体が霧と影に溶けていく。六本の尾が月影のようにほどけながら森の奥へ滑っていき、気配そのものが消え失せた。

 


 ──その瞬間、全身から力が抜けた。



「ふぅ……まじで……やばかった……」


 膝ががくりと落ちる。熱い汗が毛の根元から噴き出し、鼓動が耳の奥で太鼓のように鳴り続ける。呼吸をひとつするだけで、肺の中まで炎になったかのようだ。


 自慢の白黒の毛並みは泥と汗でべっとりと張り付き、翡翠のマントも土埃と草汁まみれになっている。アドレナリンが引いていくにつれ、全身を覆っていた緊張がほどけ、代わりに激しい疲労と震えが押し寄せてきた。


 森の木々がざわめきを取り戻し、風が頬を撫でる。その何気ない感触が、やけに愛おしい。


(……ミミは? 村は?)


 視線を上げる。樫の枝の上、小さな影が震えているのが見えた。







 脳内に通知音。




経験値獲得!

・???と戦闘 1000EXP


レベルアップ!

・15→17(475/560)


スキル習得!

・肉球スラッシュLV1

爪を使った基本攻撃術。低確率でひるみ効果。STR+50%。


スキル成長!

・にゃんぱらり LV1→LV2

空中での体勢制御、落下ダメージを55%軽減。AGI+1%、VIT+1%→2%。


称号獲得!

・駆け出しの爪

初戦闘時に爪で傷を与えた者に与えられる。爪攻撃での威力+5%。


疲労度:8/10




「……は? 『???』って正体不明かよ! 倒してないのに経験値1000? レベルも3上がって……新スキルに称号も……」


(MP7、STM5、疲労度8……本当にギリギリだった)


スキル名にはもうツッコまないぞ……







 荒い呼吸を整えながら上を見上げる。


「ミミ、大丈夫か! 降りてこれるか?」


「う、うん……こわかったけど……」


 涙声で震える手で木の幹にしがみつくミミ。


「ずっと見てたよ、モフさま! すごかった!」


 木からするすると降りてきたミミが、涙を浮かべながら満面の笑顔を見せた。


 俺もようやく口元がゆるむ。


(こんな小さな子を守れた……前世では考えられなかった。デスクに向かい続けた日々では、誰かを戦って守るなんて……)


「レベル上げてスキル磨けば、もっと強くなれる……かもな」


 少しだけ、そんな確かな手応えを感じた。


 しかし同時に、全身を駆け巡る疲労感と、恐怖がもたらす急速な脱力感に、のんびり過ごしたいという本能的な欲求が打ち勝ってしまう。


「のんびり過ごしたいから、ああいう手合は、もうごめんだ。本当に、ごめんだよ」


 ……心の底から、そう思った。



 でも、またあんな状況になったら……俺はきっと、また動いてしまうんだろうな。


(早く帰ろう……)

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