022 やさぐれ神官ハンナと、オルガン演奏


「モフさま、本当にひとりで大丈夫? 迷ったりしない?」


「うん……すぐ近くだし、大丈夫だよ。ティナも無理しないで」


 パン屋の玄関で、ティナが何度も心配そうに声をかけてくる。


 香露ハニーブレッドの評判でパン屋は連日大賑わいだ。ティナも忙しそうに走り回っている。


 これ以上、彼女に負担をかけるわけにはいかないからね。申し訳ない気持ちと、彼女の優しさに感謝しながら、俺は背を向けた。


 俺はティナから受け取った秘伝書『パンくろっく』をしっかりと抱え、神殿へと足を向けた。神殿は村の中心にあるから迷うことはない。


 リーカ村の建物はほとんどが木造で素朴な作りだが、この神殿だけは異質だった。白く磨かれた石造りで、空に伸びる尖塔はまるで天を指差すかのようにそびえ立つ。


 ステンドグラスからは七色の光が差し込み、内部はどこまでも静謐な空気に包まれていた。


 神聖な空気が、肌を刺すように冷たかった。


 それは、単なる気温の低さではなく、人間の温かさが届かない、永い時の流れそのもののように感じられた。


(パンの魔の属性…………。そして、神殿図書館のリビか。一体、どんな話が聞けるんだろうな)


(……それにしても、この神殿、やけにデカいな。村の規模に合ってなくないか?)


 俺は胸の高鳴りを感じながら、神殿の重厚な扉を押し開けた。


 扉を開くと、ずっしりとした重みが両手から伝わってきた。







 神殿の中に入ると、外観の荘厳さとは裏腹に、どこか気怠い空気が漂っていた。


 広々とした空間の中央には、巨大なオルガンが鎮座しているが、誰も演奏している気配はない。


 しかし、どこを見渡しても埃一つ落ちてないほど清潔に保たれているのが、かえってその場所の異様さを物語っていた。

 

 静けさの中に漂う、微かな、しかし確かな緊張感。時間が止まっているかのような、不思議な感覚に襲われる。


 祭壇の脇に、一人の女性が椅子に座っていた。透き通るような白い肌に、腰まで届く白菫色の髪。


 虹色の瞳はどこかぼんやりとしていて、神官服を着ているにもかかわらず、その後ろ姿からは一切のやる気が感じられない。


 俺が近づくと、彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。


「…………今日は、何の御用で来やがったんですかねぇ」


 その口調は、まるで寝起きのような、気の抜けたものだった。その声は、重く、そしてどこまでも響かない。


(え、何だこの人。神官だよな? やる気なさすぎだろ……)


「あの、すみません。神殿図書館に行きたいんですが、場所を教えてくれますか?」


 俺が尋ねると、彼女は面倒くさそうに指を差した。


「ああ、図書館ならあっちですよぉ。奥の扉。でも、あそこは妖精族のリビが管理人だから、騒がしくしやがると追い出されますよぉ。あと、本棚に登ったりしやがらないように。リビがうるさいんで」


 彼女の言葉に、俺は思わず耳がピクリと動いた。本棚に登るな、とは、まるで俺の習性を見透かしているかのようだ。


(なんで俺が本棚に登る前提なんだよ……!? いや、絶対と言えないのが辛い)


「ありがとうございます。あの、あなたは…………神官様ですか?」


「ええ、そうです。神官のハンナですが、何か……?」


「俺、ユウマと言います。パン屋のティナに紹介されて来ました。魔の属性について、もっと詳しく知りたくて…………」


 俺が魔の属性という言葉を出すと、彼女のぼんやりとした虹色の瞳が、一瞬だけ、鋭く輝いた──


 が、それはすぐに消え、元の気だるげな表情に戻る。


「魔の属性、ですか。それは、この世界に満ちる『理(ことわり)の魔力』そのものですよぉ。パンに宿る魔は、他の五つの属性を繋ぎ合わせる『バランサー』のようなもの。パンを作る者の心が、この『理の魔力』と共鳴して、パンに宿りやがるんです」


(『理の魔力』? 『バランサー』? 何言ってるのか、ほとんど分からない…………いや、さっきの無気力そうな態度はどこに行ったんだよっ!?)


 彼女はそう言いながら、手元の数珠を指で弄んだ。


「まあ、詳しいことは、図書館のリビに聞きやがった方がいいですよぉ。あいつは、古い書物や知識を管理しやがっているから。あーしは、オルガンを弾くのが専門なんで」


 そう言って、彼女は再び祭壇の方に目を向けた。その表情は、まるで遠い昔の記憶を辿っているかのようにも見えたが、すぐに「あー、今日も眠い」と小さく呟いた。


「オルガン…………弾けるんですか?」


 俺が何気なく尋ねると、彼女の虹色の瞳が、再び、今度ははっきりと輝いた。


 そして、無気力だった表情に、微かな、しかし確かな熱が宿る。


 その熱は、彼女の全身から発せられ、空気を震わせるかのようだった。


「ええ、まあ。弾けますよぉ。このオルガンはね、ただの楽器じゃないんですよぉ。この神殿の『理の魔力』を増幅させるための、特別な装置なんです」


 彼女はそう言うと、ゆっくりとオルガンの前に座った。その指が、鍵盤に触れる。




 ──その瞬間、神殿の空気が一変した。




 ドォォォォン…………!




 地を這うような重低音が響き渡り、神殿全体が震えた。


 それは、ただの音ではない。


 魂の奥底に直接響くような、圧倒的な音圧。続くメロディは、荘厳でありながらもどこか不穏で、神秘的。低音の唸りが空間を満たし、高音の響きが天へと昇っていく。


 複雑に絡み合う音の奔流は、まるで世界の始まりと終わりを同時に奏でているかのようだった。それは音を超え、もはや一つの現象だ。


 俺の体の奥底から何かが揺さぶられ、全身の毛が逆立つ。


(な、なんだこれ!? これがオルガンなのか!? まるで、世界の根源が鳴り響いているような、とんでもない音だ…………!)


 オルガンの音色は、神殿のステンドグラスを透過する光を揺らし、壁に描かれた聖なる絵画が、まるで生きているかのように蠢いている錯覚に陥る。


 音の波が、光と影を操り、この空間全体を一つの生命体へと変貌させていく。


 彼女の表情は、先ほどの無気力さが嘘のように消え失せ、恍惚とした、しかしどこか悲しげな、複雑な感情が入り混じっていた。


 その指の動きは、まるでオルガンと一体化しているかのようだ。彼女の魂そのものが、オルガンの音となって、この空間に満ちていく。


 数分後、音はゆっくりと収束し、静寂が訪れた。神殿には、オルガンの残響だけが、微かに漂っていた。


 彼女は、再びいつもの気だるげな表情に戻り、フゥと息を吐いた。


「…………こんなもんで、いいですかね」


 彼女はオルガンの鍵盤から手を離すと、再びいつもの気怠い表情に戻った。まるで、夢から覚めたかのように。


 そして、彼女は俺に向かって、まるで「早く行け」とでも言うかのように、手のひらをしっしっと振った。


「ほらほら、いつまで突っ立っていやがるんですか。あーしのサボりの邪魔ですよぉ」


(サボりの邪魔って、堂々と言うな!? ってか、さっきまであんなすごい演奏してたくせに、この落差はなんなんだよ!?)


 そして、オルガンの音色のような通知音が鳴った。




経験値獲得!

・ハンナとの出会い 30EXP




(キャラが濃い神官様だな……でも、あの切り替えようは……プロの所作だと思ったけどね!)







 俺はふと、彼女の言葉に不思議な感覚を覚えた。


 無気力な口調とは裏腹に、魔の属性について語る彼女の言葉にも、そしてあのオルガンの音色にも、どこか深遠な響きがあった。


 特に『理の魔力』という言葉が、俺の心に強く残った。


(魔の属性は、他の属性を繋ぎ合わせる『バランサー』か……)


 ティナから借りた『パンくろっく』を抱え直し、俺は神殿図書館の奥へと続く扉へと向かった。


 彼女の言葉と、あのオルガンの音色が、これから出会うリビとの会話への、新たな伏線のように感じられた。



 そして、もう一つ。



 リーカ村の住人たちは、俺の猫耳や尻尾を見ると、いつも「モフモフしたい!」と駆け寄ってくるのに、この神官だけは、一度もそんな素振りを見せなかった。


 まるで、俺が猫獣人であること自体に、何の興味も抱いていないかのように。


(なんでこの人だけ、俺をモフってこないんだ? この村の住人にしては、珍しいよな…………まあいいか)

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