018 格別な香料と、本気のパン作り(前編)

 ──翌朝。


 俺はマイアからもらった「ルリ蜜」を眺めていた。


 淡琥珀色のその蜂蜜は、小さな瓶の中で光を反射し、まるで太陽の輝きを閉じ込めたように、甘く力強い香りを放っていた。


(……この蜂蜜を使えば、ティナのパンはもっと美味しくなるだろうな)


 そう考えただけで、俺の胸は高鳴った。期待に胸が膨らむような、抑えきれない高揚感が全身を駆け巡る。


 好奇心に抗えず、俺はそっと瓶の蓋を開け、指先にルリ蜜を少しだけすくった。とろりとしたそれをゆっくりと口に運ぶ。


 舌に乗せた瞬間、芳醇な甘みが口いっぱいに広がり、鼻腔を抜ける香りは、まるで一面の花畑を歩いているかのような錯覚を起こさせる。


 それは、単なる甘さではない。


 花の生命力、土の滋味、そして蜜蜂たちの勤勉さが凝縮されたような、複雑かつ奥行きのある味わいだった。


 一口で、この世界の豊かさをすべて味わい尽くすような感覚だ。


 ルリ蜜が舌の上でどのように変化し、どんな風味の層を解き放つのか。


 それがパンの生地と混ざり合った時、どのような「味の詩」を紡ぎ出すのか。


 その無限の可能性が、俺の脳裏に鮮明に浮かび上がった。







 パン屋へと急ぐ途中、俺はふと思い出したように足を止めた。


「そういえば、マイアが言ってたな……『パンの香りがさ、これでぐっっっと!化けるのよ!』って」


 マイアがルリ蜜と一緒に持たせてくれた、もう一つの小さな小瓶、「朝露の雫」。


 指先ほどの大きさのその瓶の中には、とろりとした透明な液体が入っていた。


 ガラス越しに見るその液体は、まるで朝露そのものが凝縮されたように透き通っている。


 少しだけ蓋を開けると、森の木々が雨上がりに放つような清々しい香りと、微かに花畑にいるかのような仄かな花の香りが混じり合う、複雑な匂いが鼻腔をくすぐる。


(これが、ルリバチから採れた香料……)


 見た目はただの液体だが、その香りはこれまで嗅いだどの匂いとも違っていた。パンの香りとは異なる、しかしパンに寄り添うような、そんな不可思議な魅力があった。


 俺は、ティナがどんな反応をするか、興味津々でパン屋のドアを開けた。


「ティナ、これ見て!」


 朝の仕込みに勤しむティナに、俺は小瓶を差し出した。ティナは泡立て器を止め、小瓶の香りを嗅ぐと、その表情をぱっと輝かせた。


 その瞳は、まるで珍しい宝物を見つけた子供のように、好奇心と喜びで満ちていた。


「あら! それはマイアちゃんが作った特別な香料じゃない! すごいわね、モフさま! もうマイアちゃんと仲良しになったの?」


 ティナは目を細めて俺の頭を撫でた。


(またそれか……)


 俺は諦め顔で頭を差し出した。もはや村のマスコットとして、この運命を受け入れるしかなかった。


「それで、この香料なんだけど、すごくいい香りね! これは……きっと『朝露の雫』ね!」


 俺が手にした小瓶を見て、ティナは目を輝かせた。彼女の視線は、香料の瓶に釘付けだ。


「これは、この時期のルリバチからしか採れないのよ! 香属性の中でも特別な子なの。入れるとね、パンの香りがまるで、朝の森を歩いてるみたいになるの!」


「森を歩く……? どんな感じだろう?」

 

「ええ! 一般的な香料と比べると、格段に香りの広がりが違うわよ! 今日のパンで試してみましょうか! モフさまも手伝ってくれる?」


 俺は二つ返事で頷いた。


 その後、近くにあった子ども用のエプロンとコック帽、マスクを拝借し、準備に取り掛かった。







 ぶかぶかのエプロンを身につけ、鏡に映った自分を見ると、子どもが背伸びをしているようで少し気恥ずかしかった。


(まあ今の年齢は12歳で、若返ってはいるけども……)


 特にコック帽は、ぴょこんと飛び出た猫耳にうまくフィットせず、何度か被り直したが、結局斜めに傾いてしまう。


(……うーん。エプロンはサイズが大きいし、帽子も猫耳に合わないなあ……。マスクから猫ひげがはみ出しちゃうし。そもそも裸だしな、俺……)


 俺は気を取り直し斜めのコック帽を直しながら、ティナの横でパン作りの準備に取り掛かった。


ティナは作業台から木製のボウルや木べら、計量用の小さな器や、発酵用の籠を丁寧に並べ始める。


 全てが長年使い込まれ、手入れが行き届いているのが分かった。


「モフさまには、このルリ蜜と朝露の雫の計量を頼むわね! この線まで入れれば大丈夫よ!」


 俺は緊張感を持ち、小瓶を改めて手に取る。


 指先ほどの小さな瓶に入った「朝露の雫」は、ガラス越しに見るだけで、森の奥深くを思わせる清涼な香りをわずかに放っていた。


 いつものように《ロックオン(食)》が発動する。視界がわずかに光を帯び、香りの粒子まではっきりと見える気がした。


(ロックオン(食)くん、働き過ぎじゃない? 過労死するよ……? まあいいや)


ルリ蜜の甘く力強い香りと、この清々しい香料。これらが組み合わさったら、どんな香り高いパンになるのだろうか。


 ──パンはただの食べ物ではない。


 素材の一つ一つが持つ力を最大限に引き出し、組み合わせることで、無限の可能性を秘めている。


 この香料は、その可能性の幅をさらに広げるものだと直感した。


「すごいね……このパン、きっと今までで一番いい香りになるよ!」


 俺の興奮が、率直な感想として溢れ出た。


 ティナは俺の言葉に目を細め、優しく微笑んだ。


「ええ、きっとね。パンはね、愛と素材と、そして香りが織りなす魔法なのよ!」


 ティナのその言葉を合図にするかのように、彼女の瞳に熱い輝きが宿った。


「よし、モフさま! 今日はこの二つの香属性素材を使って、最高のパンを焼きましょう! 私も本気のパン作りを見せてあげるわ!」


 ティナは腕まくりをすると、作業台の前にすっと立った。その一歩で、店の空気が一変し、わずかに引き締まる。穏やかな笑みは消え、瞳には一点の曇りもない強い光が宿っていた。



 それは、香りと素材のすべてを見極め、最高の一品を生み出す覚悟がある者だけが持つ眼差し。


 村の人々から託された想いを、必ず形に変える――そんな確かな意志が、彼女の全身から滲み出ていた。

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